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2013年12月28日土曜日

The Dolphin Brothers / Catch The Fall

The Dolphin Brothersとは、Japanのメンバーであるドラムのスティーブ・ジャンセンとキーボードのリチャード・バルビエリのグループです。どうやら、彼らはボーカルのポップナンバーを発表する際にThe Dolphin Brothersと名乗るみたいです。それ以外のときは、”ジャンセン・バルビエリ”または、”ジャンセン・バルビエリ・カーン”だったりします。


アルバムによって、あら、外しちゃったと思うものと、最初から素晴らしいと分かっていて買うもの、そして未知数のもので多少の勇気を持って買ったら大あたりですごく得したというものがありますが、これは3番目に当たる大当たりアルバムです。

こういうのをご紹介できると嬉しいものです。


JAPANは断るまでもないビッグネームですし、デビッド・シルビアンはデビッド・ボウイよりも下手すると有名かも知れません。ミック・カーンもかなり名は知れています。しかしスティーブ・ジャンセンとリチャード・バルビエリのデュオだよ、と言われてピンとくる人はさほど多くはないと思われます。あくまでもJAPANのメンバーとして知っているだけの人が多いのでは。
そしてJAPANやデビッド・シルビアンなら即買いという人も、このデュオの音を聞いたことのない方は、微妙と思ってすぐに手は出せないかと推測します。

しかしまったく微妙ではありません。キーボードとドラムそして大変控えめなボーカルで、これほどポップで素敵なアルバムが出来てしまうのだ、というお見本のようなアルバムです。もちろんゲストミュージシャンとしてギターとベースは呼んでいます。
あくまでも基本はキーボードとドラムそして大変控えめなボーカルですが。
デビッド・シルビアンも間違ってもシャウトしたり叫んだりするようなボーカルではありませんが、この弟のほうは、さらに徹底してアグレッシブなものすべてと無縁に思えるボーカルです。
何言ってるか聴き取れない位のボーカルです。
スタイルとしてではなく、本質的に。
元祖草食系ボーカルと呼ばせてください。

このビートは骨格はしっかりしていますが極めて静謐であり宗教的な雰囲気を湛えています。
宗教と言っても大変激しいエナジーを真向から食らうタイプのものがありますが、その対極にあるものです。何といっても元がJAPANですから。

サウンドとしてはどの曲も大変聴きやすく、すーっと曲のほうから耳に入り込んでくると言ってよいような。また、旋律が良い。大変きれいです。そしてポップでテンポが速くても全くハードでない。もちろんヘビーにはなりようがない。そんな曲たちです。どれも。
でも軽やかとか軽いというのとは似て非なる音です。
核がはっきりあってしっかりしたヴィジョンに支えられ一音一音が確かに響いて流れてゆきます。
内省的に繊細にひたすら。


ブライアン・イーノを想わせるサウンドです。
一度聴いたらいつまでも耳に、脳裏に残り続けます。
ひとたび心を捉えたら忘れることは不可能な音楽です。

シンプルであるため何時でも何処でも思い出してしまう。


恐るべき呪縛的草食系!(小泉流に言えば)

YMOの高橋さんもお気に入りのデュオだとか。
ものすごく納得(爆

どこかで見つけたら、買いだと思います。
1987年Virginから発売。

それから、ビデオ・DVDがあったら、「NASAのPV」があるかどうか確認してみてください。
トワイライト・ゾーンのなかのあまりにも美しいPVです。曲はひたすら厳かで抒情的で静謐極まりなく流れ、淡々と巨大なロケットが昼でも夜でもない時間帯に運ばれてゆくドキュメンタリー映像です。まさに音楽と映像世界が一体化した、NASAの神々しい光景なのです。
これは、ドルフィンではなく、通常のジャンセン・バルビエリで作っています。








2013年12月26日木曜日

ピーターハミル ”Fool's Mate” 雑誌もすべて持ってます。


わたしの大好きなアーティスト、ピーターハミルについて書こうと思います。


渋いと思われる方も少なくないでしょうが、時折無性に聴きたくなるひとなのです。
頭の中でよく鳴り出します。
ロバートフリップやピーターガブリエルと並ぶロックアーティストと呼べるでしょう。


