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2014年5月29日木曜日

運慶その究極の写実~南伸坊の呪縛から解かれたか?


少し日本の優れた画家についても書けたらと思い、犬塚勉について”NewOrder"に少しばかり書いてみたが、リアルという点において、他にほんの断片的にも書いておきたいのが運慶だった。
思い入れはかなりある。がただならぬ残像も混じっている。

運慶は大変な巨人であり、さらっと書けるようなヒトであるはずはないが、写真を見るたびにダブルイメージしてしまう、もうひとりの芸術家というか評論家というか南伸坊氏がいる。
運慶の作品を見るたびに南氏の姿が重なってくるのだ。
それだけ強烈な成り方であったのだろう。
どの像にも次々と重なってきてしまうのだった。

1度その呪縛からも解かれニュートラルに運慶を観ることが出来るために、改めて図版を観る事にした。
運慶といえば、南氏もすぐに成った、東大寺南大門の「金剛力士」であろう。
この阿形と吽形どちらに成ったか?多分仁王像の一方、阿形の方だろう。
この血管の浮き出るほどのダイナミックこの上ない怒りの像。
またフラッシュバックしてきたのだが、この仏像は寄木造りで作られたことは知られるが、全身が3000パーツで作られていることはやはり驚愕に値する。
これは、2ヶ月でこの二体を造らなければならず、全てのパーツを同時進行で制作する必要があったためだ。
工房制作である。
大仏師が小仏師に作成案と方法を伝えて同時に制作を進める画期的な制作法である。
最後に大仏師である運慶が細かく手直しをして総仕上げをする。
かなりの修正が加えられていることが知られている。
特に腕を大きくドラマチックにダイナミックに捻ったところなどは有名である。
よく日本のミケランジェロと称されるが、その捻りなどの表現はむしろバロック調か?
ダビデ像と比べると表現における動的リアリティに重きを置いていることが分かる。
筋骨隆々なのにお腹のメタボ。
これを両立させる力技も素晴らしい。
単なるリアリズムを超えている。
この離れ業が力強さと信頼感(親密さ)を確かなものとしているのだ。

顔学と言ってしまうとまた南氏が急速に鮮明にリターンというかリブートしてくるが、それはそっとしておき、仏像は「顔」だという。
確かに。
サモトラケのニケ相手に手を合わせて何か願い事をするのはさすがに難しい。顔から観ると飛鳥・平安時代の仏像、特に半跏思惟像などは、その静謐な喜怒哀楽とは無縁の哲学性から表情は人間離れしている。と言うより表情が洗い流されている。思惟そのものを具象化した姿がそれなのだろうが、悩みの相談や願い事の対象とは思えない。

運慶は、南伸坊のように人間らしい。
「八大童子」など今は6体しかないが、全て目元の表現で見事な個性的表情を豊かに生んでいる。彼らも目は玉眼(水晶)を入れており、眼差しの美学とも言えるものを感じる。その瞳孔はかなり開いていて眼前のものに大変な好奇心を持っていることが分かる。子供のもつ究極の表情である。南伸坊氏が気合を入れてマネいや、成ってしまいそうな素敵な魅力に満ち溢れている。
ともかく、ここまで親和性に富む表現であると、親近感も深まる。
彼の仏像には子供が多い。


初期から見ると、その写実性は、しだいにダイナミックな生命感や躍動表現から深い内面を抱えた人間の生々しさ脆弱さすら窺わせる驚愕すべき仏像へと深化してゆく。

ひとつは、「聖観音菩薩」である。
その女性的表現は色香も漂わせる、人の体そのものを感じさせる立像である。特に後ろ姿など、ルネサンス期の写実的像を思わせる美しく優しい繊細なフォルムである。

また、リアルの極としては、東大寺の「俊乗上人坐像」であろう。その突出した実在感は西洋の写実彫刻のどれにも引けはとるまい。生々しく克明な内面の表出。いくら観ても深く微妙な味わいが褪せることは無い。われわれの内面に様々な感情や思考を呼び覚ます顔である。しかし、様式で受け継がれる仏像がここまで凄まじい人間の内面表現に行き着くとは。
さらに興福寺の兄の「無著菩薩」と弟の「世親菩薩」である。二体の涼しく諦観する表情と眉間に皺を寄せ厳しく耐える表情。恐ろしい程の圧倒的な人間描写であり、リアリズムの極北である。

