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2014年4月26日土曜日

第6回水彩スケッチ「水陽・輝水会」展 ~ 水彩画と写真についての覚書

今日、水彩画展に行った。(相模原市民ギャラリーにて)
かなりの点数であった。
みないくつかの同じモチーフを使った水彩画で、風景、静物をグループごとの単位で一緒に描いたものと思われる。

見ながら思ったことだが、油で抽象を描く作家も何故か水彩では具象の習作を描いていたりすることが少なくない。
別に水彩が形式的に抽象に向いていないということはないはずだ。
ただ、具象を描くにあたっては、クロッキー的にまたはスケッチ的に描くには明らかに水彩は適している。
ここだ!と一気に「全体を捉える」うえで一番適した描画法だ。

だから、写真に大変近い捉え方にもなる。(最近写真を見ることが多くなり自然に気にしてしまう)
その構図の切り方やフレーミングにおける意識から。
ひとたび描いたら(撮ったら)その一枚においては、やり直しは利かない。(特に透明水彩)
もちろんそれが光学的に瞬時に定着するか、感性と技巧によって制作されるかの差異はある。
しかしどちらにしても対象に依存した(立脚した)素早い(一回的)「表現」である事に変わりない。


さて、以前わたしは他のブログでWaterlogue~写真を水彩画にするアプリという写真をかなり気の効いた変換パタンで(あえて精度とは言わない)、水彩画の見え方にしてしまうアプリを取り上げたのだが、ソフトによるフィルター変換によって今回見た水彩画展で見られる作品のほとんどのものは現在、出来てしまう状況だ。

水彩画が写真に近い構造があると言ったが、写真は一瞬の内に水彩になってしまう。
近いではなく、ほぼイコールに。
見た目には、であるが。見た目以外に通常調べる必然性もない。
これも科学技術によって、である。(科学技術の支配とは
スマフォやパッドで見る分には分からない。それが高精細パネルであっても。
もちろん、以前からフォトショップによるフォトレタッチで作成することは流行っていたが、このようにワンタッチで水彩画変換に特化したソフトが出ている。


今回の展示会をすべて写真から変換してプリントアウトして並べて飾ったとしても、何ら違和感なく観客は鑑賞して帰ってゆくことだろう。
もはや、どちらがどちらか質的にほとんど分からない。
描いた当人は自分なりに描き、達成感に浸っているであろうし、それはよいのだが、見る側は何か単なる定型パタンを眺めているだけで閉塞感を味わってはいないか?
お友達のがんばりに感心している人たちを除いて。
わたしは、何かを求める気持ちで前向きに見てみたのだが、正直何もなかった。

恐らく、描いている人たちは、技術の習得の過程を見せてくれているわけで、一般に対し展示発表しているにせよ、それを他者からとやかく言われる理由はないかも知れない。
しかし何というかひとつの水彩画としての典型的な型として描かれている以上、それらは容易にテクノロジーの下に同等のものが写真さえあれば、出来てしまう現実がある。
これはどう捉えたらよいものか?


それは見る側の前提となる感性の変質によるものが大きく関与する。
と同時に、制作者たちの感覚も写真文化の中に取り込まれ、その見かたに慣らされていることは事実だ。(写真的遠近法をとっても、少なからず写真的見方は前提化している)所謂、伝統的写実主義の内にあるため、尚更写真から変換しやすい絵だ。
つまりどれをとっても、技量の差が窺える程度で、みな同じなのだ。
イデアが感じられない。


今後、このような展示会はお友達以外に価値を持つ展示会ではなくなってゆくことは確かだ。




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