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2014年2月24日月曜日

アルジャントゥイユにて マネとルノアール

クレーのア・バオア・クーやダリのポルトリガト、ビョークのお家もとても魅力的ですが、
印象派の画家たちがフラフラっと集まってきて自然に絵を描いてしまうアルジャントゥイユも如何にも気持ちよさそうな場所ですね。

今、とても場所にこだわっています。
ネットで見ていくと、羨ましい場所が幾つもみつかります。


このアルジャントゥイユは、パリから電車で15分。
休日にはパリジャンが舟遊びや散策を楽しむ、とっておきの郊外と言われます。

ここにモネの家もありました。
マネがその家を世話したことでも有名です。

爽やかな夏の陽を浴びながら、草上にモネ婦人が息子とくつろいでいると、ふらっとマネがやってきて、ふたりを描き始めます。
するとルノアールもやってきて、やはりふたりを描き出すのです。
こうして長閑な陽の光の溢れる木陰でふたりのモデルが憩う間に

何の作為もなくモネの婦人と息子の姿を描いた名品マネによる「庭のモネの家族」とルノアールの「庭のモネ婦人と息子」が出来上がってしまうのです。
凄いですね。
何と魅惑的で贅沢な場所でしょう。

マネといえばセンセーショナルな絵を立て続けに発表していましたが、その先陣を切った作品が「草上の昼食」でしたね。
同じ草上のモチーフとは言え、モネ家族の絵にはそのような野心や攻撃性は微塵もありません。
気持ち良い光景という以外に言葉が見当たりません。

マネの方は、オランピアや草上等の練りに練られた構図・構成による周到な描き込みとは異なる、短時間で描かれた見事な筆さばきがよくわかる素晴らしい絵になっています。
地平線から見て、彼は婦人たちとほぼ同じ高さの芝生に立って制作し、その場の雰囲気を何より大切に描ききったことが分かります。
彼らを包む心地よい空間がほどよく切り取られ、鶏の矮鶏が歩き回っている屈託ない開放的な雰囲気が充分に味わえます。

一方、ルノアールは、空間をマネよりずっと二人の人物のみに絞ぼり、しかも上方から描いています。少し後から来たはずですが、マネより遥かに寄って描いたわけです。
人慣れした矮鶏も大きく、この存在が無くてはならないものであることは、はっきり分かります。この矮鶏、ふたりの絵にとても良い味を出しています。
ルノアールの絵はかなり人物ー表情は描き込まれており、画面としては平面性を強調しています。
肖像画としての完成度も高いです。

描かれる方も、坊やは少し退屈したかも知れませんが、描く側ものびのびしたなかでの制作環境でこういうのもアリだと思いました。
それに、陽光の下での制作はまさに印象派ならではのものです。
創めて外の光を自覚的に描いた人たちですから、描くべくして描かれた二枚の絵と言えましょう。


後で批評会とかしたんでしょうか?
多分しないと思いますが。





2014年2月22日土曜日

フルートソナタ全集 ヘンデル~ペーター・ルーカス・グラーフ



ゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデル フルートソナタ全集 ペーター・ルーカス・グラーフ 
claves records Swizerland 1988 このアルバムです。

以前、NHKの日曜美術館で、このCDにあるソナタ ホ短調(ハレソナタ第2番) 最初のアダージョのフルートパートをバイオリンに編曲したものが絵画の紹介時に流れていてびっくりしたことを覚えています。誰の絵だったかもう全く印象も残っていないのですが、その時の楽曲だけ残っています。
この曲自体の素晴らしさなのでしょう。特にわたしの好きな楽曲で、ヘンデルの最も感動的なテーマの一つだと思います。
フルートでなくてもこれだけ聴かせるのか、と思いつつ浸りました。絵を見るためにその番組を見ていたのに、絵が飛んでしまって、流れた曲のことだけ覚えているのですから。
もともとわたしは、絵より音楽の方が好きなんでしょうね。どうだろう?
(とりあえず絵が専門なのですが(笑)