2007年に発見された最晩年の21cmの作品である「大威徳名王像」は小さいながら、彼の到達したリアリズム彫刻の集大成となった。
この作には作成された当初の彩色の痕跡がかなり残っており、頭には鮮明なコバルトブルーが、全身には金箔がピカピカに光っていたことだろうと容易に想像がつく。これは彼の他の作品にも言える。
口元には口髭が面相筆で?ちょろんと丸く描かれてもいたはずだ。
このアーティフィシャルな煌びやかさも当時の人々は観ており、忘れてはならない。



21cmの「大威徳名王像」まで観ている頃には、南氏のナビゲートも特に必要ではなくなっていた。勿論、また南氏が新しいものに成ったらすぐに観てみたいが。スティーブ・ジョブスみたいな。



2014年5月23日金曜日

受胎・感染~偏在するベルメール


「美は痙攣的なものだろう、それ以外にはないだろう」 アンドレ・ブルトン


ハンス・ベルメールは人形そのものを表した作家だ。
ほんの数体の球体関節人形を作成し、それを最適な場所で写真に撮って発表した。
そのむき出しの人形に驚愕した芸術家はみな、人形を作り始めた。又は人形に成り始めた。
球体関節による接合バリエーションは次々に新たな、はじめての少女人形を出現させる。




人形はさらに自由度・自在性を増し、ドローイングや銅版画の優美でシャープな線で増殖する。
球体関節は万能である。
もはや、名状し得ぬグロテスクな肉塊にまで少女人形は肥大する。
ベルメールの狙い通りに。いや彼はこの世にイデアに通じる口を開いた、と言える。




「人形」というものが何であったか、の定義から完全に放たれ、ベルメール曰く、突発的な他者として現在する”人形”。





ベルメールの人形は受胎または感染していった。
アニメ映画に。
夥しい他者の群れが、舞踏にアニメにドールにフィギュアにマネキンのなかにも現れる。
そしてロボットに。
果ては、人間に。

彼女らは、

確かに瑞々しく痙攣する。

















2014年5月20日火曜日

ハンス・ベルメール ~ 球体関節人形の反復

ハンス・ベルメール
1902~1975 ドイツ

画家であり、版画家であり、グラフィックデザイナーであり、写真家であり、人形作家である。
ハンス・ベルメールは反ナチの強い姿勢から、社会貢献に繋がる職業に就くことを拒否。
彼は、ナチス党員であり有用な職業エンジニアである権威的な父親の道具を使い、人形を作り始める。

その人形もアナグラム的な遊びの要素の広がる球体関節というヒトを食ったフザケた装置を幾つも持つ人形である。
球体を接合装置として、腕と脚の場所を付け替えたり、手と足を入れ替えたり、、、その接合とパーツの組み換えによりバリエーションもたくさん出来る。そんな役には絶対立たない遊びを人形作りを通して続けていく。
アナグラムの手法で詩も書いている。言葉遊びにも鋭い感覚を示す。
自費出版で人形の写真集も出す。

筋金入りの反骨のヒトである。
シュールレアリストたちがそんな彼を見逃すはずはない。
アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール、マルセル・ヂュシャン、マックス・エルンスト、イブ・タンギーというビッグネームに迎えられる。
日本ではいち早く、澁澤龍彦が彼を文芸書で紹介する。
種村季弘により名著「イマージュの解剖学」が翻訳され注目を集める。

無意味な人形はそれをさらに無意味にオブジェ化する球体により、益々需要を高める。
サド、ポール・エリュアール、ジョルジュ・バタイユの作品の銅版画の挿絵にもその人形は使われていく。
一般的には、彼は過激でグロテスクで気味の悪い趣味の人形作家と捉えられる。
が、「手垢に塗れたことば」を払拭するための方法論としては、かなり真っ当な評価となろう。バタイユの「眼球譚」の挿絵(銅版画)などで、理解はさほどされなくとも権威は高まる。
ベルメールは単なる高名な芸術家としての場所に押し込まれたか?

