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2014年4月30日水曜日

メメントモリ -3  蝶翳~紅棘~天鏡

蝶翳~

「猫は漬けもの石である。」
この写真集は、すこぶる強力なコピー本でもあります。
これも、何にも言えません。
バカボンのパパに何か言えますか!
というくらいのレヴェルです。

「よく気をつけて見ていると、足もとに、いつも無限の死がひそんでいる。」
死はこの国では探さないと見つからない。
葬式も家族葬でなかなか表に出ない。
お別れの会?は普段着を要請される。
死を何故隠すのか?
死人の顔を何故見せないのか!!



紅棘~

「南の午後、夏、一匹の蠅がわたしの体に影を落として二時間ついてきた。」
一面緑の叢。
蠅の二時間とはどのくらいの時間なのか?
匂い立つ緑の叢の中に時間等というものが果たしてあったのか。
「わたし」という運動体ー異物によって時制が生じた。
「影」の出現とともに。

「歩いていると墓場を巡っている気分になる街がある。そんな街の住人は、死人のようにやさしくて、めんこい。」
確かにあります。
田舎にあるかというと、そうでもない。
都会に残っているかというと、そうでもない。
でもふとしたところに、いまもみつかる。
それは、如何にも、といったところには、ない。
わたしの場合、背中に感じるような場所。
あなたは?

「ひとがつくったものには、ひとがこもる。だから、ものはひとの心を伝えます。ひとがつくったもので、ひとがこもらないものは、寒い。」
わたしがものに夢中になるとき、それは、それにこもった作者の心に共振しているからだ。
わたしがMacに心奪われるとき、スティーブ・ジョブスの理念に共鳴している。
機械による大量生産を経ても、それは消えない確かなものである。



天鏡~

「あの景色を見てから瞼を閉じる。」
そんな景色は恐らくは、何処かで見ているはずだが、思い出せない。
この写真を見ると、ここは、あそこだと解る。
藤原新也はそこを写真に撮ってしまった。
彼が死んだら真っ先に逝くところなのだろう。
写真で見てきたから迷うこともない。

「かつて標高四千メートルの、これ以上青くしようのない真青な空の下で暮らした。あれ以来、下界に降りて、いかなる土地に行っても空が濁って見えるという宿業を背負ってしまいました。」
究極を知ると、すべては中途半端になってしまうのですね。
中途半端な地平に垂直的なベクトルを探すのみです。
出家するのでなく。どこへ移動するでなく。
このままからそのままに。


彼の言葉がすべてそのまま「光画」と形象しています。
「言葉」が画像となるとこうなる、というものをまさに、見ました。


2014年4月29日火曜日

メメントモリ -2 

最近、写真展によく行くことがあったが、やはり良い物を見なければいけない、とこのメメントモリを見て、つくづく思った。

切るところが違うというだけでなく、絵そのものの次元が違う。
その写真家の写真は彼の言葉通りのものである。


「乳海」の章にある「あの、ヒトの群を見たとき、後光がさす、とは、朝日によって逆光されたヒトガタの輪郭が輝くのを言うのではないか、と思いました。」
この写真など、藤原新也だからこそ撮れる写真だと思う。
バーン・ジョーンズが藤原の言葉を理解したなら描けそうな絵だ。
朝日の中のこれだけ多くの群像。
上の言葉の元ではじめて掴まれた画像だ。
もっとカラッと白んだ昼空の中に後光にくるまれた人々を撮った写真家に東松照明がいる。
どちらも、光が何であるか知っている。
光を的確にとらえている。
光が主題化している。
この光のトーンこそがこの言葉を見事に実体化している。

「ありがたや、ありがたや、一皮残さず、骨の髄まで、よくぞ喰ろうてくりゃんした。」
三途の川とはこのようなものかと想うオレンジに静かに暮れる川面に、人骨とそれを啄ばむ鳥二羽の黒い影。
二色だけで描かれた寺の襖絵にも見える。



「眠島」から
「植物は偉大な催眠術師だと思う。」
この緑の抑えたトーンのやわらかで優しい光はまさに天然睡眠導入剤だ。
起きている必要性を忘れる。
植物の生に誘い込む写真。

「いねむりの中にも、覚醒がある。」
眠っているときの覚醒の写真が撮れるのは藤原新也以外にいるだろうか?
ベッドの横に置いておいた夢日記に記述しようとして出来なかった光景を思い出す。

「家にも体温がある。」
藤原の写真にはその場所の体温が写実されている。
どれも精確に。
他の写真家はその写真家独自の温度設定を写真に施す。
奈良原一光は彼独自の温度で統一する。
藤原は一枚ごとにその場所の温度を移す。
あたかも、そこから採取したかのように。



続きます、、、。








2014年4月28日月曜日

メメントモリ ~ 藤原新也

これはまず、決して普段の日常生活で見ることは叶わぬ光景です。
夢の中でもそうは見ないものでしょう。

死体だけなら、、、
自分が殺人現場に居合わせたり、遭難者を山や樹海のようなところで発見してしまったり、突然ほど近い場所にいた人がクマに襲われた、とかいう事件が突発的に起きれば、目にするでしょうが、その時は自分の身もかなり危機的状況に置かれているでしょうけど。
確かに今は、通り魔とか飛ばしすぎや気を失った運転手の乗っている車が突っ込んでくるという避けがたい事件が多くなっています。
特別な場所ではなく、極めて日常的な場所でそれは起きています。

しかし、この写真集にあるように、普通の道端や水浴しているすぐ近くにプカプカ人(行者)の屍が放置されていて、それがなぜかその場所に親和的で、きれいに見えていたりすると、死が大変近い場所なんだな、とその光景が自然に身に沁みてきます。
死体が写っていなくても、彼岸の光景を想わせるあまりに美しい畑など。
何かほっとする清く、牧歌的な風を感じます。
藤原新也の写真ー光画がすべて温かい救いに満ちた光を放っているからでしょう。

人だけでなく、犬も死んでいる。いろんなものが死んでごろごろしている。
これだけ死んでいれば、あるいは死を想わせれば、生きとし生けるものはみな死ぬということに、誰もが思い当たるはずです。
大変健全な姿、光景です。
こういったものこそどんどん見せるべきです。

今、Tvで放送されている子供向けの漫画や実写番組は圧倒的に暴力的で残酷、短絡的で想像性の欠けたものが多いです。これらは親としても見せたくはないのですが、選べないのです。ちびマルコのようなものがあまりに少なく。また一度見てしまうと、中毒気味に惹かれてしまうところがあります。本当に要注意です。


さらに藤原新也の凄さは、コピーにあります。
コピーは今や街にメディアはもちろん、Webに溢れ返っています。
すべて市場にわれわれを連れ出す誘い文句です。
そこへ、、、

「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。」
「太陽があれば、国家は不要。」
「死体の灰には階級制度がない。」
「つかみどころのない懈慢な日々を送っている正常なひとよりも、それなりの効力意識に目覚めている痴呆者の方が、この世の生命存在としてはずっと美しい。」
「眠りは、成仏の日のための練磨のようなもの。」
「母の背は、曠野に似る。」
「つらくても、等身大の実物を見つづけなければ、ニンゲン、滅びます。」
「花を真似た花は、花より愛おしい。赤子を真似た赤子は、赤子より愛おしい。」
「黄色と呼べば、優しすぎ、黄金色と呼べば、艶やかに過ぎる。朽葉色と呼べば、人の心が通う。」
「その景色を見て、わたしの髑髏がほほえむのを感じました。」
「こんなところで死にたいと思わせる風景が、一瞬目の前を過ることがある。」
「日光浴は生命をやしないます。月光浴は死想をやしないます。」
「祭りの日の聖地で印をむすんで死ぬなんて、なんとダンディな奴だ。」
「あの人骨を見たとき、病院では死にたくないと思った。なぜなら、死は病ではないのですから。」

この破壊力です。
上記すべて写真についたコピーです。ほんの一部です。



ちなみにこの写真集の巻頭の言葉。


   ちょっとそこのあんた、顔がないですよ。

2014年4月26日土曜日

第6回水彩スケッチ「水陽・輝水会」展 ~ 水彩画と写真についての覚書

今日、水彩画展に行った。(相模原市民ギャラリーにて)
かなりの点数であった。
みないくつかの同じモチーフを使った水彩画で、風景、静物をグループごとの単位で一緒に描いたものと思われる。

見ながら思ったことだが、油で抽象を描く作家も何故か水彩では具象の習作を描いていたりすることが少なくない。
別に水彩が形式的に抽象に向いていないということはないはずだ。
ただ、具象を描くにあたっては、クロッキー的にまたはスケッチ的に描くには明らかに水彩は適している。
ここだ!と一気に「全体を捉える」うえで一番適した描画法だ。