このソナタ全集は、わたしがフルートを習っていた遥か昔に、厳しいのですが必ず最後に褒めてくれる先生が練習曲ばかりではつまらないかも知れませんね、とこの全集の何故か8割くらいを網羅した楽譜をくれたのです。(と言っても購入したのですが。つまりご紹介頂いた訳です。)
練習曲ははっきり言って音楽として興味がどうにも湧かず、いつもほとんど見てこないので、先生も渋い顔をなさっていました。でもこの副楽譜は自分で吹いている下手くそな音でも聴きながら感動してしまい(笑
何度も吹いていったものです。
「よく練習してきましたね。自分なりの曲想を持ってよく吹けていましたよ。」などと言われ満更でもない気がしていました。
自分としては練習したつもりはなく、単に吹きたいから吹いていったのです。
勿論、次から小節ごとに赤を入れられ相当直されました。(言うまでもありませんが(笑)

わたしは基礎をやるのが好きではなく、最初の音出し訓練からへったっていた方ですので、吹き込んでゆくとボロが音に出てきていました。ブレス位置も含め、しっかりバレます。それだけで曲想が変わってしまいます。当たり前ですが。そこを先生がトレースすると、何と神々しい旋律か!?フルート自体が24Kで金のゴシック彫刻の眩い光を見ているようなのに(コンサート用の総プラチナも凄かったですが)、音がこれまた凄く心の強く靭やか、かつ煌びやかな響きなのでウットリしてしまうのです。(実はわたしはその時、技術だけでなくそのフルートにも嫉妬を覚えました。)

その音を、更に信じられない高みで鳴り響かせると、このグラーフ氏の音色となります!
良かった。そのときある程度のステレオコンポにしておいて。
まさに戦慄です!
それまで、ジャン・ピエール・ランパルをはじめ、かなりフルート奏者の演奏は聴いてきましたが、次元が異なっておりました。

わたしは、そこで自分の腕を上げなければならないとは感じず、フルートもそれなりのものにしなければ、と思い先生にも相談し「ムラマツ」の総銀ハンドメイドを購入しました。やっぱり楽器が良くないと良い音は出ないよ。ところが音出しからやってみると、そう簡単に音自体が出ないではないか?!焦りましたが、そのフルート結構肉厚で音がこれまでよりも出し難いことが分かり、少し真面目に取り組む必要性を自覚しました。(要するに少しは真面目にやれということです。)次第に出てくればこれまでとはかなり違う、重みのある美しさが、はっきり確認、出来ます。
やはり楽器自体が大事だな、と密かに思い次は「金」だと内心思いました。先生は悟っていないだろうなと顔を窺いながら。(誤魔化しなどすぐ見破ってしまう大変勘の良い先生なので、道具のせいにしているなと分かったところで宿題を二倍出されます。)
でも、この楽器に関しては(他はほとんど知りませんので)、物の良さが直接響きますね。やはり良い品質のものでないと良い曲は吹けません。フルートは何より、どれだけ美しい音を出すかがまず勝負ですから。勿論、運指の正確さは当然ですが。


今日は、まだ本題に入っていません(笑

アレグロは確かに運指の上でも難易度は高くなりますが、練習次第で吹けた気がしてきます。指が慣れてきますから。(勿論プロが聴いたら穴だらけです。)しかし、アダージョにおいては、相当な音出しをして、肺活量も十二分に持っていないと、とても小節を跨ぐこのテンポのスラーには耐えられません。ブレス位置は絶対です。それが曲を確定しますから。何を素人臭いことを言っているかといいますと、スローテンポの曲こそ偉大な演奏家の腕が素人耳にも克明に分かるのです。
グラーフ氏の領域に入るともう技術すら感じられません。
ランパル氏の場合ですと、上手い、よくこんなところに、こんなこじゃれた装飾を入れてきた。といちいち感心しながら聴いてしまうのですが。

この時期の楽譜は、バッハもそうですが、必要最低限のものしか作曲家は譜面に書き入れておらず、要所要所に装飾を誰もが入れて演奏しています。それが楽譜の解釈でもあります。わたしも随分解釈して装飾だらけにしてみました(爆
遊びですから気楽なもんです。