来日もしたようですね。
とてもファンとも思えない言い方ですが、私はもう15年はロックをまともに聴いていませんし、
お気に入りのアーティストの動向を追ったりもしていません。
コンサートなど行ける可能性が0である以上、CDに気づけば購入するかどうか、というところです。
最近は、もっぱらiTunesからのダウンロードで済ませてもいます。
CDは兎角がさばるので。LPよりはましですが。


そういえば、かつてiTunesから購入した曲がかなりの数消えているのですが、どなたかそのような経験された方いますか?
何故なのか、原因に思い当たることがないのですが、困りました。
一度、買っているので再度ダウンロードすればよいかとは思っていますが、曲自体、正確に覚えていないのです。



済みません。余計なお喋りでした。
では、今回からピーターハミルのアルバムについて書きます。
”Fool's Mate”71年ファーストソロ。(実はどれでもよいのです。ピーターの場合は。)
これに合わせて、日本でFool's Mateという音楽雑誌も生まれ、私は素人同人誌そのもののような創刊号からずっと読み続けていました。
当時編集長の北村さんという方から直接取り寄せていました。感性的に共鳴でき、音楽誌の中で一番好きでした。
基本ピーターハミル・VDGGファンクラブ的な出発と言ってよいでしょう。
確か北村さんは日野敬三さんと対談もされていたと思います。
そういう方の雑誌です。あらゆる面で、しっくり読めるはずです。次回が楽しみでした。


話を戻します。”Fool's Mate”です。
自身率いるバンド”VDGG”のアルバムと比べると、各曲が短くポップで軽やかで少しばかり温かみを感じますが、ピーター以外の誰からも出てこない魅力的なチューンばかりです。
VDGGの曲として出しても特に問題はないでしょう。何故ならピーターが手掛けるものはみな同じに聴こえるからです。そのボーカルと旋律からも。
ましてやこのアルバム、VDGGのメンバー全員が参加しているのですから、なおさらです。(あまりソロの意味もないような感じですが)


どの曲も明らかにピーターハミル節とでも呼べる独特の旋律ーサウンドそしてボーカルでハードに、ポップに、スローに流れてゆきます。
しかしその短さとポップさストレートさはVDGGの圧倒的に重厚・荘厳でドラマチックに展開するサウンドとスケールは異なります。
曲の尺の問題ですが。内容は死をテーマとしたものなど、いつもの内省的な世界です。
パンクの先駆けだと評する評論家がいましたがホントに達見です。
疾走するVDGGとでも呼べそうな。


何と、なかにはロバートフリップがマンドリン弾いている曲もあります。
ピーターは確かにプログレッシブロックアーティストでありますが、そのスタイルはルーリードが詩人であるように、ピーターも詩集を出版している純然たる詩人であるため、歌詩ーボーカルの重みが他のプログレとは異なります。所謂プログレがサウンドーインストロメンタル中心で歌詞を中に埋め込むのに対し完全に詩が中心に縦横無尽に謳われるサウンドです。ここがピーター&VDGGの特異なところです。


よくアルバムごとに曲が変わってゆき、成長が認められるという類のミュージシャンがいますが、ピーターには無縁の評です。
彼は最初からまったく変わりません。マサチューセッツ工科大学でグループが生まれてからずっと。
常に詩に旋律がそしてサウンドが纏わりついて複雑に展開・進行してゆき迷宮に我々を誘ってゆきます。
彼の作品群のどの断面を見てもそこに聴けるのはピーターの澄んだサウンドです。不純物0の。
100年間ずっとアルバムを出し続けていようと不変だと断言する他ないピーターのサウンド。
それを指して私たちは”ピーターハミル”と呼んでいるのです。


なお、もしピーターハミルを初めて体験されるのなら、このアルバム推奨します。 彼の世界のエッセンスが詰まっていますので。

2013年12月15日日曜日

またも刺繍作品!