ハンス・ベルメールは精神病理学にかなりの知見を持っており、どうやら肉体パーツの置換という発想ー方法論はそこから帰結している。
見慣れたものを解体し再度、観させること。
そこで初めて、単なる透明化した「脚ー意味」が思わぬ物質性を帶びて出現する。
安定した主客関係、主体ー対象関係を打ち砕き、主体ー他者関係を浮き彫りにする装置としての「球体関節人形」その反復。
「他者」とはまた「驚き」であり、「偶然性」を絶えず生産する。
それは時として主体を脅かす。
ベルメールの人形少女は「対象」ではなく「他者」として存在し続ける。
人形とは古来からそういうものとして存在してきた。



ベルメールの戦いは言うまでもなく、ナチ=ファシズムに対する不断の闘争である。
独裁とは紛れもなく他者のいない世界である。
世界は放っておけば必然的に独裁化する。
有用性という透明性ー一義性を打ち破る過激な人形少女遊びにより彼はナチを滅ぼすのである。
その人形は、父親の「手垢に塗れた道具」で作ったものである。


                                             ハンス・ベルメールとは?





*NewOrderの"talk to her"の「人形」とも関連して語っています。まとめてはおりませんが。





2014年5月18日日曜日

人形に見る廃墟性 ~ イノセンス


イノセンスを観た。
かなり前に観たはずだが、全く覚えていなかった。
であるから、新鮮な気持ちで観ることが出来た。

映像のディテールの描かれ方が過剰であった。
プレラファエル派の上を行く充満する描き方だ。
しかもappleseedよりもしっくりする空間だ。
画質が宗教的である。


人間が常にネットに繋がっているーーー。
確かにわたしもiPadを持ち歩いている。
iPhoneがないと普通の生活に支障をきたす。
子供にもGPS機能を常にONにした携帯は持たせている。

人間がサイボーグ化していくーーー。
確かに物質的にも身体的(無意識的)にもサイボーグ化している。
別に端折ってチップを埋め込むことはない。
歯医者で治療を受けインプラントでも埋め込み、コンタクトをし
自転車に無意識に乗っていればバトーまであと少しだ。
ここに再生医療も入ってくる(はず)。おお、STAP幻想!?

人間において外部情報系が確実に内部情報系より巨大化した。
つまり文化情報はDNA情報より強大となった。
すべてはことばの獲得から始まっている。
文化という外部(都市空間)にそれを構築した。
大脳新皮質、前頭葉の発達(相互照射関係)が成り立つ。
生後獲得する情報の方が多いため、外部に延長した身体性に親密に関わり易い物ーiPhoneなどで容易にやりとり出来る。
そして、Cloudに全てを預け、必要とあらばそこから引き出すようになった。
個の中身は空っぽの端末と化す可能性、方向性はある。

しかし文化の中から無意識的に獲得された身体性。
これはある意味、非常に堅牢なものである。
この映画では、”ゴースト”と呼ばれる。
いかにテクノロジーによるパーツが肉体と置換されていようと身体は確かな時間性を保持する。
それを精神と呼び変えてもよいか?
ことばの総体より遥かに大きな領域である。


ここではかなり明確に身体性について掘り下げられている。
そのひとつ、その発展系としての電極を挿して相互に繋がること。
これはすでに脳科学で細かく研究・実験が行われているが、そのインプット・アウトプットのリアリティーは十分感じられるものだ。
繋がれる対象は恐らくなんでもアリだろう。
繋がりたいものも3Dプリンターでどうにでも作れる。
自分ひとりで大袈裟なサイボーグになるヒトも近いうちに出てくるはず。
だれもがすでにサイボーグであるが。

そして「人形」。
人間の美しさをギリシャ彫刻のような理想のプロポーションに型どり、中に何かが込められる余地を残した存在。
その空洞を持った完全体として、この映画にあっては、それは「犬」であったり「子ども」であったり「人形」である。ことばで疎外されていない象徴としての他者。
ことばの要らない、この愛おしさ。
すでにとうに身体化している他者。

廃墟に人形は似合う。
ポンペイにディオニッソスの一際美しい像が相応しいように。
もはや何にも繋がる必要性のないスタンド・アローンな存在。
やはり一個だけで充足している人形。
欠如感も過剰もない、そのような時間に触れたい。繋がりたい。
という気持ちを満たすものとして、それらは在る。
自分にないものとして。






2014年5月16日金曜日

廃墟としての遺跡~その極ポンペイ


廃墟を考える上で、「遺跡」を取り上げてみる。
わたしはこれを廃墟の究極形と考えている。

遺跡、特にポンペイ!

遺跡といえば、そのエンタシスの円柱とともにギリシャの遺跡群がすぐに思い当たるが。

ポンペイは2000人余りが一瞬にして噴火の火砕流(火災サージ)に呑み込まれ絶命したと言う。
そして、2000年の時を 経て遺跡とともにその姿を残したヒトが表情に至るまで、鮮やかに3Dテクノロジーにより蘇った。


発掘時、灰燼の殻を破られ石膏を流し込まれたヒトはどう思ったか?