グラーフ氏の演奏はセンスが良いとかいうレベルではないです。明らかにランパル氏は極上のセンスの持ち主です。
上手いとかいうレベルをとっくに超越しているものです。
これは技術の積み重ねで到達するものなのか、それ以外の何かなのか?
彼の演奏がどれほどのものなのかは、プロの感想をご紹介して、それに代えさせて頂きます。
チェリスト奥田なな子氏の共演後のお話から引用します

終演後、グラーフさんと記念に。
華やかで綺麗ではあるのですが正直なところ、フルートという楽器にどうしても興味がわかず、
今回も、すごいお方がいらっしゃるとは聞いていたのですが、管楽器と弦の音色って全く別枠でどうしてもうまくまざらないような気がしていたので、今回のクァルテット、どうなんだろうと思っていたのですが、もうグラーフさんの言葉に表せない演奏、音色に鳥肌がたち、その音色に吸い寄せられるように自分のチェロの音までぐんぐん美しくなっていくような感じで、彼と演奏した時間は本当に感動的で幸せなひとときでした。こんな貴重な演奏の経験、この先あるのだろうかと疑問に思うくらい、素晴らしい経験でした。二日目の本番の時も演奏しながら、この幸せなひとときがもうすぐ終わってしまうという事が悲しく思えるほどでした。
彼の音をしっかり耳に焼き付けたので一生忘れないように自分の頭の中で鳴らしています。

グラーフさん、もうスイスに戻られたかな。。。

演奏もさることながら、83歳というご高齢でありながら、指揮も演奏も全く年を感じさせないその若々しさ、背中もまっすぐで颯爽と歩かれるそのお姿に皆が驚いていました。


しばらくグラーフさんのあの演奏の余韻に浸っていたいです。


チェリスト奥田なな子氏との共演後。管・弦の共演もまた素晴らしく良かったようです。
わたしの話は自分のことばかりでした。最後の引用だけでよかったかも知れません。
本当の音を間近で直接聴くことの重要さを感じました。
わたしもかつてお師匠のコンサートは聴きに行きましたが、フルートがこれほど「強い音」の出る楽器だとはそれまで知りませんでした。

それ以外は、ストラングラーズなどの爆音をよく間近に聴きに行って耳を痛めました(爆

2014年2月20日木曜日

バルテュス過去最大の回顧展だそうです。東京都美術館 4月19日(土) ~ 6月22日(日)

1967年にバルテュスと結婚した節子夫人の全面的な協力を得て開催する、国内では没後初かつ最大規模の大回顧展となります。
世界の名だたる美術館のコレクションのみならず、公開されることの少ない個人蔵の作品も含め、
国内ではほとんど見ることのできないバルテュス作品が並びます。



ということで、バルテュスファンとしては、行かない理由がないので、行きます。
何で2ヶ月先の展覧会のことを取り上げるのかといいますと、駅のポスターで知ったからです。
私自身忘れないようにしないといけないので、メモがわりでもあります(笑

バルテュスについては、以前バルチュス ~Balthasar Michel Klossowski de Rola~でも一言書いてみましたが、その後バルテュスをじっくり見るようなことは一切してないですし、画集のバルテュスを今更見る気もせず、そのままの状態でいますので、ここで新たなバルテュス発見体験をしたいと思っております。
でも混んでるだろうな。
妙にバルテュスって日本で人気がありますから。

わたしは混んでいる空間で、じっくり集中して物を鑑賞するのが苦手で、さっさと足早に出口に向かってしまうものでして。
出口でカタログを買ってみたら、見てないものがあったりして後悔することもあります。

今回はじっくり見て、もし見足りない、見逃したと思ったら戻ってでも、よく見ようと決意してます。
ここはよおーく見なければというときは、その場で何分でも留まってやろうと決めました。
出展作品では、有名どころの「夢見るテレーズ」、「美しい日々」、「シャシーの農家の中庭」などがありますが、一度も見たことのない、画集にも載ったこともない作品もお目見えするようなので、絶対に見なければいけません。

勿論、カタログも絵葉書も買いまくります。ポスターはいりません。
昔、ピカソ展で買った掛け時計が壊れてしまったので、そんなアイテムもあれば買いたい。
誰のデザインだったか忘れましたが、かなり気に入っていたので。
でもそういうのってシュルレアリズム関係の展覧会ならよくあるのですが、バルテュスはまずないでしょうね。
そんな「おまけ」まで、期待している始末です(笑