だから、写真に大変近い捉え方にもなる。(最近写真を見ることが多くなり自然に気にしてしまう)
その構図の切り方やフレーミングにおける意識から。
ひとたび描いたら(撮ったら)その一枚においては、やり直しは利かない。(特に透明水彩)
もちろんそれが光学的に瞬時に定着するか、感性と技巧によって制作されるかの差異はある。
しかしどちらにしても対象に依存した(立脚した)素早い(一回的)「表現」である事に変わりない。


さて、以前わたしは他のブログでWaterlogue~写真を水彩画にするアプリという写真をかなり気の効いた変換パタンで(あえて精度とは言わない)、水彩画の見え方にしてしまうアプリを取り上げたのだが、ソフトによるフィルター変換によって今回見た水彩画展で見られる作品のほとんどのものは現在、出来てしまう状況だ。

水彩画が写真に近い構造があると言ったが、写真は一瞬の内に水彩になってしまう。
近いではなく、ほぼイコールに。
見た目には、であるが。見た目以外に通常調べる必然性もない。
これも科学技術によって、である。(科学技術の支配とは
スマフォやパッドで見る分には分からない。それが高精細パネルであっても。
もちろん、以前からフォトショップによるフォトレタッチで作成することは流行っていたが、このようにワンタッチで水彩画変換に特化したソフトが出ている。


今回の展示会をすべて写真から変換してプリントアウトして並べて飾ったとしても、何ら違和感なく観客は鑑賞して帰ってゆくことだろう。
もはや、どちらがどちらか質的にほとんど分からない。
描いた当人は自分なりに描き、達成感に浸っているであろうし、それはよいのだが、見る側は何か単なる定型パタンを眺めているだけで閉塞感を味わってはいないか?
お友達のがんばりに感心している人たちを除いて。
わたしは、何かを求める気持ちで前向きに見てみたのだが、正直何もなかった。

恐らく、描いている人たちは、技術の習得の過程を見せてくれているわけで、一般に対し展示発表しているにせよ、それを他者からとやかく言われる理由はないかも知れない。
しかし何というかひとつの水彩画としての典型的な型として描かれている以上、それらは容易にテクノロジーの下に同等のものが写真さえあれば、出来てしまう現実がある。
これはどう捉えたらよいものか?


それは見る側の前提となる感性の変質によるものが大きく関与する。
と同時に、制作者たちの感覚も写真文化の中に取り込まれ、その見かたに慣らされていることは事実だ。(写真的遠近法をとっても、少なからず写真的見方は前提化している)所謂、伝統的写実主義の内にあるため、尚更写真から変換しやすい絵だ。
つまりどれをとっても、技量の差が窺える程度で、みな同じなのだ。
イデアが感じられない。


今後、このような展示会はお友達以外に価値を持つ展示会ではなくなってゆくことは確かだ。




2014年4月25日金曜日

東松照明 ~ 泥の王国

本の背を見て、なんだこの日焼けで文字が消えてしまったものは?と思い、手にとったのが「泥の王国」(東松照明)だった。

この写真集は高校の時に観て、確かに泥の国が切り取られているな、という漠然とした感慨をもったものだが、3分の2くらい観たところにあった黒いテントの前に佇む少女の姿に、激しいデジャヴを感じ、それがなんである分からず暫くそのページに見入ってしまったものであった。
その経験を思い出したのだが、それから何十年かが経ち、まずそのページがそれであることすら、最初は、はっきりしないほどこちらの観る目が変わっていることに驚いた。

恐らくその少女のこちらを睨むようなその眼差しと、歯を食いしばっているかのような印象的な口元による表情が、わたしの記憶に沈んでいた何かを呼び覚ましたのかもしれない。もしかしたら当時のクラスの誰かを思い起こすものであったかも知れないし、そのころよく読んでいたオカルト関係の書籍に触発された前世の光景とかの想像がそこに投影されていたのかも知れない。

ともかくいまより感性は瑞々しかったから、いちいちよく感動はしていたものだ。
しかし一度感動したり、目眩に似た感覚を味わったとしても、そこに何らかの言葉がおさまれば、通常のコンテクストに収集され理解されて落ち着いてしまう。(現実に復帰している)

音楽でもそういうことがよくあった。名前の思い出せない音楽が突然流れ出した時の圧倒的な感動とあまりに鮮明な幻想。それに耐えられなくなりそうになり、生命の危機を感じるような畏れを抱いた時にその曲の名前が思い出されてようやく今その時の日常に落ち着くことができた。そんな経験はよくした。

例の写真はとても美しい写真であるから今も観るほどにその魅力に打たれるが、当時の感覚で見ることはかなわない。

何が変わったのか?
コンテクスト(時)が変わったのと、自分の経験(記憶)、言葉、感性、感受性の変化によるものか。
それは当然、音楽に対する趣味も変わったし、昔あんなに良いと思っていたのに、という感慨にひたることはよくあるものだ。LPなどを手にしながら。

これらのページをずっとめくってみて、かつてのその少女のような強い感情を呼び起こすようなものは、ないのだが、鑑賞するうえでは、いずれも優れた作品ばかりで、それを前に充分に時間を費やすことはできる。

そのある現実の切り取りがアフガニスタンでありそこが王国であったころの光景であろうと、特別それで何か興味をそそる物ではないし、珍しさとか変わっているとか名状し難いものを前に判断中止で宙吊りになってしまうとかいうことはない。内容的にも形式的にも。もう何かこころをかき乱すような未知のものなど恐らく何処にもない。

しかし、よく見れば見るほど良い写真集であることが分かってくる。
何をもって良いとか悪いではなく、まず良いものであることが分かるというものだ。
あえてその理由などをでっち上げる気持ちになれない。
ある意味、これらは写真的でないように思える。

被写体たちがみな構えてはおらず、決定的瞬間であることは分かるが、みなが自然でいつもこうしているんだろう、こんな感じの人なんだろうということを研ぎ澄まされてはいるがそれを優しく伝えている。だから表現というような強度をあまり感じさせない。
かといって、わたしの日常のコンテクストにスポッと入り、理解されてしまうほど安易なものでは決してない。一枚一枚の奥行が広く、畳まれた時間もとても濃い。
美しい。

これらの感想がすこしでも述べられるのは、まだ先だ。


2014年4月24日木曜日

消滅した時間 (断片補遺) ~奈良原一高


アリゾナの「ゴーストシティの少女」
もともと廃園に少女はつきものだ。
腕を広げて髪をなびかせローラースケート。
光の空間と闇の空間。
ともにわれわれの空間に繋がっている。
闇の中では大概、少女の親が酒を呑んでいる。


カリフォルニアの「ゴールドラッシュ時代の家」
見事な廃屋。小さな板を一枚剥がすだけで家は跡形もなく崩れ去るだろう。
余所余所しい犬が二匹距離を置いて同じ速度で歩く。
想い出にならない想い出。
消滅した記憶の現場。
犬が引き受けている。


ユタ州の「夜のキャンプ」
動くものなど何一つない木々に囲まれた小高い丘。
ガソリンを撒き散らして走るセダンに付けられたキャンピングカーが白く輝く。
もう夜中だ。
全ては寝静まっている。
しかし、、ここでは昼も朝も寝静まっている。


サウスカロライナの「アドバタイズメント」
おおくの車が駐車するなか。
サングラスをした巨人のエンターティナーが向こうを指差す。
それはうんと彼方ではない。
しかしさほど近くでもない。
車で行かなければ着かないところだ。


ワシントンDCの「ワシントン」
ドームに尖塔が突き刺さっているような、これは墓碑銘か。
ちょうど照準を合わせたかのように
挑発的な巨大な墓は忽然と完成していた。
何も飛んでは来ない。
廃墟なのだから時間はすべて滑り落ちる。


ニューヨークの「砂にうもれた階段」
階段があるところから砂地に消えてゆく。
すべての輪郭がある境界から揺らぎ始め
風の作る砂模様へと同化してゆく。
廃園の自然学。
砂の明暗は強烈だ。



参考記事:奈良原一高 ”消滅した時間”



2014年4月23日水曜日

消滅した時間(続々) ~ 奈良原一高


ニューヨークの「遊技場」
バスケのボールを操る黒い手。
巧みなボールさばき。
どこから!?
誰がほおったのか、いまにも入りそうなボール。
空間の外を現在させる瞬間の凍結。


ニューヨークの「日曜日」
おう、初めての顔の見える人。しかも群像。
と思ったら、人形か?
しかし間違ってもマネキンではない。
かつては人間だった人形だ。
今から、200年ほど前は彼らは人と呼ばれていたはずだ。


カリフォルニアの「グラスと太陽」
夥しいグラスが蛍光灯でも白熱灯でもなく太陽の光に晒されている。
新しい白日夢の始まりだ。
いや、終わりか?
月が太陽に取って代わるまで何とも言えない。
ただ、その頃までには月夜のブランデーが注がれていることは確か。


アリゾナの「電線工事」
ひとりでトラックの上に立ち電線を繋ぐ人影。
時間は分からない。
温度も湿度も分からない。
天気も定かではない。
でも電線は常にまっすぐ引かれてないとまずい。


アリゾナの「ゴーストシティ」
もちろん誰もが胸躍るゴーストシティ!
この世で、ゴーストシティより人気のあるスポットなんてない。
とくにここは平板で薄く、フラットな光が全体を覆っている。
まるで光そのものが初めからないかのごとく。
だからドラマというものは一切起きない。


ニュージャージーの「引越し」
屋敷の軒先に置かれた家具は、持ち出されるのか、なかに納められるのか。
月のない暗い夜だ。
何も見えない。
作業は中断。しかし窓には動く人影が。
もうどれくらい経つ?