おーい。


ほんの暫くの間、思念の塊として昏がりに透明なままとどまってきたが、その思念は早速消え去る肉塊を尻目に、どのような変遷を遂げて来たのか?
ただその根拠を失い、微睡み続けていたのか?その質量はどう変わったのか?それとも単に雲散霧消してしまったか?
そもそも時間が、時間そのものが閉じ込められたのだ。永遠が封じ込められたのだ。そこに変化を思う事自体、矛盾か。

この石膏像群。人の作ったものではない。何ら表現の加わらない、それぞれの魂をそのまま可視化したものである。
それは、有る意味遺跡自体が人間の思想そのものを永遠のサンプルとして保存したもので有ることをわれわれに思い起こさせてくれる。
今わたしが普通にそこに住んでいてもおかしくない。
普通に移り住んでもそのまま生活できる。

苦悶に身を捩る男性。
何故また、噴火後に帰ってきた?
ああ、お金が気になったか。
よく分かる。
ヒトは歴史の時間で変わるわけではない。
長い時を経て変わるわけではない。


何も変わらないことが、虚しいのか哀しいのか、面白いのか。
変わらぬまま、いや、永遠のまま忽然と丸ごと消え去る。
遺跡のその永遠性は廃墟の際たるものと思える。

ポンペイは人のそれぞれの想いまで鋳型に封じ込め、このような廃墟のなんであるかを極限的に開示している。



2014年5月13日火曜日

廃墟への憧憬ー2


廃墟はともすれば、中に入れる死体であり、蝉の抜け殻のようなものと言ってよい。

幼いころよく遊んだ、広場に転がった下水管の筒やもっと大きいスチール製の管の中の秘密基地。
何の用途も見つからないが、何かが落ちている、きらっと光るものが拾える空き地。
よくレンズを拾った。蝉のきれいな抜け殻もいっぱいあった。
この余白や余地、ちょっとした冷やりとする風が通る暗がりこそが、廃墟である。
そこは、お墓のように、すーっと静かに気持ちが透明になる。

うちの父の眠る墓地でも、毎日真新しい花束が置かれている墓がある。
手向ける人は常にそこで死を思い、所謂(藤原新也言うところの)死想を深めているすがたが感じられる。
いつもの仕草で墓を奇麗に洗い花束を取り替える固有の儀式をとりおこないながら。
その「跡」からにおい立つメメントモリ。


「死」を少年時代のように眩暈を覚えつつも優しく身近に感じる事が出来る場所が「廃墟」である。
そういうことにする。

「少年期」と「死」は一番瑞々しい繋がりをもっており、その頃の想い(関係性)に無意識的な憧れを抱くとき、その対象として表象される画像が「廃墟」である。

絵に描いたような廃墟もあるが、日常の空間にもそのような時間性を湛えた場所もできる。「廃墟性」をもった場所として。そこには「死」が色濃くあったかく漂っている。
つまり、ここで日常に廃墟性をひと際感じる場所を、「見える廃墟」とする。
そこにいるヒトの無意識的な意思、趣向による関係性はその生成に対しやはり大きい。
自然に物の置かれ方、部屋の構成・流れもふさわしい作りに落ち着く。
そして時間流の親和性がとれていること。

ただそのような想いとは裏腹に、その関係性の実現できない時間性がヒトの神経・精神を疲弊させる空間として固着する。
何というか、単なる箱モノの中で、死が見えない(感じられない)時間が間延びしてそのまま、立ち腐れしてゆく。
そんな部屋が至る所にワームホールみたいに点在する。いや、もう今や偏在するか。
それは「見えない廃墟」として病をひたすら育む。
この時間性の治療は、精神科医、建築家、上司、人間関係、そのビルの管理者にどうしてもらえるものでもないが、関係は深い。


ひとつ。そこに建築そのものの思想はとても大切だと思われる。


「廃墟」に何か憧れる、という漠然とした気持から、その廃墟性をいろいろな場所に感じつつ、所謂「廃墟」、ひょんなところに「見える廃墟」、蟻のように多分増殖している「見えない廃墟」を実に直観的に見てきた。