でも混むのは嫌だなあ。
ついついこれまでも人気画家の展覧会は行かずに済ませてしまうことも多く。
特に印象派などたまったものではない。モネやルノアールなど、目眩がします。
ダリ展も凄かったですから。
バルテュスも何故、こんなに人気があるのでしょう?
何かの誤解もあると思っています。
そう、誤解しやすい画家でしょうから。
でも日本人好みなのか?そこらへんも腑に落ちるところがあったら見てきたい。
ピエール・クロソウスキーはどうなんでしょう?
彼も絵を描きますね。いかにも、という絵ですが。
この兄との関係での誤解も、そのモチーフからも少なくないかとおもいます。

兎も角、その時期になったら、報告させて頂きます。
















2014年2月19日水曜日

NewOrder~GetReady

はい、恒例の無作為チョイスです。
出ました。NewOrder!
彼らについては後、10年は語るつもりはなかったのですが、仕方ない。


このアルバムは2001年発表。
前作から8年空けての8作目です。
まさかNewOrderがGetReady?
合わない。

違和感を感じ聴いてみるとNewOrderなんだけど、ちょっと待て。
PrimitiveNotionで分かった!
これはディスコではなくロックです。
もはやゴシック様式ではないけれど。

おお来たか!
という作品はNewOrderの新作というより、再生したJoyDivisionの作品でした。

これは紛れもなくJoyDivisionの復活です。
ついに時熟をみました。
NewOrderを通過して孵化したJoyDivisionに他ありません。
もう一回PrimitiveNotion聴き直して確認してみよ。
いやのっけからCrystalではないか?そこで気づけ!

ただ、ボーカルがイアンでないだけの。
知っている人ならこれだけ言えばわかるはずですが、わかる類の人なら既にこれを買って100回は聴きこんだでしょうから、わざわざ書くまでもない。

CloseRangeのようなNewOrder然とした音ももちろんありますが、これも感涙ものとは言え。
もうみんな相当な歳に達しているのに、この若々しくも瑞々しい苦悩。
その懐かしい唯一無比のサウンド。
いいんだこれで。
ほんとうに音楽にDNAを感じます。
逃れ難い宿命。
JoyDivisionに感じた共振・共感がそのままに蘇ってきます。
そしてNewOrderの甘味で気怠い感動。
そのないまぜになった毒。

TurnMyWayそしてViciousSteak
このカットアップする光景の既視感は何なのだろう?
めくるめく郷愁と焦慮の念。

そう。
わたしには忘れられないものがある!


いいんです。
大人になる必要なんてない。
われわれは最初から大人になる運命にはない。
情けないままに純化していけばよい。
そのままCrystalに結晶するんだ。






2014年2月18日火曜日

Bjork~ビョークの家 ムーミン谷のどこかにあるような

最初にこれを見たときは、ナンダコレハ!とただ唖然としました。
ビョークのお家なんですね。

アイスランドの歌姫(Bjork)は世界中のホテル住まいを経験する達人で、屋根の上でも料理ができると述べているます。洗濯も得意だそうです。いつも旅行に出るときはスーツケース5つ持って出かけるといいます。その中には花瓶と本もどっさり詰め込んでゆくそうです。
コンサートを世界各地でするのですからホテルに泊まるのは当然ですけど。
それにしても、アイスランドからプレゼントされた家というか土地というか、凄いものですねえ。
こんな家に(土地に)住んでいるとどういう世界観になるのかな、と思いますが、彼女の曲を聴いても、それについては今ひとつ分かりません。しかし何らかの影響は反映されていることでしょう。