アリゾナの「霊柩馬車」
柩に入るべき老人が、向かいに立って眺めている。
霊界の窓-出入り口になっている霊柩馬車。
その柩は鏡より鮮明に見えてしまったものを見せている。
いや、もう老人は中に入っている。
向かい側などという外は初めからなかった。





2014年4月21日月曜日

消滅した時間(続) ~ 奈良原一高

ニューメキシコの「ドライブインシアター」。
広大な空き地に犬が一匹。
空間に対し小さすぎる、スクリーンがひとつ。
ヘッドフォンが目の前に。
「あなた」の声を聞いてみるか?

コロラドの「岩肌の見える窓ーローラースケート場」。
舞台の書割よりもぞんざいな窓のついた岩肌。描かれた段ボールか。
その前を古びた操り人形がローラースケートで通り過ぎようとポーズ。
人形は舞台に降ろされたばかり。
路面はツルツル。気をつけろ!

「トイレット」。
広大な荒地の中にポツンとあるトイレット。
そこを訪れる人。
目を疑うシチュエーション。
不在のコンテクスト。
炎天の中のブラックボックス。

ニューメキシコの「裸のベッド」。
ニューメキシコの名物、”月”を見るにはもってのほか!
マットレスなどなくても、クッションは生きている。
おまけに枕がある。これは謎だ。
周りは空き地。周囲は物語を語る木々。整いすぎている。
月はまだか?

カリフォルニアの「夜のモーテル」。
ポール・デルヴォーが泊まっている。
全く物音をたてない、骸骨と裸婦たちも一緒だ。
ここで絵を描いていたのか?
でも、モーテルには一人も泊まっていないかの如く。
光が柔らかく壁を滴り落ちている。

アリゾナの「インディアン・ロックバンド」。
広大極まりない荒野。
monumentalvalleyを原風景に立ち並ぶスピーカーにアンプ。
そして中央に鎮座するドラムセット。
インディアンと客だけが独りもいない。
最高の舞台。または、デジャヴ。

ワイオミの「長距離バス」。
真面目で勤勉な運転手がいまも長距離バスを運転する。
その距離はもう数千光年を超える。
しかし運転手はタフだ!
一睡もせず、理知的な横顔をまったく崩さない。
いまにも揺らぎ立ち消えそうな幻影となっても、、、。





2014年4月20日日曜日

「消滅した時間」 ~ 奈良原一高

”WHERE TIME HAS VANISHED”
すべてモノクロです。


確かに、「時間」が消滅した「場所」です。
あまりに有名な「インディアン村の二つのごみ缶」の凍結して宙吊りになった缶と稠密な雲に代表される「場所」の写真です。
むしろ大変な速度で移動していた物体が忽然と止まってしまった。
そんな光景。

アメリカのいくつもの州をまたぎ、消滅した時間をフィルムに収めています。
雲がまず特徴的です。
尋常ではない異物感。
空間に固定され永遠に動かない、純粋な「量」自体である「雲」。
それはまた、虚無のように白い。

アリゾナの「砂漠を走る車の影」。
車はもはや何処も走っていない。
少なくとも地上ではない。
影は見えても。
実体は消えてしまった。

多くの写真家が撮影場所に選ぶニューメキシコ、「ホワイトサンズの稲妻」。
他の引いた稲妻の写真との違いは?
音がいくら待ってもしてこない。
さっきまで音が聞こえていたのに。
静謐の中に、忽然と封じ込められた。

カリフォルニアの「海辺のキャンピングカー」。
窓ガラスに薄汚れて貼り付く少女の亡霊。
さっきまでは笑って燥いでたよ。
ほんとだよ。
ごみで汚れた荒涼とした砂浜。

ニューメキシコの「ハイウェイテレフォン」。
何て気持ちよい光景だ!
ここから電話したい。
ここから「あなた」に。
わたしを通して何が語られるのか?

「山の中のレストラン」。
フォークとナイフは客をずっと待っている。
窓も開け放たれたまま。
白昼夢のなかに凍結し。
「あなた」を待っている。

ユタ州では「月夜のエアストリーム・トレーラー」。
あなたは何故、非日常を欲するのか?
「月夜」でしかも「エアストリーム・トレーラー」
時が流れるはずがない。
しかもすべてが模型ではないか?

フロリダでは「炎上する気球」。
火も煙も見えない炎上。
確かに気球はお尻から落ちてる。
妙な角度で止まっている。
トワイライトゾーンでの出来事のひとつ。


全体の10分の1ほどページを捲って見た。
本があまりにでかくて重く、ここで切り上げる。
もう腕が耐えられない。
一枚の写真の中に詰まっている情報を読むには、他の天体の情報を探る要領になる。
実際ここが地球かどうかは保証はない。



どこかで続きをやるかも、、、。


2014年4月19日土曜日

Balthus ~ バルテュス展行ってまいりました。



初めて観る絵がいくつもありました。
小品や習作が主ですが、興味深いものばかりです。

気になっていたライティングですが、可もないし不可もなし。
ただそれぞれの絵に適切な光が当たっていたかというと、疑問ですが。
それほどの設備もないのでしょう。

自分の作品にどのような光を当てるかにかけて、バルテュスは誰よりもこだわる画家ですから、そこは大切です。

さて、今回は彼のお気に入りの持ち物やら、アトリエの実物台模型とか、奥様と一緒に和服を着た姿から、家族の写真(晴美さんも含めた)などにも、かなりのスペースをさいていました。
アントナン・アルトーはしばしば彼を大絶賛し、バルテュスは彼の演劇の舞台装飾も手がけました。
勿論、アンドレ・ブルトンさんもたびたびコンタクトしています。(私のブログ最多出演の)
おっと、リルケを忘れてはなりませんね。幼い頃のバルテュスの才能を認めたひとです。
シュル・レアリスムのお仲間には入りませんでしたが、そこのジャコメッティと友達になりました。
そのへんのことが写真の助けもあり雰囲気的に感知できるところはあるにはありましたが。

ともかくバルティスのことは何でもかんでも見せちゃうぞ、という意気込みはよく伝わるものです。
なにより主要作品の多くが取り揃えられていていることには感心しました。そこは感謝したいくらいです。

でも、あまり周辺的な物まで見せられても、わたしのようなファンでも別にさほど興味はひかれませんね。特別研究でもしている人なら役立つのでしょうか?分かりませんが、メガネも置かれていました。


今回の絵は、ほぼ年代順に並んでいたように見えますが、表面テクスチャーを見ていくと、例の「樹のある大きな風景」あたりからは表面の厚さや、凹凸の激しさが増してきます。
「横顔のコレット」から(もっと前からもはじまっていますが)は、目立って透明色の塗重ねが厚くなっています。

今回もコレットの横顔は、本当に宝石のようでした。
うっとりするほど美しい横顔です。
その横顔の原型は、やはりピエロ・デラ・フランチェスカからかな、と思います。
模写が何枚もありましたが、確な影響を感じられます。
特に、バルテュスは微妙なハーフトーンの階調で造作を描きますね。
淡く輝く横顔と言ったほうがよいかと思いました。
全体的な色のつくり方、乗せ方、その扱いが、ピエロ・デラ・フランチェスカの研究から獲得されていることがわかるものです。
油絵なのにフレスコ調に感じられるものもあります。

色についてもっと言えば、「牧舎」の色のなんという穏やかで、こころ和むハーモニーか。
わたしが特に好きな「樹のある大きな風景」の色調はなかでも圧巻です。
やはりこの絵の前にいる時間が一番長かったです。
バルテュスの風景は特別ですね。
その季節のすべてがその色で十全に語られています。

人物については、先ほどの「横顔のコレット」は勿論、「鏡の中のアリス」、「キャシーの化粧」、あまりに有名な「夢見るテレーズ」に「美しい日々」さらに「読書するカティア」はバルテュスにしか描けないアルトーを驚愕させた少女たちですし、「白い部屋着の少女」、「部屋」、「猫と裸婦」、「朱色の机と日本の女」などしっかり揃っています。そのうち、「部屋」と「猫と裸婦」は思いの他存在感があり、光の描写、ハイライトが美しいものでした。いまでも像が目に残っています(笑 
そう、「決して来ない時」の後ろ姿の少女モチーフも魅力的です。まさにフリードリヒの血脈を継いでいます。全体の基本構図は「猫と裸婦」ですね。
同一モチーフをかなり反復して描いています。素描や下絵もかなりあるようでした。

後期の作品の、例の歌舞伎の「見得」をしているかのような「トランプ遊びをする人々」が異彩を放ってましたね。何とも言えない神秘的で畏怖を覚える顔です。古典的なものにやはり彼は惹きつけられるのでしょうね。

「ジャクリーヌ・マティスの肖像」、「12歳のマリア・ヴォルコンスカ王女」、「ピエール・マティスの肖像」などは初めて観ました。日本の少女の顔の素描がまた素敵でした。バルティスがまたどのように日本を見ていたかの一端を確認できた気がします。他に冗談にしか見えない、ロートレックが描きそうな「小人」は異色のバルティスでした。アイス食べてるのかな?