わたしとしては「廃墟」という「場所」の起源はあたりが付けられた気がする。
しかし、病理学的なところは手に着かない。時間性、記憶の大きさは分かるが。
廃墟テーマの本でも読みたい気がするが、その類いの本は全くと言ってよいほど、持っていない。
(建築と言えばルドルフ・シュタイナーはあった、、、参照出来ていない。ミース・ファン・デル・ローエもあった。)


今回も手がかりなしで感じたことだけをを元に考えてみた。




2014年5月11日日曜日

廃墟への憧憬ー1

何というか、「廃墟」や「廃園」に対する憧憬が私にはある。
一般にそれらは負の意味を持ち、「荒れ果てた跡」といったものだ。
あっさりしすぎて、よく分からない。
わたしは「廃墟」と言って、特に何処の廃墟を実際に探索したわけではない。
世界にどのような廃墟があるとかの知識もない。
単に言葉(文字)としての「廃墟」になんとなく憧れを持っているということだろうか?
だとすれば、
いい加減な話だ。

物は見捨てられた時点で、毎日細部まで点検され洗浄される新幹線と違い、エントロピーの方向へまっしぐらに向かって逝く。

しかし、荒れ果てた、はともかく、「跡」という場所には、やはりどうにも惹かれる。
「跡」とは少なくとも何らかの営みのあった印と言える。存在した証拠でもある。
「痕」でもあるし、「址」でもある。「先例」でもあるし師の「手本」でもある。
「筆跡」でもある。

おお「筆跡」
その描き「ぶり」
そのエスプリと言って良い部分が残った。
むしろもはやそれとしての実質(本体がどの程度残っているかはともかく)を失っている分
いよいよ気配のように立ち登る霊気。
それが息づく場所が「跡」である。

わたしはそこにもっとも純粋な清められた”気”を求めていないか?
そんな場所を夢想して来なかったか?
その場所は純粋に言葉ー文字であったのか?
いや何かの形態ー物は介してたはずだ。

そのような廃墟はいつわたしに音連れたのか?
わたしが憧れを漠然と抱くに至った根拠としての「廃墟」である。
一体何処で見たのか。
いや、何を見たのか?


少し考えてみると、どうやら社会の教科書や図鑑に載っている類いの物々しい廃墟ではなく、Web上に見つかるような此れ見よがしの上空写真などではない。漫画でもコミックでもない。映画で見たか、と言えば、
見た!

タルコフスキー。

絵画で見なかったか。
見ている。

ポール・デルボー
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ
ジョルジュ・デ・キリコ

・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここで「廃墟」を通常の定義を超えて定義するようなことはここではしない。(おこがましい)
感性の論理というより、精神医学の領域に深く入り込む時間性の問題になるはずだ。
ただ、話を進めるため「跡」として確認した範囲で上記の物を「廃墟」と感じるなら、「廃墟」は少なくとも必ずしも表面上荒れ果てている必要はなく、ヒトが全くそのなかにいない必要もない。
そして改めて考えると、普通の生活空間に廃墟は浸食し得るといえる。

逆に廃墟と言うより廃屋が高齢化の進行に従い少しづつ確実に増えている。
経営破綻で暫く放置された末、打ち壊される病院などがある。
わたしはこれらに「廃墟」を感じたことは全くない。

廃墟という言葉を使用する人たちはいたが、実際に廃墟をそこに見る人はなく、病院については無理やり幽霊スポットとされるも、幽霊も出る気にはなれなかったようだ。実際中は落書きだらけだったそうであるし。
そのうちに取り壊され、今では昔からそこにいたかのように全く異なる建造物が建っている。
だが、それが何であるかはいますぐ思い浮かばない。
建物に対する意識なんてものは、通常実際そんなものではないか?
いや、人一倍方向音痴な、わたし特有の地理感覚の希薄さによるものか?
それも関係しているとは思われる。

ひとまず荒れ果てた跡を所謂「廃墟」とするならば、上記の場所(画像)には「廃墟性」のある場所と、称することとし、ヒトが管理不能となっただけの建物に関しては単に「廃屋」とでも呼んでおきたい。(後に整理が必要と思えるが)
そして、日常空間に浸食した「廃墟性」にも、タルコフスキー描くような場所、「実質」つまりここに流れるべき時間性を逸した空間は、極めて普通に在る一部屋であってもそこは廃墟に成り得ると考える。ただその「時間性」の「狂い方」が、われわれの抱く憧憬や焦慮の念や郷愁を惹きつける対象となるか、圧迫感や虚無感や閉塞感さらに鬱を呼び込むような対象ともなるはずである。
わたしは後者を以前何かのWebページで拾い読みした時以来ずっと引っかかっているフレーズ「見えない廃墟」と特別に呼びたいと考えている。その言葉の定義に関しては全く記述はなかったが、文脈の流れにおいてはネガティブな空間に対して使われていたと記憶する。確か建築家の言葉であった。