家そのものは、特に変わった外観ではありません。
素敵な家です。
ここで息子さんと一緒に住んでいるのでしょうか?
何でも窓辺にはムーミンがいるそうですが。
ちょっとこの距離では分かりかねます。
中も是非見てみたいものです。
わたしは人の書斎など見るのが趣味なので、見てみたい。
こうやって見ると普通の住宅に見えるのですが、この家がどこにあるかというと、もう一度少し引いて見ます。
こういうところにあります。
さらに凄さが窺えます。ムーミン谷の住人かと思ってしまいます。
でもこの地形だと、改めて上下水道や電気・ガスの心配をしてしまうのです。
地下ケーブルなんて通ってるのでしょうか?でも、
ここにソーラーパネルか風力発電、または波による発電装置を設置すれば電力は充分まかなえそうです。
水道についてはどうなのか?
息子さんは学校に行くの大変じゃないか?
普通に暮らしているなら、もとよりわたしの心配するところではありませんが(笑
ビョークなら、「寝る前に洋服を洗う方法を知っていると、朝起きたときにはキレイに仕上がっているものよ。そして毎朝小さなストーブを使ってホテルの屋根でおかゆを作るの」と言っているように、18歳から人生の半分をホテルで暮らしているという彼女は、どこでも自分の家に仕立ててしまう名人のようです。この場所にある我が家も快適な住まいにしていることでしょう。

さて、ミュージシャンとしても女優としても特別な位置にいるビョークですが、SugarCubesからのファンであるわたしとしては、特に好きな曲が2ダースはあります。
ひとつご紹介と思いましたが、ライブが良いかなと探すと超定番ですが(笑、これがよいかな、やっぱり。
ということで、耳にタコのできるほど聴いたものですが、やはり名曲中の名曲に違いありません。







2014年2月17日月曜日

「第27回さがみはら手づくり文化展」を見て

相模原市民ギャラリーにて 2/16~18まで
相模原北央医療生活協同組合の主催によるものです。

医療生協を知っていますか?というアンケートをもらいましたが、わたしは知りません。

とりあえず、作品を見ます。


S:「手作り何とか、、、というその何か内々で完結しているような先入観を誘う謳い文句だけど、実際に入って見ると、結構しっかり作っているという感じが第一印象だね。」

G:「しっかり作っているというのは、不特定多数の人に向けた表現・表出になっているという意味なら、そう言えるね。」

S:「仲間内ネタみたいのや、稚拙を味や個性という形でやみくもに置いているようなコーナーは特に見当たらなかった。」

G:「端からそんな目で見ることないでしょ。検閲みたいに。もっと無心で見ようよ。」

S:「何か面白い手作りあった?」

G:「正直言って、つまらないのを探すほうが大変だ。どれもくれるというなら、貰いたい。」

S:「ホント?」

G:「ホントってそっちはどうなの?」

S:「つるし雛とかお雛様人形。」

G:「自分の娘に「お土産」頼まれた視線だな。まず、そこに目がいったか。くれると言われたらほしいだろ?」

S:「いいね。欲しい。」

G:「作品でよいかそうでないかは、それを買いたいかどうかで決まる、という評論家がいるけど、どう?買いたい?」

S:「値段によるね。でも貰いたいというのは所詮、虫の良い考えで、正当な対価を支払って購入するべきだ。作るには試行錯誤しながらそれ相応の時間をかけている。」

G:「当然だね。作家のネームバリューが加われば、どれくらいになるか?」

S:「お雛様でそんなものは買わない。もっと普通の流通商品でいいよ。名のある作家のプレミアお雛なんて買う気はない。」

G:「案外、今見ている作り手の作った作品が一番素敵なものなんではないかな?丁寧に愛情込めた作りが成されていて、しかもありそうでない『格一』や『本格』とは一線を画した微妙な個性と可愛さがある。大量生産にない趣深いものがある。」

S:「バレンタインのチョコは手作りもらいたい派?」

G:「いいや、ゴディバでも貰った方がずっといい。商品として確立したものだし、何より安心して頂ける。チョコ自体がそこではちょっとメンドくさい価値なのに、さらに妙な価値を加えないでもらいたい。」

S:「何とか菌を気にしてるような言い方だな(笑。結局手作り作品展というのは、芸術作品ができちゃっても良いのだけど、インダストリアルな製品とのズレの面白いものを展示している場なんだね。当たり前のこと言ってるけど。」

G:「だからある意味、お宝の山なんだよ。そう認識した。今日。」

S:「ただあくまでも、ズレの面白いものに限る。単に技量が追いつかず、ちょっと違うもので終わった、というのではなく、作家の無意識の個性がかなりの技量と熱意によって制作された結果、定番とちょっと違うチャーミングなものとして表出されてしまった、というのが良い!」