清川あさみ氏による、半立体作品とも呼べそうな、こってり立体化した刺繍作品を知りました。
展覧会には間に合わなかったので、パンフレット資料からなのですが。

「美女採集」と名づけられた一連の作品では、女性を撮った大きな写真に積み重ねるように糸が張り巡らされ交錯し相当な厚みで刺繍が縫いこまれています。
スパンコールもたくさんついて大変装飾的な作品です。
テーマは写真の女性とそれに合う動植物との融合ということで、
例えば堀北真希さんは、グッピーとの融合を果たしていました。
写真のモデルはすべて有名な女優さんでした。
他には佐々木希さんとか、吉瀬美智子さんなどCMにもよく出ている人たちです。

広く女性たちから支持を受けているようで、華やかな作品です。
さらに今回は「男糸」という新たなテーマで、俳優の写真をもとに刺繍作品を手掛け、迫力と逞しさを表現しています。
テーマも広がり今後の展開も面白いものになりそうです。

今度は是非、近くでよく見てみたいものです。裏側からも見たいです。かなり面白い模様が見れるはず。

2013年12月14日土曜日

神奈川県立弥栄高校芸術学科美術専攻展

相模原市民ギャラリーにて、12/13~12/15まで開催。なお、最終日は14:30終了。

弥栄高校の美術専攻科の女子高生たちの制作した様々な作品の総合造形展です。

・油絵   ・日本画   ・彫刻   ・版画  ・クラフトデザイン  ・マルチメディア  
・ビジュアルデザイン   ・総合造形
以上、8つの専攻に分かれています。造形関係をすべて網羅してますね。


遠藤彰子氏からも指導を受けたり、イタリア姉妹校交流を通し審美眼を養っているそうです。羨ましい限りです。恵まれた教育環境です。

○1年生作品。
西湖での合宿で描いた「風景画」です。
まだカンバスは使っていませんが、デッサンの勉強を主体にしている様子でした。
基本的に線描をしっかりやって塗り絵的に色を上から塗りこむかたちです。
まずは「線」からということで、この次の専攻課程からそれぞれなのでしょう。
形を構造的に捉えることは大切です。

○2年生作品。
イタリア旅行で吸収したものを成果として発揮しています。(イタリア留学っていいんですねえ)
のびのびと自分のテーマを表現しています。
意欲的な作品ばかりでこちらが嬉しくなります。
絵もカンバスで60号以上のものが並んでいて堂々としてます。
なかでも、日本画にはワクワクさせるものがありました。
日本画の伝統技法にのっとって、ゴッシク調でオカルティックなテーマを耽美的・退廃的に描いたものなどよいですね。これからの日本画の可能性を感じます。特に「寄生」には日本画の形式も逸脱しようとする筆の動きがありスリリングです。
また情念的なことではなく「昇華」などの物理現象に着眼する点も興味をひかれます。イメージが溢れ出てますね。
「星空」はまた秀逸です。アトリエの構成要素を星―星座にダブルイメージさせるなど素敵なアイデアです。
背景に伝統文化に加えアニメ文化の要素が絡み合っていることが分かります。

日本画以外の作品もテーマの追求がよくなされたものが目に付きました。

○3年生作品。
卒業制作ですから、よく練られています。
ここでは、油絵にまず目を惹かれました。
「卒業」コラージュで同一画面に立体的に異なる時間を共存させるなど、勉強してるなと思わず感心しました。夕日の逆光に包まれた不敵な笑みを浮かべる横顔の自画像などなかなかなものです。
抑えたトーンで統一した色調で描かれた肖像画「いとまごい」も方向性は決めていますね。これをしっかり純化していくとひとつの作風ですね。勿論、この方向性の先輩画家は結構いますので、打ち出していくものを鮮明にしていくとよいと思われます。好感のもてる絵です。
「海坊主の夜」というのも面白いです。普通、一つの絵に複数の手法は導入しませんが、ここでは、面も点も線もすべて同質の面積の異なる面と見るべきのようです。それらの要素がグラフィカルに絡んで全体をまとめ上げています。遠近法の強調も効いています。
実験的で挑発的な作品が目に付きました。

日本画も勿論よかったです。この高校は日本画に力をかなり入れている印象をもちます。
他に版画もそれぞれ手法が生かされていました。

平面以外にも彫塑も動勢・量感ともにしっかりあり、、「クロサイ」「家族鍋」「みにつケーキ」等々よくできた楽しい作品がありました。
文庫本の装丁もよかったです。いわゆるエディトリアルデザインですね。

マルチメディアでは、映像作品への取り組みが見られました。
これから、どんどん進めてもらえればよいと思います。
photoshop,aftereffect,premiereなどが使われていましたが、まだ活用余地はいっぱいあると感じられます。MAYAを使って3Dとかにも発展していくのもよいかも知れません。勿論、ワークステーションが前提として必要ですが、学校なら十分大丈夫です。最低3台もあれば出来るでしょうし。
またメディア課と他の専攻との合同でインスタレーション作品を作るのも楽しいでしょうね。その際は、合同でのプログラミング学習も組むとよいと思います。自宅課題だとちょっとキツイかも知れませんので。