ここからは精神医学における時間性の問題と建築における時間構造の問題になっていくはずである。もとよりわたしに立ち入れる領域ではないが、書きながら一般人に極めて身近な課題であることは確認出来る事であった。



参考記事:すべて以前にわたしの書いたタルコフスキーについての走り書きといった風なもの

サクリファイス

ストーカー

ローラーとバイオリン

アンドレイ・ルブリョフ       アンドレイ・ルブリョフの画集を見ること



ソラリス

ノスタルジア




2014年5月8日木曜日

ラウル・デュフィ展 Bunkamuraにて 6/7(土)〜7/27(日)10:00〜19:00です。

電気の精

デュフィ展がBunkamuraであります。
6/7(土)〜7/27(日)10:00〜19:00
彼がル・アーヴルを出てパリ国立美術学校に入学する1899年から晩年に至るまでを紹介する回顧展です。


わたしは渋谷は大嫌いな場所、ワースト3に入りますが、Bunkamuraには不本意ながら、よく行ってしまいます。
ちなみに他の二つは蒲田と⚫️⚫️(笑。
⚫️は特に、嫌いです。がどうでも良いです。
デュフィ展です。
勿論、行きます。


ラウル・デュフィ(1877-1953)と言えば、明るい色面に軽快な筆さばきの線描が日本でも人気の画家です。と言う感じで紹介がなされます。
地中海のまばゆい光と解放的な風土、演奏中のオーケストラや行楽地の風景を主題とした作品などから、その様式を完成させたということです。


キャッチフレーズも振るっている。"絵筆が奏でる色彩のメロディ"

確かにラウル・デュフィと言えば、"クロード・ドビュッシーに捧げるオマージュ"など音楽にあからさまな主題を置いたものが多いですね。
ほんとうに音楽が溢れ流れ出そうな絵画です。

今回の回顧展では、フォービズムの影響をうけた絵画、アポリネール『動物詩集』のための木版画やポール・ポワレとの共同制作によるテキスタイル・デザイン、陶器、家具に至るまで、約150点の展示を予定しているそうです。壁画は無理でしょうから(笑 今回”電気の精”を最初に載せました。
実はこれがわたしの一番好きなラウル・デュフィの絵なのですけど。

生活まで、まるごとデュフィで統一出来たら気持ちよいことこの上ないでしょうね。贅沢ですが、重苦しさは一切無い。
ドビュッシー"水の戯れ"を流して長椅子で寛ぎたい。最高です。
一日中寝ていたい。


「色彩と光の戯れの向こうにある画家の本質を引き出します。」との事です。これがテーマなのでしょうか?

"色彩と光の戯れ(出た!よく聞く)"その向こうにある本質?

色彩と光の戯れこそが本質では無いのか?
わたしは本質はその表面にしかないと考えるのだが。
向こうとは?

これから見に行くので、実際によく見て味わってみたいです。



2014年5月6日火曜日

ある写真家の愛娘の写真が海外で大うけとか?!

娘を撮った写真をウェブにのせるのは気が退けるが、ブログに載せるのは抵抗は然程ない。
同じネットワーク上に置くことに違いないのだが。
まず、訪問人数が限られており、不特定多数が閲覧に来ている訳ではない。
まるで、会員を把握してない会員制ブログ状態である。
そこらへんで、写真を少し載せたとして、プライバシーがどうのというほどのことはない。
作った記念写真は、写真館でドレスも借りて撮ってもらっているが、さすがにそれを載せるのは恥ずかしい。
まったくの下手くそスナップがちょうどいい。


今5歳になったところであるから、これからどんどん見た目は変わる。
もう少し大きくなったらやめるが、今は載せても誰だかわからない。
スーパーで買い物していて、あらネットにいた子だわ、はまずあり得ない。

わたしの鉱物カタログを気にいって、しばらく手放さないでいる。水晶、石英関係が好き。

二人の遊び部屋。ここにワークステーションを含め6台パソコンを置いている。
キッドピクスか、フォトショでお絵かき。
i-Tunesで曲を聴いていることもある。
ピーターパン等の映画もここでよく見る。
お勉強ソフトは自分たちからは起動しない。

面白い形好き。これは父親譲りか?
とある美術館に行く途中のオブジェ内。
美術館よりその周辺での遊び場の方が好き。
分かる気がする。


動物大好きの長女。ちなみに、次女はほとんど触れない。動物も次女が来ると抵抗したりするが、長女だとおとなしくなる。落ち着くのか?仲間だと思われているのか?



