蝶翳~
「猫は漬けもの石である。」
この写真集は、すこぶる強力なコピー本でもあります。
これも、何にも言えません。
バカボンのパパに何か言えますか!
というくらいのレヴェルです。
「よく気をつけて見ていると、足もとに、いつも無限の死がひそんでいる。」
死はこの国では探さないと見つからない。
葬式も家族葬でなかなか表に出ない。
お別れの会?は普段着を要請される。
死を何故隠すのか?
死人の顔を何故見せないのか!!
紅棘~
「南の午後、夏、一匹の蠅がわたしの体に影を落として二時間ついてきた。」
一面緑の叢。
蠅の二時間とはどのくらいの時間なのか?
匂い立つ緑の叢の中に時間等というものが果たしてあったのか。
「わたし」という運動体ー異物によって時制が生じた。
「影」の出現とともに。
「歩いていると墓場を巡っている気分になる街がある。そんな街の住人は、死人のようにやさしくて、めんこい。」
確かにあります。
田舎にあるかというと、そうでもない。
都会に残っているかというと、そうでもない。
でもふとしたところに、いまもみつかる。
それは、如何にも、といったところには、ない。
わたしの場合、背中に感じるような場所。
あなたは?
「ひとがつくったものには、ひとがこもる。だから、ものはひとの心を伝えます。ひとがつくったもので、ひとがこもらないものは、寒い。」
わたしがものに夢中になるとき、それは、それにこもった作者の心に共振しているからだ。
わたしがMacに心奪われるとき、スティーブ・ジョブスの理念に共鳴している。
機械による大量生産を経ても、それは消えない確かなものである。
天鏡~
「あの景色を見てから瞼を閉じる。」
そんな景色は恐らくは、何処かで見ているはずだが、思い出せない。
この写真を見ると、ここは、あそこだと解る。
藤原新也はそこを写真に撮ってしまった。
彼が死んだら真っ先に逝くところなのだろう。
写真で見てきたから迷うこともない。
「かつて標高四千メートルの、これ以上青くしようのない真青な空の下で暮らした。あれ以来、下界に降りて、いかなる土地に行っても空が濁って見えるという宿業を背負ってしまいました。」
究極を知ると、すべては中途半端になってしまうのですね。
中途半端な地平に垂直的なベクトルを探すのみです。
出家するのでなく。どこへ移動するでなく。
このままからそのままに。
彼の言葉がすべてそのまま「光画」と形象しています。
「言葉」が画像となるとこうなる、というものをまさに、見ました。
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2014年4月30日水曜日
2014年4月29日火曜日
メメントモリ -2
最近、写真展によく行くことがあったが、やはり良い物を見なければいけない、とこのメメントモリを見て、つくづく思った。
切るところが違うというだけでなく、絵そのものの次元が違う。
その写真家の写真は彼の言葉通りのものである。
「乳海」の章にある「あの、ヒトの群を見たとき、後光がさす、とは、朝日によって逆光されたヒトガタの輪郭が輝くのを言うのではないか、と思いました。」
この写真など、藤原新也だからこそ撮れる写真だと思う。
バーン・ジョーンズが藤原の言葉を理解したなら描けそうな絵だ。
朝日の中のこれだけ多くの群像。
上の言葉の元ではじめて掴まれた画像だ。
もっとカラッと白んだ昼空の中に後光にくるまれた人々を撮った写真家に東松照明がいる。
どちらも、光が何であるか知っている。
光を的確にとらえている。
光が主題化している。
この光のトーンこそがこの言葉を見事に実体化している。
「ありがたや、ありがたや、一皮残さず、骨の髄まで、よくぞ喰ろうてくりゃんした。」
三途の川とはこのようなものかと想うオレンジに静かに暮れる川面に、人骨とそれを啄ばむ鳥二羽の黒い影。
二色だけで描かれた寺の襖絵にも見える。
「眠島」から
「植物は偉大な催眠術師だと思う。」
この緑の抑えたトーンのやわらかで優しい光はまさに天然睡眠導入剤だ。
起きている必要性を忘れる。
植物の生に誘い込む写真。
「いねむりの中にも、覚醒がある。」
眠っているときの覚醒の写真が撮れるのは藤原新也以外にいるだろうか?