G:「芸術性とか使用目的とか度外視した、なかば脅迫的で自閉的な細かい作業で作られたものなど興味深いし魅力感じるよね。」

S:「手作り界のゾンネン・シュターンみたいなのか?」

G:「なんだそれ?」

S:「お雛以外にもあるかね?」

G:「ある。道端や公園に落ちてた枝やら葉っぱやらをかき集めて作った風景画など職人はだしだよ。へたな絵を飾るより装飾的にずっと素敵だ。」

S:「確かに。それには目をつけてた。何より細やかなテクスチャが心地良い。」

G:「音楽的だ。」

S:「これはフォーレだな。」

G:「今日初めてまともなこと言ったね。確かにフォーレの小品だ。」

S:「それならこっちも、、、。」



ディレッタントの手作り作品の可能性というか、面白さの片鱗を味わった場でした。


*お詫び。昨日の現代音楽ーミニマルミュージックの件は単に頭を切り替えたい時に役立ちました程度の使えない記事でしたので、削除いたしました。あしからず。また違う形で書かせてもらいますので、今後共宜しくお願い致します。

2014年2月15日土曜日

サンディ・オールオーバー・ザ・ワールド Sunday All Over The World

目をつぶってCDを引き抜いたらこれが当たりました。
雪の日はなぜか空気圧に押し潰されそうになって、呼吸困難に陥っていました。

苦しくて、一日中何も手につきませんでした。
空間を圧し尽くす白い毒で世界が漆黒でした。

もう流石に、Starless and Bible Blackでもない。これはカート・コバーンが最も影響を受けたアルバム”Red”の最終曲。とても良く分かる。
でも、もうクラシック音楽である。
コンテンポラリーミュージックとしては終わっている。(なんと古臭い言い回し)

さて、息詰まりもDisciplineが足りないからかもしれません。
無理やり起き上がり、何かを聴こうとしたら、、、これでした。

わたしはDiscipline以降のCrimsonに馴染めず、というよりわざと聴かずに来てしまったのです。
勿論、アルバムはわたしの精神的基調をプロコルハルムとともに形作ったバンドですから、出れば買います。でも買っただけで正直、聴いてません。持ってるだけ(笑
ファンの風上にもおけねえ奴です。

でも、Sunday All Over The Worldは聴ける。
とても気持ち良い。
リーグ・オブ・クラフィティ・ギタリスツ、リーグ・オブ・ジェントルマンの気持ちよさに接続します。これらに連結した現代音楽的ロックです。クラシック的なロックでは全くない。
あの胸糞悪いイタリアとかイギリスの無自覚なロックによくある自意識汚物垂れ流しの気持ち悪い音ではなく、ジャーマンロック的な実験性に富んだ、まやかしのない現代音楽です。
クラフトワークやノイ、ファウスト、カン、グルグル、ラ・デュッセルドルフ、初期タンジェリンドリームなどと一緒に聴けるものです。
イギリスでは現代音楽としては唯一、エッグ。
クラシックの方法論を血肉として楽曲を制作したのはELP。
クラシックの素養を裂け目なく見事にロックに昇華したのはルネサンス、ジェントル・ジャイアント、プロコルハルム。
クラシックとジャズの融合では、プレミアータ・フォルネリア・マルコーニとアルティ・エ・メスティエリ
というところでしょうか。


そして、
この音、サウンドがDiscipline以前、第二期最後のRed以降の音ーサウンドに思えるのです。
時系列からするとこのSunday All Over The World は、Discipline以後の制作なのですが。
わたしは、エイドリアン・ブリューのギターが虫唾の走るほど大嫌いで絶対に認めがたいものなので、Redの次(~ギタリスツを挟んで良いので)がこれであれば幸せでした。
つまり、ロバート・フリップのギターを聴きたいのです。
ギターはロバート・フリップなのです!
それ以外の雑音はほとんど耳に入らないので。
唯一無二の真のギターが聴きたい。奇をてらった妙ちきりんな自己顕示欲しかない馬鹿げたギターなんぞ糞くらえです!!!