バルテュスの古典的な絵づくりの趣に、構図などに大胆な題材の扱いがつくづく感じられた展示会でした。



新たに好きになった絵に、「地中海の猫」があります。これはバルテュスの絵のなかでも構図や題材として異色なものにあたりますが、流れの中で見てゆくと、とても自然に見ることができました。
大好きな猫も主人公でご機嫌な大変楽しい絵です。
猫はモチーフによく出てきますが、彼の描く猫はどれも人のようであまり猫っぽくなく、顔が怖いです。
バルテュス家の猫がそういう顔なのか、彼の捉え方がそうなのか?
恐らく両者だと思います。彼も猫には例外的な敬意を払っていますし、そういう高邁そうな顔の猫を住まわせているのだと思われます。


後は、大傑作「街路」と「コメルス・サンタンドレ小路」、(ついでに「ギターのレッスン」、「猫と鏡」)があれば、文句なしでしたが、重要な作品がこれだけ見れれば、満腹です。
稀に見る品揃えでした。




参考記事:バルチュス ~Balthasar Michel Klossowski de Rola~


2014年4月18日金曜日

第15回相模原市写真連盟展

4月17日(木)~22日(火)
10:00~18:00  最終日16:00まで
市民ギャラリーにて

この写真展は加盟団体が7団体あり、作品数も相当なものでした。
ですから、さーっと写真の前を通過してゆく感じです。
中には昭和28年から活動を続けている老舗団体もあります。

少し前にも、このギャラリーにて、「日本報道写真連盟」のフォトクラブ「ユーカリ」が作品展示をしていました。それも、さらっと観ました。


まず、必ずあるもの。

菫色の雲を下にした上空からの写真。
夕日の真っ赤な空。
お祭りの光景。踊る子供や女性。火の燃える様。
鳥や猫の瞬間的な動きの印象的なもの。
高層ビル。
SL。船。
花。
木。
渓谷。
山々。
富士山。
お寺。
畑のひろがり。
この前の雪景色。
所謂、絵葉書で売れそうな風光明媚な景色。
女性肖像、ヌード。
スポーツの瞬間的な動き。
海外旅行での異国情緒たっぷりな街、河など。
それから、自分のテクニックと機材の優秀さを見せるマクロもの。

以上、必ず見られるもの。


ほとんどが、なんというか、キレー!と言ってここぞと撮ったのだな、とは分かりますが。
それ以上のものが伝わってきません。偶然でも。
綺麗ではあっても特に感動できない。
撮った人の記念にはなるだろうが、第三者のわたしに共有できるものは、ない。

ある意味、写真は難しいなと思いました。
フォトレタッチや何らかのフィルタをかけたり、コラージュにしたりはしても、まずそのまま光景が切り取れてしまうことは、表現としては大きな限界というよりマイナス要因だなとつくづく思いました。
前提としての意識がない限り、何も写ってこない。
わーっきれい、までで終わってしまっている。
その先がない。
作品化しない。

ホントに素通りか?と思ったとき、岩田哲夫氏の「早朝の原野」が目に飛び込んで来ました。
これは、いくらでも写真の前で見続けていたい作品でした。
全体の色調がある幅の内にコントロールされていて、そのバンドの中にすべての意味深い味わいのある色が見事に息づいていて、これが写真か?と目を疑ったほどでした。
バルチュスの風景画のよう、と言えばかなり近いものです。
氏のもうひとつの作品、「王滝」が色幅の広さでは遥かに広く、饒舌で多彩で煌びやかですが、「早朝の原野」には見とれました。圧倒的な「作品」になっています。

もし、この展示会に行く暇のある方は、この作品をご確認ください。


バルテュスの展覧会 いよいよ明日です!

まず、間違いなく混むでしょうが、明日行ってみます♡
明日どうにもならないくらい混んでいたら、また後日行きます!

前回2月20日に展覧会の件をほんの一言ご紹介した記事が、他の画家やロックアーティストを熱く語った(笑 記事より訪問者が多かったのには、みなさんのバルテュスへの興味・関心の高さが窺えるものでした。
わたしは正直へこみましたよ(爆


さて、今回のバルテュス展ですが、以前のステーションギャラリーで開かれたものとの大きな違いは、会場の設営・ライトの設定に彼本人が関わっていない点です。(そりゃそうだ)
画家本人が関わっているかいないかは、小さくないのでは、と危惧するところはあります。
勿論、東京都美術館ですから、学芸員が間違いなく確認してくれるはずですが、ステーションでの展示があまりに素晴らしかったので、そのレヴェルの展示がまた見られるかどうかが今回の展示会の評価を必然的に決めることになります。

前回は、環境をまったく意識することなく、純粋に絵に没頭できました。
つまり、絵を見ることにいささかの障害もなかった。
こころおきなく絵を味わうことが叶った。
ある意味、稀有な展示会でした。


わたしがよく行く、ローカル美術館の適当な展示会では、光が絵を覆うガラスにピカピカ反射して、うるさくて真面に見れないことも少なくないです。その無神経さには驚くべきものがあります。
会場係員は隅でじろじろ客を監視していて、小さな子供にいちいち触るなとか、どうとかと煩く注意ばかりしていて、もともと静かに絵を見ていたのに一体何なんだ、と思うこともありました。実にレヴェルが低い!
素人グループの展示会などで、会員と思しき人が得意になって描画法などをお客さんにとくとくと説いている場面などは、かえって微笑ましく耳を欹ててしまいますが(笑


バルテュスはやはり表面のテクスチャをじっくり見たいものです。
その透明な厚みを。
そこに宿る輝きを。
楽しみです。






2014年4月17日木曜日

三岸節子 ~ 乾いた空気そして赤 ~

以前からずっと、気になっていた画家。
赤にこれほどの深みと表情があるのか、、、
女子美(ご近所)を卒業したフランスでも高名な画家。
三岸節子。



その風景画をじっくり見ていると、空気を感じます。
とても乾いた、暑くてもすっきり爽やかな場所です。

そして赤。
静まり返った赤。
石造りの赤。
赤が、三岸さんです。
尾張の血が描かせる赤。
そいてフランスにおいては
ブルゴーニュワインのような赤い大地。
そして彼女自ら命名の
ヴェネチアンレッドだ!

さらに海は青い。
色彩が溢れている。
ここでは風景画が描ける。
イタリヤにもすぐに行ける。
水を描くには、ベニスに行けば良い。
ゴンドラに乗れば良い。
水面から描くと良い。



南フランスがいかなる場所かが良く分かります。
本人曰く、「絶対自由の世界」
日本の風景は油絵にはならない。
それに気づく。
たくさん気づく。
たしかに飽きることなく眺め続けられる風景がどれだけあるか?

毎日の生活の中で、1度じっくり思いめぐらせてみたい。
飽きることなく眺めていられる風景。
そんな風景とは、、、


画家は風景を描き続ける。
描くことは発見につながる。
そしてまた描く。

最晩年には日本に戻り、人物画を描いていたという。
90歳を越えての新たな挑戦!
老いとは、もしかしたら気持ちの問題か?
これは、是非、観てみたい。



20前後の頃、画家で身を立てる決心をした頃の瑞々しい自画像。
刃のような切れ味を感じる恐ろしくも美しい絵だ。
(絵を修行と捉えた人のとてつもない意志の強さを感じる)

ときおり眺め背筋を正したいものだ。



2014年4月16日水曜日

ドガ ~ 外が嫌い?