ザクッとした見た感想ですが、最後に1年生の作品でしょうか?
「なりきり絵画」!これはヘタすると一番面白いコーナーです。
観賞学習としての効果は十分あると思われますが、もうその「絵」になることで無我夢中という感じですね。とっても楽しかったでしょう。これをやって癖になる人も出てくるのでは。実際こればっかやってる画家がいますね。
でもここの一年生は、遥か上を行っています。なんせ人でないものになったり、群像をやったり、つぼの模様や抽象画にもなってしまっています。抱腹絶倒!ちょっと真似できません。
まさに、ここまでやるか、というノリです。びっくりしました。
また、一般にあまり知られていない画家の作品を取り上げているのもよいですね。確実に観賞学習となっています。

とても贅沢な勉強をしているな、という印象を持ちましたが、マルチメディアなどもっとお金をかけてもらい、もっと面白いものを作ってもらえると、来年の展覧会がさらに楽しみになります。


作品の照明には十二分に気を使ってください。
せっかくの生徒作品です。





2013年12月12日木曜日

「ヌリナビ世界の絵画シリーズ」というアイテム

画家の名言はちょっと待ってください。


ただ、ゾンネンシュターンって何者?
という知人からの話もあり、ゾンネンシュターンの絵は私自身もじっくり見てみたいと思いました。
いろいろ見ているうちに、名言どころではなくなりました。
今度またその機会は持ちますので、そのときは宜しくお願いします。

「女からの逃走」をその知人に紹介しましたが、すぐに彼ものめり込んだようです。
しかし、中途半端はゾンネンシュターン氏に怒られます。

ちょっとしたファンです、は無いです。
徹底的に見てもらわないと。

なにせ唯一無比の強烈な存在ですから。



そんな話をしてから、これはないですけど、
変わったものを見つけましたので、ご紹介です。

もう実際に作った経験のある方もいらっしゃるかも知れませんが、
「ヌリナビ世界の絵画シリーズ」というものです。
面白いといえば面白いでしょうけど。
見た目、パズルという感じもしますね。
パズルなら名画ものはたくさんあります。
しかしこれは、カンバスへ絵の具を実際に使って塗り絵をするのです。

多分、そんなことゾンネンシュターン先生が是と言うはずないですが、
中途半端な余暇を楽しむ人々には、むしろワンランク上の趣味になると良いと思います。
何故なら、パズルをやるより遥かに絵の勉強になります。とくに色面分割の勉強に。

カンバスには、薄い線で細かく面が区切られており、その小さな面には数字がふってあり、
その数字に対応した色を塗っていくのです。
勿論、「絵画」とは根本的に本質的に違うものですが、こういう色の組み合わせで絵が成り立つのか、ということを実際に筆で色を塗りながら確認するのと、ぼやっと前を通り過ぎながら見るのでは雲泥の違いです。タッチ等の重要な要素はすべて抜け落ちますが、そう{アングル}などならもともとツルツルの絵ですから、合っているかなと思いきや、色の面も塗り分けは効きませんでしたね。

セザンヌの絵がお見本にありました。印象派の絵が適しているようで、それっぽい絵がガイドラインに沿って塗れば、見栄えのあるものが出来上がるのです。かなりの達成感はもてるはずです。夢中になる人も出るはずです。もともと細かい作業は人を夢中にさせるものですから。

ゾンネンシュターン先生も大変細かい作業はされています。
ここだけは一緒かも。

「ヌリナビ世界の絵画シリーズ」
パズルよりは絵においては、勉強になる遊びだと思います。
パズルにしようか、これにしようかと迷われたのなら、こちらをお勧めします。



2013年12月8日日曜日

画家の名言その1

画家の名言の特集です

わたしの好きな画家限定です。
面白い画題も含みます。


1.ゾンネンシュターン

が死んだら起こしてくれ」

余は世界にもっとも美しい、もっともおぞましきイメージを生業とする者なり」

人類は、中途半端という病を病んでいる


2.赤瀬川原平

「つまり『説明的』とはそういうことだ。それらしいというだけで『それ』の構造の核心が欠如している」。

「アングルのアトリエはビニール工場だ」



3.ダリ

「人々に、『ダリは一般人のようには死ななかった』といわせるために、わたしは冬眠を選ぶ。」

「冬眠に際して、肉体の主要部分は肛門だと思う。なぜならば、冬眠する動物がまずすることは、新陳代謝を保つために、糞と泥でできたねり粉のようなもので尻の穴をふさぐことだ。それはまた親密さの保証でもあるのだ。」