ベッドの横に置いておいた夢日記に記述しようとして出来なかった光景を思い出す。
「家にも体温がある。」
藤原の写真にはその場所の体温が写実されている。
どれも精確に。
他の写真家はその写真家独自の温度設定を写真に施す。
奈良原一光は彼独自の温度で統一する。
藤原は一枚ごとにその場所の温度を移す。
あたかも、そこから採取したかのように。
続きます、、、。
切るところが違うというだけでなく、絵そのものの次元が違う。
その写真家の写真は彼の言葉通りのものである。
「乳海」の章にある「あの、ヒトの群を見たとき、後光がさす、とは、朝日によって逆光されたヒトガタの輪郭が輝くのを言うのではないか、と思いました。」
この写真など、藤原新也だからこそ撮れる写真だと思う。
バーン・ジョーンズが藤原の言葉を理解したなら描けそうな絵だ。
朝日の中のこれだけ多くの群像。
上の言葉の元ではじめて掴まれた画像だ。
もっとカラッと白んだ昼空の中に後光にくるまれた人々を撮った写真家に東松照明がいる。
どちらも、光が何であるか知っている。
光を的確にとらえている。
光が主題化している。
この光のトーンこそがこの言葉を見事に実体化している。
「ありがたや、ありがたや、一皮残さず、骨の髄まで、よくぞ喰ろうてくりゃんした。」
三途の川とはこのようなものかと想うオレンジに静かに暮れる川面に、人骨とそれを啄ばむ鳥二羽の黒い影。
二色だけで描かれた寺の襖絵にも見える。
「眠島」から
「植物は偉大な催眠術師だと思う。」
この緑の抑えたトーンのやわらかで優しい光はまさに天然睡眠導入剤だ。
起きている必要性を忘れる。
植物の生に誘い込む写真。
「いねむりの中にも、覚醒がある。」
眠っているときの覚醒の写真が撮れるのは藤原新也以外にいるだろうか?
ベッドの横に置いておいた夢日記に記述しようとして出来なかった光景を思い出す。
「家にも体温がある。」
藤原の写真にはその場所の体温が写実されている。
どれも精確に。
他の写真家はその写真家独自の温度設定を写真に施す。
奈良原一光は彼独自の温度で統一する。
藤原は一枚ごとにその場所の温度を移す。
あたかも、そこから採取したかのように。
続きます、、、。
2014年4月28日月曜日
メメントモリ ~ 藤原新也
これはまず、決して普段の日常生活で見ることは叶わぬ光景です。
夢の中でもそうは見ないものでしょう。
死体だけなら、、、
自分が殺人現場に居合わせたり、遭難者を山や樹海のようなところで発見してしまったり、突然ほど近い場所にいた人がクマに襲われた、とかいう事件が突発的に起きれば、目にするでしょうが、その時は自分の身もかなり危機的状況に置かれているでしょうけど。
確かに今は、通り魔とか飛ばしすぎや気を失った運転手の乗っている車が突っ込んでくるという避けがたい事件が多くなっています。
特別な場所ではなく、極めて日常的な場所でそれは起きています。
しかし、この写真集にあるように、普通の道端や水浴しているすぐ近くにプカプカ人(行者)の屍が放置されていて、それがなぜかその場所に親和的で、きれいに見えていたりすると、死が大変近い場所なんだな、とその光景が自然に身に沁みてきます。
死体が写っていなくても、彼岸の光景を想わせるあまりに美しい畑など。
何かほっとする清く、牧歌的な風を感じます。
藤原新也の写真ー光画がすべて温かい救いに満ちた光を放っているからでしょう。
人だけでなく、犬も死んでいる。いろんなものが死んでごろごろしている。
これだけ死んでいれば、あるいは死を想わせれば、生きとし生けるものはみな死ぬということに、誰もが思い当たるはずです。
大変健全な姿、光景です。
こういったものこそどんどん見せるべきです。
今、Tvで放送されている子供向けの漫画や実写番組は圧倒的に暴力的で残酷、短絡的で想像性の欠けたものが多いです。これらは親としても見せたくはないのですが、選べないのです。ちびマルコのようなものがあまりに少なく。また一度見てしまうと、中毒気味に惹かれてしまうところがあります。本当に要注意です。
さらに藤原新也の凄さは、コピーにあります。
コピーは今や街にメディアはもちろん、Webに溢れ返っています。
すべて市場にわれわれを連れ出す誘い文句です。
そこへ、、、
「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。」
「太陽があれば、国家は不要。」
「死体の灰には階級制度がない。」
「つかみどころのない懈慢な日々を送っている正常なひとよりも、それなりの効力意識に目覚めている痴呆者の方が、この世の生命存在としてはずっと美しい。」
「眠りは、成仏の日のための練磨のようなもの。」
「母の背は、曠野に似る。」
「つらくても、等身大の実物を見つづけなければ、ニンゲン、滅びます。」
「花を真似た花は、花より愛おしい。赤子を真似た赤子は、赤子より愛おしい。」
「黄色と呼べば、優しすぎ、黄金色と呼べば、艶やかに過ぎる。朽葉色と呼べば、人の心が通う。」
「その景色を見て、わたしの髑髏がほほえむのを感じました。」
「こんなところで死にたいと思わせる風景が、一瞬目の前を過ることがある。」
「日光浴は生命をやしないます。月光浴は死想をやしないます。」
「祭りの日の聖地で印をむすんで死ぬなんて、なんとダンディな奴だ。」
「あの人骨を見たとき、病院では死にたくないと思った。なぜなら、死は病ではないのですから。」
この破壊力です。
上記すべて写真についたコピーです。ほんの一部です。
ちなみにこの写真集の巻頭の言葉。
ちょっとそこのあんた、顔がないですよ。
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