以前、印象派について書いたあと、すぐに気になったことがあった。
印象派の画家たちは、絵の具とパレット、絵筆を持って、崇拝する自然ー外に向かって出て行った、ような事を書いてしまった後、そうだ、ドガは外に出てない、ということに気づく。

しばらく気にしていたのだが、すっかり忘れていた。

後期印象派のスーラならともかく、モネやルノアールの友達のドガである。
「光の戯れ」よいフレーズだ。(ドビュッシーの「水の戯れ」が自然と流れてくる)その戯れを捉えるのは些か室内では心もとない。

そこで、画集を久しぶりに出して、ドガが何を描いていたか確認することにした。
すると、そうだ、馬も描いていた!思い出した、馬もいた。
馬は、外にいる。
室内にわざわざ馬を連れてきて描くのは無理である。
走れない。
静止した馬を描くならともかく、ドガの馬は走っている。

しかし、馬だけである。他にもあるかも知れないが、多分馬は例外的な題材であったかも知れない。
というのも、馬の絵以外はすべて基本的に室内であった。
例外というものは何にも存在する。

だが、さらにゆっくり見わたすと、ドガは印象派のキャッチフレーズである「光の戯れ」を描いている節が無い!?今更気付いた訳でもないが、再確認すると少しばかり驚く。
ドガは印象派ではピサロの次に展覧会に出品している中心人物である。
これは「光の戯れ」という美しいフレーズは彼らに対し使わないほうがよいかも。

では因数分解すると、何が項として取り出せるかというと、「瞬間の動作」か?いや、無生物も含めると、「瞬間の運動」となるか?
これなら、馬も問題なく入ってくる。
部屋に入らなくとも。

ということで、ドビュッシーの水の戯れが好きなので、印象派でも光の戯ればかり強調してしまった気がするが、「瞬間の運動」を捉えたとすれば、光の瞬きも入ってきてモネたちも悪い気がしないはずだ。

まずは以上、です。

ついでにもう少し鑑賞して寝ます。

やはりドガと言えば、踊り子だ。オペラ座の。
大変微妙な動作がここには伺える。勿論、カフェのお客の姿も同様である。
例えば歴史画のような、モニュメンタルなドラマチックで白々しいものではなく。
まさに写真に撮ったスナップショットばりの何気ない切り取りがある。
この動作の妙こそドガの魅力であり革新的なものではないかと思える。
いや、そんなことは誰もが言っている、という声がすぐに聞こえるのだが。
1度、先ほどのコンテクストの中で整理してから眠りたい。

「瞬間の運動」というのが、ドガーモネを繋ぐにはよいが、ここでは取り敢えず「瞬間の動作」に置き換えて考えると、よりドガの狙いが鮮明に浮かぶように思える。
つまり、ドガは健康的なキラキラする表面的な瞬き運動よりも、構造を伴う微妙な動きの探求により魅力を感じていたのではないか。だから外はもともと嫌いなのに(嫌いなのはわたしか?)馬は別格だったのかも。踊り子ーヒトだけでは物足りず。異なるダイナミックな構造体である馬も描いてみたいな、と思ってもおかしくないし一貫性もある。

今夜はこのへんで、おやすみなさい。








2014年4月15日火曜日

レンブラント 最初に知った大画家


レンブラントと言えば、夥しい「自画像」や集団肖像画であるテュルプ博士の解剖学講義』やフランス・バニング・コック隊長の市警団の集団肖像画所謂、「夜警」が圧倒的な傑作として有名である。歴史画や銅版画、デッサンもレンブラントならでは、と言えるものばかりである。

(わたしは子供の頃、レンブラントは凄い絵かきなんだ、と信じ込まされてきたものだが、長じて実際自分でよくよく見てみると、成程凄い画家であることが分かった。)

集団肖像画が当時流行っていたというが、レンブラントはそれを歴史画的な大変ドラマチックな構図にまとめた。芸術性の高さ、崇高さという点では見事な作品となったが、登場人物が平等に描かれていないという不満を俗物的な依頼主からもたれることも少なくなかった。
しかし、レンブラントは人の言うことなどに耳を貸すような画家ではない。自分が高名な画家として歴史的な存在となる野望をもっていたから、自身の芸術的要請にのみ従い制作を進めていたに違いない。

いずれにせよ、彼は独立した22歳くらいから高い評価を受け始め、先のテュルプ博士の解剖学講義によって決定的な名声を勝ち得てから、肖像画依頼は各方面から殺到し、たちまちオランダ全土はおろか他のヨーロッパ各国に至るまで名声が轟いていたので、すべて自分のペースで制作が出来ていたはずである。
オランダはこの頃、東インド会社成功によりヨーロッパ1の裕福な国となっており、市民社会の勃興による景気はめざましく、誰もが部屋に「絵」を飾ろうとしていた。豪華な衣服を纏った自分の肖像画である。

レンブラントはと言うと有り余る財力で市場に上がってくる国外の珍品や名画コレクションに没頭した。サスキアというこれまた財閥の娘を妻とし、その財源も使っている。
このコレクション癖が後の破産につながる。
しかしこの時期は、ひたすら弟子に囲まれて、歴史画や肖像画、自画像等の量産に明け暮れ、膨大なコレクションに埋もれていった。後に『放蕩息子の酒宴』(レンブラントとサスキア)という居直った名作を発表している。「これでいいのだ」、というノリのちょっとおバカな感じの絵である。

ただ、面白いところは(面白くないのだが)、弟子も周囲に殺到してきて、レンブラントの工房で研鑽を積むのであるが、その弟子たちに平気で自分の作品に手をつけさせたり、大胆に加筆を許したり、こともあろうに弟子が描いた絵に自分のサインまで入れていた(入れるのを容認していた?)ということである。レンブラントの工房にあり、著名がないため師の影響を真面に受けた絵画群は一見紛らわしく、レンブラントの作とされたものも多かった。しかも腕達者による贋作も横行する。どういういきさつからそうなってしまたのか、贋作以外については意味不明の事態である。これによりレンブラントの作品は膨大な数に登ってしまった。オランダ随一の画家レンブラントの作品は勿論、それ相当の高値である。信じて購入したあと、無名の弟子の絵でしたと分かれば、価値は当然大暴落である。

実際に、今世紀レンブラント・リサーチ・プロジェクトが組まれ、贋作や弟子の作品を誤ってレンブラントのものとしたケース、単なるお師匠様の模写、面倒なのは本人の作品を弟子が改悪したもの、(これは大変な時間をかけて専門の修復師が修復しなければならない)が次々に暴かれていった。当然、自分がレンブラントの真正の作品と信じて購入していた人々からは、レンブラント・リサーチ・プロジェクト(R・R・P)は鬼扱い(マフィア扱い)された。
コレクターや美術館は、権威にも関わり、ビクビク状態だ。

しかし面白いエピソードとして(これはホントに面白い)、瓜二つの若い時の自画像についての真贋論争がある。野心に充ちた誇り高い自画像であり、どちらもとても優れた作品である。それがそれぞれ、ニュルンベルクとハーグに所蔵され、長いこと前者がコピー、後者が本物と看做されてきた。「コピー」の方は「本物」よりコントラストが弱く、筆遣いが荒い。
しかしハーグの修復師の赤外線による描写手法の分析から、決定的な結果が報告されることになる。長いこと本物とされてきた自画像にはレンブラントが決してしない下描きの線が発見されたのだ。コピーのための写しの線であった!
これは美術界を揺るがす大事件であった。何と言ってもR・R・Pの鑑定も間違っていたのである。
それ以来、ドイツのニュルンベルク版が真正と認められた。所詮人のやることである。

レンブラントはもともとタッチは荒く、その傾向は後期・晩年へと加速する。
晩年の大傑作『ユダヤの花嫁』は、ゴッホもびっくりの厚塗り、荒描きなのである。
ゴッホはかつて、この絵の前に立ちどまり「何と親しみのある、思いやりに満ちた絵だ。これは燃えるような手で描かれた絵だ。なんという高貴な感情、量り知れない深み。こんな風に描くには何度も死ななければならない。レンブラントが魔術師と呼ばれるのは本当だ。この絵の前で2週間過ごすことができたら、寿命が10年縮まってもよい。」といかにも彼らしい感慨を述べている。

厚塗り・荒描きのレンブラントの特徴であるが、これがレンブラントをまさに「光の魔術師」とするところである。
R・R・Pの分析によると、彼の絵には、顔料にゴム成分が混ぜられているため、絵の具が分厚く定着出来るようになっているそうである。その上に筆やナイフなどによって凸凹がつけられ光の反射を呼ぶことになる。あたかも光をそのテクスチュアが捉え込むかのように。
さらに、『ユダヤの花嫁』の有名な袖の膨らみであるが、その極端な厚塗りは地塗りに鉛白に卵を混ぜたものを使用していることが判明している。それをナイフでバターを塗るような手際で質感を意識して塗りつけ、彫刻のように盛り上げる。乾かした後、黄土色で絵の具を布で拭き取りながら塗りつけてゆく。つまり地塗りを活かしつつ絵の具を厚塗りしてゆくのである。凸凹に反射する光と、内側から発光する輝きで、あの袖はまばゆいばかりに輝くこととなる。
光の魔術師の技法の一端である。