次女はスピードものが大好き!バランスバイクもかなりすっとばす!もう自転車買ってあげないと。


朝、わたしが出かける直前、行ってらっしゃいをいうところ。
この20分後彼女らも幼稚園に「いってらっしゃい」



この続きはやりません。


2014年5月5日月曜日

ルドルフ・シュタイナー展 天使の国 ~ ワタリウム美術館にて

3月23日(日)~ 7月13日(日)の期間行われています。11:00~19:00 )
〒 150-0001 渋谷区 神宮前3-7-6 ワタリウム美術館 (月)は5/5を除き休館です。
鈴木理策という写真家による写真が展示されているようです。

「天使」とかいうとクレーをすぐに想い起してしまいますが。
「遺された黒板絵」にはシュタイナーが講義で説明に使ったクレーに迫るほどの造形論も宇宙論、抽象画もあるといわれますが。そういったものも観れるとよいのですが。
今回の展示がどのような内容のものなのか?
「黒板画」はあるようです。建築についても。様々なドローイングも、かなりあるようです。
が、はっきりしません。

ルドルフ・シュタイナーは、教育、芸術、医学、農業、建築の各方面において著名ですが、わたしにとっては、「アーカシャ年代記より」の圧倒的な記録書のインパクトが絶大です!
読後暫くの間、言葉も出ないほどのスケールの大きさでした。
恐らくこれらの基盤は徹底したゲーテ研究からくるものだと思います。

わたしは以前、スイス帰りのシュタイナーのお弟子さんの「言語造形ワークショップ」で週一で汗を流していたともあり、シュタイナーは本を少しかじった程度で何か分かるようなものではないことは、悟っていました。
ゲーテアヌム、オイリュトミー、シュタイナーシューレ等の彼の思想の実践の場が多く用意されていますが、「黒板画」がどれくらい観れるのかに、かかっているように思えます。生のシュタイナーの息遣いからその思考に少しでも触れ、共振できればしめたものです。それがこの展示会への期待の部分です。

書籍については、「アーカシャ年代記より」(人智学研究会)が極めつけですが、ここからは、ルドルフ・シュタイナー研究1~4も出ています。自由ヴァドルフ学校等、教育学に関する大変詳しく精緻な研究・解説がなされています。


また、入り易さから行くとシュタイナーの訳と思想に精通している高橋巌氏の著作「シュタイナーの治療教育」、「シュタイナー教育を語る」、「シュタイナー教育入門」、「シュタイナー哲学入門」など大変読みやすく把握に適しています。(角川選書)
さらに高橋さんと荒俣宏さんの対談 「神智学オデッセイ」(平河出版社)これは総合の学としての読み取りがなされており、シュタイナーの原点からの精神史の解読がなされています。
造形論としては、「フォルメン曲線」、「色彩の秘密」、「色彩の本質」(イザラ書房)、そしてゲーテにも大いに絡んでくる「メルヘン論」(風の薔薇)これはすごいです。

人智学出版社から出ている「神秘学概論」ここに「宇宙進化と人間~」が集録されています。
「ゲーテ的世界観の認識論要綱」(筑摩書房)シラーの方法によるゲーテの学問~これは
ルドルフ・シュタイナーの基本を知るための書籍になるかと思います。
わたしが一番よく読んだのは、「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」、「神智学・超感覚的世界の認識と人間の本質への導き」(イザラ書房)です。シュタイナーを読む上では必読書でしょう。

とりあえず、わたしのすぐに取り出せた本ですが、読み返してみたいものばかりです。
特にシラーの方法論。メルヘン論。宇宙進化と人間のめくるめく世界!
 