4.モネ

「私が盲目に生まれ落ち、ある日突然、目が見えるようになったのならどんなに素晴らしかったかと思う。そうすれば、目の前に存在する事物がなんなのかということを知らずに描けるからだ。だから君たちが戸外に描きに出るときには、目にする木とか畑というものの形にとらわれてはいけない。そういうことは忘れて、ただ、ここに四角いプールがある、あそこには矩形のピンクが、黄色い線が、というぐあいに感じ、そのままをカンバスに描きなさい。新鮮な印象をそのまま塗り込めばよいのです。」

「全ては千変万化する、石でさえも」



5.セザンヌ

「モネは目にしかすぎない。ああ、だがなんという目だろう!」

「自然のなかに、円筒形と球形と円錐形を見なさい」



6.ゴーギャン

「われわれはどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか」

「私は、死以外に我々をすべてから解放してくれる出口を見つけることができない」



2013年12月6日金曜日

「こども絵」

「こども絵」が六本木の森アーツ・センター・ギャラリーでおこなわれます。
来年の4月開催です。
今回はローカルニュースではありません(笑
「こども絵」等と云うと、子どもの描いた絵か、と思われる方もいるかもしれませんが、
巨匠たちの、こども(自分のこどもも含め)を描いた作品の展覧会です。

ピカソ、ルノアール、ルソー等の贅沢な画家たちの子どもや家族との繋がり、最近の流行言葉でいえば、「絆」でしょうか、それが窺えるものになるはずです。
もちろん個性的で独創的な「こども」がたくさん見れるはずです。


いつもと違う観点から、絵を楽しむことができるのでは。
ワクワクします。

  

蛇足ですが、最近子供が描いた絵を、「保管から展示へ」という形で、ポスターにしてくれるサービスがあります。
さらに、子供の絵から何と、「ぬいぐるみ」を作ってしまう人たちもいます。この方たちは、アーティストから完全にビジネス化して制作している人まで、いるようです。

2013年12月4日水曜日

ピカソ 

今日は何故かピカソについて一言述べてみたくなりました。
ピカソの全体像と言うのはもしかしたら驚くべきシンプルなものかもしれません。
とてつもない巨人ですが、かつてないほど、何と言うのか、本源的なヒトと言おうか?


ピカソを観て、つくづく思うのは、世にあるすべてのものは彼を突き動かす媒介であってまた、触媒にすぎないのだということ。
クレーにもそれは顕著ですが。
ピカソには、はっきりそれが窺えすっきりするのです。
多分方法を持たない裸眼によって。
ピカソにはルールがない。
ただ凄まじい好奇心と意欲によって。
クレーは理論によって、エルンストは方法・手法によってある意味、作品の生成過程を自ら構造化してみせ、その研ぎ澄まされたツールをガイドに、作品をさらに純化していきました。
もちろんクレーやエルンストのような優れた画家が自らの理論や手法に従属し、自分のスタイルを模倣・反復するような画家でなかったことは云うまでもありません。

例えば少なくともピカソの「アビニョンの娘たち」は、主義として描かれたものではないです。それを彼が確立したというのではなく、究極的に推し進め続けた、というだけです。立体派等とはすべて評論家のつけたレッテルであり、ピカソはものの真実に迫ろうとして迫っただけのことです。

われわれが自然に物に接するとき、それまでの絵画や写真のように凍結した時空ー対象に接している方が不自然です。われわれはひとつの対象に対し、様々な面を瞬間毎に有機的に統合して「見て」います。観るというとき常に遅延しています。眼球自体高速微動しており、画像は記憶による編集を経ています。それが生理的前提としてある上で、常に自分も対象も運動しながら(クレーやボッチョーニの語るように運動こそが存在することの本質です)その外延する動きの総体で対象を捉えています。対象を見るとき、様々な視座を常に自然においている。それを単に精確に描ききろうとしたまでです。別にそれまでと変わった絵を描いてみましょうというスタイルー主義の創設意欲など端からない。