さて、ルミニズムとしての光の使い方であるが、彼の「自画像」や「歴史画」はドラマチックに光と影で演出されている。フラットな光に当たっている作品ー顔は恐らくない。特に顔は光の当て方次第で表情が決まる。つまり内面・感情が表現可能となる。
以前わたしは、3D作品を作って、スポットライト等を複数で向きを変えて対象を照らしてみたが、静止画なら、これで決まると言ってもよいほど、ほんの僅かな角度の調節で大きく表情つまり意味が変わることが分かったことを改めて思い出す。
ライト(光源)の数は重要だ。

というのも、レンブラントに限らず、画家は単一な光源だけでなく、微妙な光の効果を狙い、隠された光源も用意している。窓が空いているからそちらから日が射すというような単純なものではなく幽かに鏡や金属のテーブルに反射した光や何かに乱反射した光なども表情を作るために使っている。画面の外に光源があることもしばしばである。そうでなければ説明のつかない明るみが見い出せる。レンブラントの絵もそうだ。というよりレンブラントの絵こそ、その光によって作られる明暗で意味が浮かび上がってくる。

レンブラントは生家の風車小屋を揺りかごのようにして育ったそうで、風車の回る度に射す光と影が後のレンブラントの源視覚を作ったのだ。という言い伝えがある。




2014年4月14日月曜日

ブルトン~モロー 「ピエタ返歌」

今日は私が師と仰ぐ方のブログから、その感想めいたかたちで私なりの記事を書かせてもらいます。ブルトンにつて知らないことがたくさんあることが分かり、読むべき本についても知らされ、画家・作家たちの流れも意識できました。

ここに原文をご紹介させて頂きます。エストリルのクリスマスローズ

アンドレ・ブルトンの目の確かさは感じていましたし(気になる人のところには必ずいるマメな人ですし)、優れた理論家だとも思っていましたが、さらに奥深い存在だと感じました。
それを取り上げた安部公房、面白いですね。(彼の作品はまだあまり読んでいないので、是非「壁」読みます。)

さてモローはイタリア旅行で、まずは例の御三家と一連の画家を研究したようですが、すぐにウッチェロに強く惹きつけられたそうですね。あの細密に描き極めることで幻想的で目眩を誘うような世界を出現させてしまう彼は独自のゴシック的想像力と幾何学的な構築力そして強力なコントラストの鮮明な色彩ももち、モローの世界を充分に刺激するであろうことは想像に難くないです。それはまた、アンドレ・ブルトンの提唱するシュル・レアリスムに直結しています。

私も子供の頃、「聖ゲオルギウスと竜」はお気に入りで、よく画集で見とれていました。
彼は初期ルネサンスの時期の画家ですが、20世紀のシュル・レアリストがあの絵を描いても何ら不思議はありません。現実を克明に描けば描くほど(ディテールを追えば追うほど)幻想性がます、このことはブルトンから教えられ、その例が、ウッチェロしかり、ダリしかり、カフカしかり、、、と私の中で咀嚼されていきました。

ゴシックは現代において、サイバーパンクなどに引き継がれていると思われます。ファッション的な面で広がっているものは特にゴシックと名付ける必要性は感じませんが、ただある意味、形式的に忠実な継承とは言えないまでも、精神的な意味での無視できない影響ー発現は少なからずあるように思います。
かつても確かにグロテスクな趣向をもち、それが異教的であることから暗黒化されてきましたが、大変芳醇で、魅力あふれるものであったと思います。(狭義には建築のみを指しますが)
勿論、それはシュル・レアリスムに通底しているはずです。

そして、モローも手記などには、シュルレアリストのような事を普通に書いています。特に後期の抽象画ともとれる色彩の扱いなどについて。彼もブルトンと同じく詩人ですし、音楽の造詣もクレーのようにもっていました。
高踏的なところやその生活スタイルもちょっとレーモン・ルーセル的で、ブルトンに無視できるはずないですよね。しかもダリもモローにはとても惹かれていましたから(ダリの鑑識眼も素晴らしいですよね)。

同時期に活躍したモローの絵画と印象派の画家の違いは、その捉える時間性であり内界に絶対的な信頼をおいた、真理ー思想によるか、外界の変幻に徹底して身を晒して得る方法によるかと思います(後期印象派は物理理論を摂り入れ外界を一歩後退しますが)。
永遠の美を探求するモローと瞬間の美を封じ込めようとする印象派の画家たち。しかしモローの色の使い方、筆致には驚愕するものがあり、印象派、フォーブ、未来派、シュル・レアリスムを巻き込むものは確実にありました。そしてあまりに美しい珠玉の名作と言える水彩画の数々。短時間で描かれた、迷いのない、まさに「永遠の美」は特筆すべきものかと。



「ピエタ」とは、モローがサロンに初入選したしたときのものですか?
所在不明になっている傑作!と言われる。
残念ながら私は画集でも見ておりません。

本当に、これらのピエタも他の画家からは生まれ得ない絵ですね。
「慈悲」とは何か、のモローの思索の形ー現れでしょうか?





しかし、生活苦とは無縁の画家であったため、ほとんどの作品は散逸を免れたことは幸いでした。
モロー美術館としてまるごと国家に管理・保存されているわけですから幸運です。


最後に私の大好きなモロー作品を一点ばかり。「オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘」です。模写もして(勿論、画集からです)飾っておいたら、遊びに来た銀座の画廊の人に「個人的に譲れ」と言われ、ちょっと考えました(笑  何を考えとるのか? 想い出深いものです、、、。


参照:ギュスターブ・モロー ~ 時刻表を持った隠者



2014年4月11日金曜日

ベルナール・ビュッフェ ~ 純粋な苦悩 ~

ベルナール・ビュッフェ 
1928~1999 フランス



晩年に輪郭が消えた絵が現れるがそれまで彼の絵を強く特徴付けるものは、
「黒い線。」鉄格子のような。冷たい。
単純化・抽象化をおしすすめても、
イメージ(怒り?絶望?)の横溢をせき止める線が残った。
フォルムを捨てない。
しかしそのフォルムの厳しさ。
表情は孤独に、生々しく。
空間には無数に引っかき傷が走る。
シャープな線というより刺々しい神経を逆なでするような。
顕な傷。

新婚時代の風景画には輪郭線が綺麗に落ち着き
激しい引っかき傷は姿を潜めている。
しかしその静けさはかえって不気味だ。
ノイズがない分、整然として美しく見えるかというと、廃園・廃墟を想わせる。
この上なく美しい廃墟だ。

ビュッフェをしっかり支え、まるごと受け容れ理解してくれる存在との出会い。
だが、彼は画家としてデビューした19歳頃からすぐに美術界から高く評価され、21歳には社会的名声を勝ち得ている。その後も発表する作品が次々に絶賛され、時代の代弁者のような扱いを受け、海外の展覧会でもすべて成功を収めている。

にも関わらず、ビュッフェの苦悩は変わらなかった。
最愛の妻がいても基本的に絵は変わらない。
ここがピカソとは違う。(ピカソは相手によってピンクの時代とかその度に変わる)

すべて、どこかトラークルを感じさせる絵だ。
この黒い輪郭線は余計なもの虚飾をすべてこそぎ取ったあとに残ったというだけでなく、ギリギリのところで生命を維持するための細胞壁だといえる。
それがあるとき内破する。



71歳での自殺(自死)は何というか壮絶なものを感じる。
パウルツェランが80歳、ジル・ドゥルーズが74歳、ニールス・ボーアが80歳で自殺しているが、何故この歳でと思うが、本人にしか分からない恐るべき事実があるに相違ない。(一般的には病気を苦になどよく言われるが)そんなわかりやすいものであるはずがない。
 
彼の18歳の時の作品「部屋」には驚愕する。
この特異な見え方。
われわれが知らない他者ー死者の視線で描かれた「部屋」である。
少なくとも人生の中でもっとも血気盛んな時期に描かれる絵ではない。
ビュッフェははじめから「他者」としてこの世に苦悩を背負い生きてきたのか?