わたしは、ロバート・フリップ、スティーブ・ハケット、ロビン・トロワー以外のギタリストにはあまり耳が傾かない。
じゃあ、エリック・クラプトンはどうなんだ?という声がすぐに聞こえてきますが、彼を嫌う理由があるはず無いでしょ。ジミー・ペイジもしかり。変なこと聞かないでください。

でも好きなのは上の3人です。


いま、Discipline以降の音をあまり聞く気が起きないのですが、このSunday All Over The World は聴けるという話をしています(爆

でももう時間だ。

そうこのように雪が降り積もる時の止まった空間は、”世界中どこもかしこも日曜日”、なのです。

発狂する白日夢。

NewOrderのBlueMondayが聴こえる。あるいはキャバレ・ボルテールの3マントラズ。



2014年2月12日水曜日

トレース・エクササイズ~クレー


私たちの中から、頭のなかから、どれだけのイメージが取り出せるか?
いざやってみると、形にならないものです。
そもそも像がまともに浮かばないことが多い。


起点としては経験上、絵筆をとってカンバスに色をのせた瞬間、言語の作用とともに
その画布上に分節化がはじまります。
ある種のコンフィギュレーションが起きると言ったらよいか?

そもそも元イメージの初期設定ファイルがあるか?
または、イメージを呼び出すネットワークに繋がる、何かの方法を持っているか?
そのような源泉の探索をしてデータベース化しているか?多分これが必須。

クレーの場合、アラビヤの文様など原初的な模様-記憶に属する線を
かなりトレースして蓄積していたといいます。
勿論、それに論考を加え書籍にしています。

見えるものをそのまま見せるのではなく、見えるようにすること。
実はわれわれは見ているようで全然見えていないことがほとんどですから。
これは茂木健一郎の研究でも、情けないほど形態が捉えられないことが分かっている。


何らかの形体として「分節が起こる」とは。
「造形思考」にある様々な「線」のサンプル。
クレーのトレース作業が根底にあるようです。


要は、様々な芸術(原始的な芸術も含む)からその構造線をトレースする。
徹底的にトレースして保存する。
頭にインプット・アウトプットできるようにしておく。


基本はそのへんにあるようです。


エクササイズとしては、部屋の明りを消し、静かな環境を作る。
ここからはじめ。
思いついたイメージをトレースする。



事前準備としては、線を世界のなかから見出しておくことですね。
毎日、幾つかずつ。
線のパタンノートを作りましょう。





2014年2月8日土曜日

バロック~ベルニーニ

バロック。わたしにとって、バロックはある種の聖域です。

バッハやルーベンス、ライプニッツそしてベルニーニ、、、
そのなかでもいつか、ベルニーニについては書かなければと思っていましたが、その時ではない
そう思いつつ、ずっと来てしまいました。


わたしが高校時代惹きつけられた「聖テレジアの法悦」その神との出逢い―霊的なエロスに恍惚たる表情を浮かべるその姿と衣装の襞に釘付けになった記憶があります。
これは特別の経験です。ついでに「法悦」という言葉もこの際にはじめて知りました。
コリンウイルソンの言う至高体験みたいなものだな、とその時思っていました。


歪んだ真珠などといえば何やら聞こえはよいですが、これはあくまでも否定的な呼称で、バロックを芸術としては認められないという意味のようです。バロック建築にも「ビザール」とよく形容詞がつけれるていますが、これも「風変わりな」を意味します。

一体バロックとはどのような流れをいうのでしょう?
もっと言えば、ルネサンス―マニエリスム―バロック
どうもこの流れにおける解釈・意味付けに明確なものがないように思えます。

しかし「バロック芸術」を観れば、
ベルニーニに代表される圧倒的な動勢―表現です。
そして技巧における完成。こういってよいのか、ミケランジェロを明らかに超えた。

聖テレジアの天使の矢で心臓を刺されながらも「法悦」に浸るめくるめく姿。
観る者―自分が同様に同時に恍惚としてしまう、とてつもない表現力。

なんというのでしょう?
そう、エクスタシーの元型(イデア)に触れた感覚。
至福の時。官能に凍結する空間。
「法悦」に限らず、ベルニーニの聖女の表情とその衣装の襞は次元が異なります。
これほどの感覚に襲われる表現は他にないです。

