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2014年6月8日日曜日

エミール・ガレ アール・ヌーボーで忘れてはいけないもの


久しぶりに美術館の図録を幾つも眺めていたら(最近本の湿気が尋常でないことが分かった)北澤美術館のものが目に留まる。エミール・ガレここ暫く見ていなかった。アール・ヌーボーである。

エミール・ガレ。
アール・ヌーボーのガラス工芸でもっとも気になる作家である。
北澤美術館には何度も(年に一度は)行き、「ひとよだけ」は何度も見た。
「ひとよだけ」がそのまま大きなランプに成っているインパクトは何度見ても薄れない。
行くたびに違う趣がある。違う表情をする。こちらが変わっていくからだ。

「ひとよだけ」は気になる。
黄色い大きめのランプに柄として描き込まれた物もある。
朽ちた樹木に生え一夜で溶けてなくなってしまうキノコをモチーフに幾作もの花瓶がある。

勿論、花は多彩だ。
いずれも植物標本の精確さで作られている。
産毛までが精緻にレリーフれているのは、二回目くらいの時に気づいた。
何と根から描き込まれているものもあった。

ガレは植物学者でもあったため、描かれる花は植物図鑑で見るように精確で、意味のない単純化など一切していない。
研究観察も兼ねてナンシー郊外の森に出かけるのを常としていた。
そこがガレの発想の源にもなっていた。


ガレの作品に触れる機会があったが、厚みがあり重かった。
色が何層にも塗り重ねられ、モチーフは一夜で消えるものでも素材はガラスであっても結晶化を図ったものだと想えた。

茄子、玉葱もモチーフによく使われる。家庭料理によく使われるものが多い。
身近なものを魅力あふれるものにする。
これはガレの思想でもある。

ガレは「産業芸術家」と自らを呼んでいたが、自然界の動・植物を元にした美しい自分のデザインが誰の手元にも置かれることを願った。マイゼンタールの工場のような工房である。
工房に多くの優秀な職人を招き、自分の発想・デザインを事細かに知らせ大量生産に臨んだ。
そのための多くの技法も生まれた。
自分の作品には必ず図柄にマッチしたネーム(Gallé)を入れ、ブランド化し、それにより質の保証と価値の安定化を図った。

そしてもともとガレの資質として持っていた、東洋志向であるが、高島光海を経て知った水墨画の影響もあり、色の研究においてついに「黒」を見出す。
有名な「トンボ」をモチーフにした死を象徴する黒のシリーズである。
この頃のガレのモチーフは全て象徴化されている。
「悲しみの花瓶」とガレのいうシリーズである。
また、使う色は黒一色ではなくその黒を更に際立たせる褐色も何段階にも使い分けられている。
重厚な造りである。

パリ万博でもガラス工芸において、グランプリをものにしている。

その成功により今度は、木の質に拘った家具の生産にも広げていった。
やはり、草花の絵柄は圧倒的なものである。
ここでもガレは大成功を収める。

ドレフュス事件に際しても、新聞やあらゆる機会を通じて彼の無罪を訴え、冤罪をはらすための擁護を続けたことも忘れてはならない。これに尽力したのはエミール・ゾラだけではない。



2014年6月5日木曜日

「アール・ヌーヴォーとアール・デコ」展 ~ 横須賀美術館

色あせない「明るい夢」とか、、、。
どんなところをカヴァーしているのか?

やはり、アルフォンス・ミュシャがメインのよう。
ポスター展示が多いのか?

アールヌーボーであれば、書籍だ。
書籍ならオーブリー・ビアズレーとなるが、、、。

文学性のない展示会か?

いや、ビアズレーも出ている。
となると、かなりよい美術展のようだ。
と思いたいが、かなり風呂敷が広い。
ビアズレーはほんの僅かか?

ルネ・ラリックのガラス工芸も見られるという。
彼のアールヌーボーからアールデコへ
そこに単純化の変遷が見えると。
確かにそうだが、何点くらい来ているのか。
ルネ・ラリックはよい。

それから日本の作家の作品も加わる。

杉浦非水。
このヒトは面白い。
広告・ポスターの優れたものが多い。
「赤玉ポートワイン」は各方面に話題を生んだ。
日本画家からデザイナーに転向。
この人もミュシャ風アールヌーボーから構成的なアールデコまでの作風を残している。





他、工芸品も多く展示されているらしい。

補足 NHKより


どう言ったらよいのか、、、番組上のものだが、力が入っている(笑。







2014年6月2日月曜日

すでに世界は終わっていたのか ~ ヒエロニムス・ボスその1


キリスト教には至福千年説があり、西暦1000年来、終末は近いとされ、1500年ごろ(まで)には「最後の審判」は盛んに描かれている。まさに大流行したという。
その後もずっと描かれてきているのだが、終末は来たのか来ていないのか、それ自体がいまひとつはっきりしない。
「最後の審判」が描かれているうちは、まだ終末は来ていないというのが、大方の見方である。

ただ、終末と言うもの、最後の審判とはどのようなものなのかも、誰にとってもしっかり可視的にし、それに対する対処、制御を行いたいと思うのは普通である。
気持ちの整理もしておきたい。
それを課せられたのが画家である。
これは「大仕事」である。

ボスも「最後の審判」に力を注いだ。
とてもその情景をしっかり事細かく描いてくれているので、一度は目にしておいて損はない。


一口に言ってボスの「最後の審判」には救いがない。と言うのも、審判によって天国行きが決まる者が一人もいないのである。であるため、天国行きを認められた魂を導く大天使ミカエル自体、絵の中に存在しない。全員審判を受けているうちから、地獄の責め苦にあっているような状況が見て取れる。
地獄直通便しかないのだ。
ミカエルは何処で何をしているのか?
恐らくボスに首にされたのだ。

だから、パネルが3枚あるうちの左から順に中央、右へと「最後の審判」は流れていく。
中央で振り分けられないから、自動的に左から右に流れるだけ。
向かって左側には打ち捨てられたかつてのエデンの世界が描かれており、天国ではないのだ。中央はもはや審判なしの(問答無用の)地獄行きの方向しか描かれてはおらず、気の早いものはもうすでに中央パネルの中で、ビヤダルからかと思しきものが実は尿でありそれを無理やり腹一杯に飲まされている。永遠に吞まされる勢いだ。
そして右パネルは短なるその延長でしかない。
であるから、その惨状は筆舌に絶えない。おぞましいの一言。
見てもらうしかない。
ちなみに、わたしは見たくない。
(だが絵が面白いためじっくり見てしまう)

串刺しにされたまま火に炙られる者たち。
臼で轢かれる者たち。
棘の生えたアザミに押しつぶされる者たち。これは肉欲に押しつぶされる象徴のようだ。
腹から暖炉のような焔を出す悪魔やメガネをかけて罪状を読みあげている悪魔もいる。
その側で腹に刀を刺しぬかれている者。
蚊の化け物やその他どう見たら良いのか分からぬ者たち、、、。


天変地異やインフルエンザに精神疾患、様々な人災。
現状を見れば肯けるものだが、われわれに残されているのは地獄のみ、というのも平等と言えばそうだが、日本の偉大な僧も同様の見解のヒトが昔から多い。
ちなみにボスの生まれたネーデルランドでも、天国に行けるのは、3万人に2人だそうである。
微妙な数字だ、、、。