2014年4月9日水曜日

ダリとガラ ~ 燕の軌跡 ~


ダリはスターでもあったため、近しい友人以外の人間か来た時は素早くダリへと変貌したようだ。
普段は大変繊細な人間で、そのままで普通の生活はできないような人と友人であった岸恵子が語っている。


父へのコンプレックス、死への恐怖が根源にあった。
サルバドールという兄が自分が生まれる直前に死んでしまい、同じ名前が彼につけられた。
私は兄の代わりなのか?
兄の写真を観るたびに自分の存在がかき消される気がしたそうだ。

その後ヒステリーの発作に襲われ、以降頻繁に発作になり、病院にも入退院を繰り返す。
この時期、心静まる場所である洗濯場で油絵をひたすら描くようになる。
しかし唯一の心の支えであった母が亡くなる。
妹を描いた絵をピカソに絶賛されたのをきっかけにスペインを離れ、パリに行く。
シュルレアリズムに出会い、心を病んでいたダリはその制作方法に飛びつく。
シュルレアリズムの活動はダリにとって大変大きな意味をもたらした。
そこで会った、ポール・エルアーリュの妻、運命の人ガラに出会う。
ガラはダリにとってはじめての恋人であり、母親であり、マネージャーにもなった。
ダリははじめてガラの前で、自分自身をさらけ出すこともできたようだ。

ガラに支えられダリの中に巣くっていた様々な強迫的なものが解放されていた。
それと同時にガラは彼に秩序を与え、生活を与え、メディアに対するあらゆるマネージメントを施した。ときによってダリの防波堤となり、すべての事務・実務関係の手続きも行っていた。
ダリにはなくてはならない存在であることは間違いなかった。

2人はアメリカに渡り、ガラの手腕で大スターとなり、大儲けをする。
しかし、お金が十分以上入るようになると、ガラは夜遊びに出てゆくようになる。
若い愛人が何人もできていたらしい。

ダリはアトリエに籠り、ガラの肖像を描く。
その後、ダリの絵の中で、ガラは聖女となる。
ダリは奔放なガラに振り回されるが、再びスペインにもどる。
故郷でやり直せると思ったのであろう。
だがそこでもガラは若い男のもとに遊びに行ってしまう。
若い男など何処にでもいるものだ。
ダリはアトリエに籠りっぱなしとなり、さらに聖化したガラをキャンバスに描き込む。
宗教画が増える。
晩年のダリの絵はそのほとんどが宗教画である。
もっとも一目でダリのものとわかる、細密かつ大胆な構図のシュルレアリスティカルなものだ。

「ポルトリガドの聖母」はその最たるものであろう。
そして2人のための、ダリ劇場美術館の建造。
これには大変な時間と労力をかける。
彼らの共作と言っても良いような4000点に上る作品が収められた。
この時期、二人は完全に別居状態であった。
ガラはほんの一時館内を観てすぐに帰ってしまう。(別の男のところに)

ガラに対するダリの異常な固執は何であるのか?
ミューズとするには度が過ぎている。
また、通常な意味でナジャやキキ等とは違う。
やはり母親なのか?

「ガラだけが現実だった。ガラだけがすべて。」
やはりダリ本人でなければ理解不能な関係である。


「燕の尾」燕の軌跡がダリの絶筆であった。
ガラと2人で若いころよく一緒に観た燕の軌跡の絵である。
ここにあるのは軌跡だけで、ガラの姿はない。



ガラは死ぬ少し前にダリの元に帰ってくる。
その3ヶ月後、89歳の生涯をダリの元で終える。


2014年4月8日火曜日

カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ ~ 氷の海 ~


わたしの最も好きな絵の一つである。
勿論、画家もそうだ。


遥か彼方を打ち眺める人物。
しかも後ろ姿。

廃墟・廃園。

渓谷。

雲海。

自然の力ー氷に無残に打ち砕かれた船。

死と大自然の神秘。

そして月。

何をとっても、わたしの生理にぴったりくる。
自分がつい見入ってしまう絵とは、生理に沿う絵である。

彼の画集その他パンフレットなどの説明には必ず以下のことが書かれている。

13歳の時、河でスケート遊びをしていたところ、が割れて溺れ、彼を助けようとした一歳年下の弟クリストファーが溺死してしまう。フリードリヒはこの事で長年自分を責め続け、うつ病を患い自殺未遂も起こした。その後、姉や母も亡くし、彼の人格形成にも多大な影響を及ぼしたことは想像に難くない、といったことだ。

確かにそのとおりだろう。
しかし、その経験を経て、このような絵画作品を作成出来たのは、まさしくフリードリヒであった。
誰もが自分の極めて個人的な悲劇をこのような形で普遍的なものに昇華出来るわけではない。
そしてその感触がとても心地よい。
人を寄せ付けない冷酷な自然。
顔の分からぬ紳士(淑女)が遠い、遠い彼方をただ見つめ続ける後ろ姿。
キリコの人物が動かぬように、それらの人も永遠に動く気配はない。

夜空には月が凍てついて輝いている。

とくに「氷の海」の美しさ。
時間を失った世界。
フリードリヒが一生涯手放さなかった絵である。

その理由は、痛いほどによく分かる。


2014年4月7日月曜日

石原 豪人という絵描き

100記事目に突入しました♡

今日はつい最近それと知った絵描き「石原 豪人」1923~1998



1960年代の世紀末ブームに乗った画家(イラストレーター?)
ちょっと横尾忠則にも似た感じがあるが、もっと古典的な意味で写実的である。
細密なイラスト画で横尾忠則風のドラマティックなタッチと色彩が見られ、構図・色彩ともに劇画調であるのが特徴と言える。
それもそのはずで、挿絵画家で出発時は「美人画」を主に描いており、のっぺりしたピアの表紙の古典版というものであった。
しかし、少年誌に活動の場を移してから、本領を発揮というところか、怪奇現象や幽霊・怪獣や未来・死後の世界を生々しくまるで実際に見てきたかのように劇的なタッチで描き、少年たちの絶賛を呼び一躍時の人となるのである。

少年雑誌「大図解」のグラビアページには活き活きと「その世界」が所狭しと爆発するような構図で描かれている。
画家は何よりもリアルさで少年たちの心を鷲掴みにしたと言えよう。この絵がもう少し簡略な説明的なだけの迫力無い絵であったら、人気は集まらなかったことは容易に想像できる。
リアルで劇的な表情と構図により少年たちの「感情」を揺すぶったことがポイントであった。

わたしはこの石原 豪人というひとの絵は無意識には見てきたはずだが、この絵描きの名前はつい最近知った。
知らぬ間に影響を受けているということが実は一番怖い。

もっともわたしは少年時代、ドラマという物語性のあるものより、スポーツカー、戦車、ジェット戦闘機、潜水艦、宇宙船、地底探索車などの乗り物の絵が大好きで、自分でも暇なときはいつも描いていたので、人の入った絵はさほど見る機会はなかったように思える。それらの私の好む絵はプラモデルの箱に多かった。その手の雑誌で写真にあるものを参考に、自分流に細密なモデルに描き変えていたことは今でも思い出す。
人が入っているといやでも物語性が発生するが、乗り物はまずは静謐なオブジェだ。もちろんそれらは人が操り、大暴れするものであるが、私のこだわりはあくまでも止まったフォルムであった。人の乗っていない、というか乗れない量ー物体そのものであった。

でも、わたしがUFOの情報が少しでも入ると、すぐに琴線に何かウズウズ来てしまうのは、やはり知らず知らずのうちにーーー多分科学と学習のような少年向け冊子の表紙にも彼の絵はなかっただろうか?ーーー影響は受けていたのでは、と思えるフシはある。

本当にとてもキッチュで一度見たら身体に染み込んでしまうような強度を持った絵なので。

彼の知人は皆、普段から妄想力が凄く、ありもしないことを本気で信じているようだ、と語っていた(恐れていた)そうだ。
晩年になると、エロスとユーモアがテーマとなり、「人間豚現る」というようなおおらかで明るい異界のものを描き、また注目を浴びたという。

なんでも、映画の看板、サブカルチャー雑誌や学習雑誌、少年・少女・芸能雑誌、お菓子のパッケージなどで数多くのイラストを手がけていたそうである。構図もかなりモダンである。多作だが勉強もかなりしている人であることは分かる。こうなると見ていない方がおかしい。家具が知らずのうちに人の内面に影響を与え文化を変えていくが、そのレベルで生活に浸透していた人のようである?


やはり怖い存在であった。
知らなかった。



2014年4月6日日曜日

ギュスターブ・モロー ~ 時刻表を持った隠者



わたしの最も好きな画家である。


パリの独房で宝石の放つ閃光のような水彩画を描き、陶酔に浸っていた画家というようにユイスマンス(さかしま)に描写されてから、モローは神秘主義の隠遁者という側面だけ強調されてきた。
デカタン派ユイスマンスとしてはまさにそのほうが良かったはずだ。
あたかも閉じこもって血なまぐさく退廃的で耽美的な幻を見て描く画家、、、。


モローは時期としては印象派の画家たちとほぼ同じ時期に創作活動を行っている。
片や真昼の陽光の下で変幻する光景(人物)を捉え、片や密室に籠り神話や聖書の主題の光景を創り上げる。

しかしそのスタイルによって己を語ることについては同じだ。
モローについて言うと、昔の画家がイコンを描くような姿勢で聖書の絵を描いていたのではなく、聖書を題材にして自分の思想をその装飾的な絵で表現していたことになる。
「描くことで思想を呼び覚ます」モローらしい言葉。