ベルニーニとは何か、バロックとは、、、
そうベルニーニに代表されるバロックの芸術家の他を圧倒するもの。


わたしの場合実はこれが謎というかあまりに大きく、これだという形で自分の中に収まりきれずにいます。これは、まだ書きようがない。
これはまだ。

自分の中で消化できていない事柄としてあります。
大建築家でもあるベルニーニが修復に当たったサンピエトロ広場。あのベルニーニ以外の誰にも着想できないと言われる一大事業の一件も当然。







2014年2月6日木曜日

マン・レイ!

写真家と画家について主にレポートするブログですが、そうそう展覧会が近場で開かれるわけではありません。その上、今は遠くに見に行くことがかなわないので、そういう時はCD無作為チョイスをまた行いますので、宜しくお願いします。

今日は輸入ものの写真集をしばらく観ていましたので、「マンレイ」について。
まず、気づくのは名前です。
この無国籍なペンネーム?
なんでこの人はこういう人間離れしたスーパーマンみたいな名前で活動したのか?
アメリカ人ではなく、何でもないものとして制作活動をしたかったのか?
それから、一生を何か楽しく送った幸せなヒトという感じがとても強く感じられるので、興味を覚えるのです。

わざわざ本名を調べてみると、エマニュエル・ラドニツキーというそうで、父はユダヤ系ウクライナ、母はユダヤ系ベラルーシの人だそうです。で、フィラデルフィア生まれ。奥さんはフランス人。
これから世界に向けて何かやってやるぞと打って出るにあたり、なんのしがらみもなくカッコ良い名前を好きにつけることが出来ちゃう立場だったかも。名前なんぞにアイデンティティなど込める気ないというか、ID自体いらないというヒトだったのかも知れない。

マンレイ、ある意味、サルバドール・ダリと対極に立つシュルレアリストか?
ダリは言うまでもなく常にアイデンティティーを問い、研ぎ澄ました上での、
自己ブランディングにかけては、右に出る人はいません。
エマニュエル氏もマンレイとして思い切り自由に振る舞い、結果思い切り名を馳せましたが。
マンレイという他人みたいな名を。

ニューヨーク・ダダを起こしますが、すぐに活動の場はフランスに置きます。

マンレイはまずダダイストでした。
トリスタン・ツァラ率いるダダイストたちは、アメリカ代表のダダイストとしてマンレイを迎えたようです。最初から凄いことになっていましたが、彼は大変乗りが良く、やはりエマニェル何とかよりマンレイの方が遥かに身が軽やかだったのでしょう。そんな気がするのです。

マンレイがフランスに渡ったのは、マルセル・デュシャンがいるからでしょうか。
早々と芸術をやめた彼と一緒にチェスをしたのでしょうか?
仲がとても良かったようです。
ともかくパリでは、マンレイはなにをやっても持て囃されます。
とくにキキ(モンパルナスの女王)やリー・ミラーなどに。あのバイオリンと唇。つまり当時ヨーロッパで最も有名な女性と大変仲良くなり、社交界で当然有名人となりました。キキとは同棲もしています。奥さんどうなったかは知りません。日本の彫刻家宮脇愛子とも深い親交を結んでいます。
(そう言えば彼の最後のポートレートは宮脇さんでした。)
途中戦火を逃れてアメリカに渡りますが、巴里ほど受けないのですぐに戻ります。

レイヨグラフ(フォトグラム)、ソラリゼーション(このモノトーンにはかなり意味がある)、ディストーションは、マンレイにとっては副産物のひとつであって、肖像写真もサイレント映画も彫刻も絵もやはりその他の一つであって。
写真は「芸術ではない」「私は謎だ」(展覧会の名前)など少しダダの香りのする芸術を小馬鹿にした感覚とユーモア。

何か「ウェットに富んだ少年がただ大きくなったという感じで、どこまでも偉大な芸術家という感じではありませんでした。日常的な何でもない生活が、すべて創造であるような、そんな毎日を送っていた人でした」と宮脇愛子の述べるところに彼の本質があるような気がします。