ワタリウム行ってみようっと。

2014年5月4日日曜日

アッジェのパリ ~新しいプリントの意味


よく言われることだが、アッジェは優れた”撮影写真家”であった。
乾板の現像に対してはかなり無頓着であった。
ほとんどやり方を知っているというレヴェルだったようだ。
この工程を大変神経質に完璧にこなした写真家にアンセル・アダムスがいる。
暗室での困難な作業処理能力にも秀でていた。
アッジェは基本、撮る事にしか興味はなかったらしい。
写真専門家(評論家)たちはそこを残念がる。

しかしこの写真集はアッジェの残した原板から新たにプリントして蘇らせたものであり、「ネガに映しこまれた細部のなんと美しく、豊かなことだろう」(ピエール・ガスマン)という忠実な再現がなされている。実際に、ガスマン氏は、ネガを読み取るのを得意としており、その画像とヴィンテジ・プリントとの間に悲しいほどの差を感じていた。であるからこそ、この写真集は是が非でも出される価値があった。
あたかも、絵画の修復師が古典画家の重要な作品の傷みや心無い無神経な修正を直すように、今日の知識と技術によって貴重なアッジェのネガからこれまでとは違う彼本来の写真が出現したようだ。

枯れたセピア色の古典的な写真である。
見れば見るほど味わい深い。
とても心地よい風が吹いている。
なるほど今は亡きパリが細部まで豊かに映しこまれている。
ここに自己表現だとか、ドキュメンタリーなどという押し付けがましい表現はない。
アッジェはこのパリの光景が早晩消え去るのをよく知っており、自らが残さなければならないという使命を強く感じていた。
何をおいてもそれをしなければならなかった。
絶対の確信をもって。
アッジェはその任務ははっきりと果たした。


マンレイに真価を認められたが、シュルレアリストにはならなかった。
彼は自らを記録写真家であると、生涯言い張った。
芸術写真家ではなく、とても豊かな”撮影写真家”であったのだ。
恐らく撮る事だけで彼の時間は費やされてしまったのだ。


そして、アッジェの死後、アメリカの女性写真家ベレニス・アボットが私財でアッジェのネガを買取り、彼の作品を散逸から守った。
高品質の再プリントもなされ、こうして彼の写真を今も見ることが出来る。



とても贅沢な時間である。



アッジェのパリ




2014年5月1日木曜日

決定的瞬間 ~ アルフレッド・スティーグリッツ

「決定的瞬間」と写真は同義である。その写真集の題名は、アルフレッド・スティーグリッツだからさらにぴったりな題となる。これは、彼を離れ、写真とは何かを語る標語的な形で流行ったと思う。
写真の属性から言って、写真とは何といっても決定的瞬間を撮るもの、と言える。
写真は光学的に瞬時にその場を銀粒子に固定する。
現像時のテクニックも入るが。
印刷物にされれば網目状に定着する。


写真とは、、、。
写真家からすれば、狙ってシャッターを押して場面を切り取る以外のなにものでもない。
基本はそれである。
スティーグリッツはある意味それに賭けている。

ニューメキシコ上空の月を撮った、アンセル・アダムスはグレン・グールドのように現像過程にまでの全工程に完璧に拘ったが、スティーグリッツは捉える事、もっと言えばその場を瞬時に組織することに賭けている。
賭けているではなく、第六感というのでもなく、もっと受動的な、もっと他力な、自分を放下するようなかたちで、捉えている。
言語矛盾であるが、そんな感じでその場を組織している。

ジョン・ケージのチャンス・オペレーションのような方法論?
いや、方法論で撮っている訳ではない。
「わたしは、写真というものにつては、何も分からない」(スティーグリッツ)
となると、「天才」としてしか処理できなくなるが、語ることの実に少なかった写真家のやはり何かをこちらも直覚したい。

こんな全体性を撮りこむ予知能力のメカについて。
まず事態に対し先に行っていなければ、この組織化は無理か。

よく、腕試しのように、素人写真家ががんばって撮る”決定的瞬間”とこれらの写真はどう違うか?
この辺を見比べつつ、確認できるものか?
素人写真なら、手近に何枚もその手のものがある。

まず、スティーグリッツのものがモノクロであるため、抽象性があり文学性を帯びている。また色に関係なく絵に気品があり、重厚であり、その場全体を撮っている。素人のカラー写真が異様に生臭くキッチュで生物学の説明写真ならよいが、場という意識はなく、そこに一片の情緒や詩的な香りもないことが圧倒的に多い。

スティーグリッツが場所の写真であるに対し素人物はことごとく対象の犬のみ、だったりする。
同時性という世界の成り立ちへの洞察がどうやらスティーグリッツの構えの基本としてあるように思える。
空間の切り取ではなく、時間の芸術としての写真を極めた人なのかも知れない。