不可避的に画家はその制作によって自らの思想を語ってしまう。

ユイスマンスによって語られたモロー像ではモローがまさにその思想を語るように描いた幾何学模様など、饒舌で精緻極まりない装飾がどこから来たのか、存分に想像できない。

この時期、フランスでは消費社会がいよいよ成立し、モロー曰く、「中身のない愚かな民衆が狂奔する市場社会の出現を見る。外にはデパートの立ち並ぶ風景が現れる。
そこを我が物顔で跋扈する民衆のちからは恐るべきものだ。」
このように述懐しているということは、鋭い目で凝視して分析しているからであって、籠りきりでは単なる仙人になっている。
確かに厭世的な知性と気質を持っている分、作品は時代性に阿る事のない、高踏的で超越的な主題となるであろう。
しかし実はモローはその書簡などから外界に対し旺盛な好奇心を抱いていた理知的な画家であったことも公にされてきている。

パリ万博も盛大に開かれ、インドや東南アジアの美術品や風俗の紹介がなされると、それらについてはモローは大変な興味関心を寄せ、かなりの資料をアトリエに取り寄せている。
その中で特に彼の興味を引くものは日本から来た仏教美術であった。
廃仏毀釈運動の関係で仏像はもちろん日本美術に触れる機会はもっており、
モローの描く神話の世界を見ればそこから得た文様ー思想が幾つも見て取れる。
また、多数ある「サロメ」には、睡蓮を持って静かに佇み、冠には白い布、上半身裸の衣装。純粋さをそれらの形の意味で表しているものもある。
これらは仏像美術の研究から導かれている。
様々な形の意味を取り出し編集してここまで異文化の融合を果たした画家も珍しい例だ。
常に最新情報を貪欲に吸収し作品に昇華してきた画家である。

ドガがモローについて語るように、まさにモローは「時刻表を持った隠者」であった。
外界の流れを確認して自ら独房に篭り、思索を絵を描くことで深めてゆく。
こんなスタイルである。

鋭い洞察力はすべての絵に見られるもので、「オイディプスとスフィンクス」は特に有名である。
フロイトがオイディプスコンプレックスを唱える数十年前にその説く世界を絵画化しているものである。この二者の相容れない者同士の永遠の対峙を描ききっている。オイディプスの足元には父親の屍体が横たわっている。

外界に関してモローは多数の、時代に対するアンチテーゼを自らの主題に込めて描いている。
これまでにない構図と装飾によるプロメテウスに、ヤコブに、、ヨハネに託し。
また、「オルフェウスの首を抱くトラキアの娘」やサロメの「出現」のようにかつてテーマとして描く画家がいなかった、場面・構図を取り上げている例も少なくない。特に切り取られたヨハネの首が空中に出現する場面は大変センセーショナルな事件となった。

「写真技術」も一般化し、絵はすでに外界の対象の再現に留まるものではなくなっている。
モローのような批評的・象徴的な作風は、モロー独自の線描による装飾性、色彩の扱い方によっている。その制作ー思索を可能にする方法が闇を通して光を見るような、アンテナを張りつつ籠るスタイルとなる。
これは現在では、ともすると分裂症の生活スタイルと重なってくるところがあるが、あくまでも外界に対する創作の場所として不可欠な設定であったといえよう。

晩年の作品は抽象画に大変接近していく。それまでの絵を見てもその着彩の仕方は特異なものであったが。モロー自身「抽象への情熱」と言っていたように、何もないような外見に神聖なものを彼は見ていた。余白についても塗り残しに見えるものについても意図的に塗らないでおくものが大作などに多く見られる。
水彩画の小品も晩年多く描かれ、どれも圧倒的な神秘性を誇る極めて美しい名品ばかりである。
最後の大作は「ジュピターとセメレー」であり、人間の女がジュピターに愛され、ひと目でも神を見たいと願う絵であるが、ジュピターの出現によって、セメレーはその光によって焼け死んでしまう。最後を飾る、象徴的な大傑作である。



*自宅を改築して作ったモロー美術館は、一種の寺院を想わせるとよく言われます。実際に行かれた方どうでしたか?感想などよろしければお寄せください。
たゆまぬ研究と努力によって「わたし」という存在ー作品を完成させる、というモローの意思がこの美術館という形の作品となったのではないでしょうか?

2014年4月3日木曜日

マリオ・ジャコメッリ ~ 死者の見る光景 ~

イタリアの写真家。
1925~2000



すべての写真はモノクローム。
強烈なコントラスト。
重ね撮りやコラージュもある。
手ブレも表現の一つとしてとりこまれている。

黒から今にも激しい色彩が燃え上がりそうな直前で耐えているような画像である。
また、そこに写っているヒトのいる光景そのものがまるで異界を想わせる。

一瞬写真を見た印象は絵画か版画である。
絵画的な意図的な構成が感じられる。
しかしさらによく見ると、ある距離をもって対象を捉えたものだとわかる。
妙にこころをかき乱す遠近法のつかめない写真。
そして強いて挙げればルドンの絵か。


「白は虚無、黒は傷跡」
確かに。

「わたしたちがここに見ている世界は本当にあるのか」
写真家は普通、現実を盲信した上で撮っているはず。
しかし彼はそんな前提に立っていないことははっきりわかる。

「わたしは時間に興味がある。時間とわたしとの間には永遠の論争がある」
ここがジャコメッリの存在学で肝心なところ。
死にどれだけ近接するか。

「わたしにとって距離と対象物があればよい」
究極の制作スタンス。あらゆる仮像を排除し。
生まれ育ったスカンノという場所に生活する人々、ホスピスに住む老人たち、をひたすら撮る。
そのリアリティに高精細や遠近法は必要ない。
ぼやけて映り込むリアリティもある。


白・黒その虚無と傷跡を強いコントラストで浮き彫りにする。
死を意識した存在の時間との戦いがそのまま創造となってゆく。
彼は死ぬ間際の老人に強烈なフラッシュを焚いて撮る。
内界か外界か判別不能な世界の光景がある。
名状しがたい腐りかけた肉の塊の異物感ー物質感、存在というものの恐ろしさの露呈。
存在と死がトワイライトのなかに浮き立ち、その眼差しは死者のものかも知れないということに気づく。
この他界感覚いや一種の既視感こそ実は市場社会が覆い尽くしている現実を食い破るものなのか。


資本主義の対極は死であることに彼の写真群で気づかされる。
すべてのものは、資本主義に呑み込まれる。
その市場主義に。
9.11の写真然り、戦場カメラマンの写真然り。
すべてCM・ニュースとして流れ出してしまう。
これは自ら意図的にそうしている場合も多い。
しかしそれらのメッセージ性をすべて洗い流すと、彼の写真に似てくる。

そもそも存在ー死に近づくのであれば、何故わざわざ戦場の写真を撮りにいく必要があろうか?
死は自分の近傍にいくらでも転がっている。
それを見ずに戦場へと出かけてゆくのは、表現者というスタンスの奢りであって、ポーズまたは非常に無邪気で軽薄な特権意識に過ぎない。(最初から資本のうちでの商品性を狙ってのことも当然あるはず)

マリオ・ジャコメッリの存在学は最初からそれらに無関係でいられた稀有な例である。
それは彼が徹底して時間との闘争をし続けていたからであろう。
死を凝視し続ける眼差しを持っていたからであろう。








2014年4月2日水曜日

ジョン・エヴァレット・ミレー ~ オフィーリアの内面


シェークスピアを読んでなかろうと、ミレーのオフィーリアは当時も大変な評価を得た絵画である。
もちろん今日もその評価は揺るがない。いやさらに高まっているか。

まさに、水に落ちたオフィーリアが、驚いているのか、悲しみの中に心を閉ざしているのか、怒りを見せているのか、もはや意識自体が掠れているのか、なんとも判断し得ない「表情」で目も口も僅かに開けて仰向けになって流れて逝く。

このなんとも謎に満ちた「表情」がさらに神秘的な様相を深める。
この絵の魅力はとりもなおさず、この「表情」に尽きると言えるだろう。

究極の名画ダ・ヴィンチの「モナリザ」の神秘性は、かれの発明した絵画史究極の技法であるスフマートによるところが大きいが、オフィーリアの場合、これといった技法が用いられているわけではない。
ダンテ・ゲイブリエル・ロゼッティたちのプレ・ラファエル派の一般的描写の内にある。技能を見ればロゼッティより遥かにミレーの方が上であることは明らかであるが。

その「表情」の描写そのものに誰もが惹かれている。
まったくオフィーリアの内面のはかれない「表情」なのだ。
この今にも生が絶たれてしまうであろう美しい女性の内面‐内界が共感ー移入したくても、全くできない。発狂しているからか?!そうかも知れない。もはや精神は彼岸のものなのだ。
そう、見る者たちは諦めるしかない。
しかし、果たしてどうなのだろう。

こう思いあぐねてさらによく見てみる。
今何を想っているの?
「表情」は何も応えない。

この絵を包み込むトワイライトゾーンの光と彼女の表情が、この世と彼岸ー生と死の間の名づけようもない時間を凍結させている。
とすれば、この絵は永遠の謎を秘めたまま人々を魅了し続けるしかない。