ピカソは様々な形で造形を試み、自分の打ちたてた主義を次々に打ち壊して新たなスタイルに挑んだと言われますが、もともとそんな関わり方などしていません。
彼はいろいろなモノを組み合わせオブジェ、彫塑を作っており、あらゆることをし尽したように見えて、ミケランジェロのような大理石彫刻はやっていないです。
そういえば、そうでしょ!
多分、大理石という素材はピカソにとって、彼がなにかを作り出そうとするための媒介・触媒の顔をしていなかったのでしょう。

ことピカソに関してはことごとく理屈は後付けに過ぎないことが何やらしっくり腑に落ちます。すべてのひとつひとつの創作が、単に新たな直接的な関わり以外の何ものでもなかったに過ぎない。
この不断の好奇心。本源的な汲み尽くせぬ意欲。これが少年期にすでに到達していたあの究極の成熟しきった技量と相まって、媒介の触発で何でも新たに創造していくこととなった。
興味の向かないもの、触手の動かぬものには見向きもしないのは、極めて自然だと思われます。何故、大理石彫刻をしなかったのか、など知ったことではないはずです。何らかの理屈は付くかも知れませんが。
所謂、彼自身芸術とか主義とかそんな派閥的な思惑ー枠から何かを作ってきた訳ではなく、もっと本質的な本源的な力で対象に直に関わってきたのです。
芸術家、言葉の真の意味での芸術家であったヒトです。


今回はこの一点だけにします。

2013年12月2日月曜日

ルノアールをカフェ・ルノアールで



ルノアールで一番好きな絵は、「イレーヌ・カーン・ダンベール」です。
ただ、ひたすら美しい少女像です。同様に美しいものに、ロココ期の画家フラゴナールの「読者する女」があります。
比べてみるとどちらも良いのですが、一歩さらに絵として進化した姿というと、ルノアールのものです。。なんというか一つ更に絵が自由になっている。
どこがというと、端的に示せるところは、背景です。
フラゴナールは、対象と背景を完全に違うものとして描き分けています。
しかし、ルノアールは、キャンパスの中はすべて「絵」になっています。
描き方は変わらない。画布の中味はすべて絵の対象。
フラゴナールにとっては、「読書する女」だけが対象。
背景は背後に退いていればよい。主題とは異質で等質に広がる空間が開けていれば、よい。
そこに、ルノアールと比べると絵として硬いというか、生命感、体温に少し乏しさが感じられます。
しかし、レンブラントのような暗闇にはなっていない。色彩の充分感じられる暗がりであることにホッとします。
ルノアールの作品は絵画全体が生命の喜びの脈打つ清々しい輝きがあります。

しかし、どちらの絵も、筆跡はとても素晴らしい。自由闊達な名人芸といっても良いものでしょう。
色彩もフラゴナールは印象派にあと半歩まで独自に迫っています。
もし、ルノアールと同時期に彼が絵を描くライバルの画家でしたら、大変優れた印象派の画家になっていることは容易に想像できます。
ともかく、どちらの絵を見ても、仏頂面になるような人はさすがにいないでしょう。
この心地よさは、単に見るというより、恐らくわれわれに触れるような姿勢を促してくる絵であるとこに窺えます。それは全てタッチの妙です。見た印象ではなく、触れる印象です。この意味ではフラゴナールはロココを超越しています。色彩の面でも明暗からはもうほとんど脱していますし。

衣服、素肌の触感の豪胆でありながら繊細な捉え方。何という触り心地の良い絵だろう。兎角印象派は光が取り沙汰されて、外光の元での表層の印象の移り変わりにばかり囚われていきます。後期になると光点を用い、厳密な理論化を図り対象に依拠しながら、対象を見失い、抽象としての独自性もない絵に先細りしていきます。
ルノアールは他の印象派の画家ほど外では描いていません。そのことは、絶え間ない光の移り変わりに神経質にこだわり続けるのではなく、質の印象を筆跡の精妙な技術によって、活き活きと捉えるもうひとつの印象派を作り出していたと言えましょう。
室内で描くことも大切です。

ルノアールについてはまだまだ他に言いたいことがありますが、今回はフラゴナールという優れた画家を引き合いに出して、魅力を少しだけ述べてみました。


美味しいスイーツとコーヒーでした。ちょうど良い時間です。では。