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2013年11月30日土曜日

酒、ユトリロとロートレック 秋も深まり~もう冬か?

だいぶ寒くなりました。寒々とした絵と言えばユトリロを思い浮かべます。今日は彼から連想できる事柄を書き連ねてみます。絵画についてとか、画家についてというより、ルー・リードの詠む詩にあるような「寒さ」について、ちょっぴりお酒を飲みながら。では。



アル中の画家には、有名どころでユトリロとロートレックがいる。
2人とも天賦の才があったからよかった(名が残った)ものの、そうでなかったら、どうしようもないただの酔っぱらいで終わっていたはずだ。

ユトリロには、クレーやダリ等のように、自分なりの絵画理論などなく、ただ素朴に無自覚にひたすら絵を描いていたことが良く見てとれる。
しかしその目でロートレックを観てみると、ボール紙だろうが継接ぎの板だろうが、自由闊達な筆さばきで見事な絵画作品をモノにしてしまうため、確かにクレバーな絵描きではあるが、ほとんど無自覚に絵を描いている点では、ユトリロとさほど変わらないのでは、と想えてくる。
片や自閉的な子供のように無心に黙々と彼ならではの孤高の「パリ郊外」を描き、片や高性能な自動機械のように何にでも瞬時に伸びやかな線で対象を描きとめてしまう、酒を飲む子供と酒が燃料のロボット。彼らは基本的に絵を描く快感だけで恐らく描いている。技術はいくらでも付いて来るし描くこと自体に障害はない。

ユトリロは淋しい孤独に染まった絵を描くが、当人は私は孤独だとか淋しいとかましてや思想的なことを抱えて制作に臨んでいたとは思えない。そんな自覚などなく描いていたからこそ、あの水準の作品をずっと描けていたと思われる。自分を対象化していたらとても描く事が辛くなる。
ロートレックだって、好きなものを好き放題に描いており、きっちり描ききろう等と言う気すらない。これは、セザンヌが画布の中央部あたりを空白で残しているのとは訳が違う。彼の場合、厳格な意思で残すべきところを正確に残している。ロートレックは多分、あるところまでリズミカルに描いてから、すぐに違う絵が描きたくなるのだ。しかしどの絵もあまりに見事なデッサンで成り立っているため、軽いフットワークで描いていても未完成には映らないだけなのだ。少なくとも何をか考えて描いているようには見えない。

ユトリロは私生児であり、母親はかの恋多き優れた女流画家シュザンヌ・バラドンである。
母親が奔放に生きてゆく中、ユトリロは17歳でアル中になる。しかしシュザンヌはユトリロに絵を描くことだけは教えてくれた。
彼はそれだけを頼りに、「絵画」だの「芸術」だの今トレンドの絵画の[流派」丁度その頃は、未来派・キュビズム・シュルレアリスムの勃興等には何の興味も示さず、絵を描いた。もともと自分が画家だとかいう意識すらもたなかったであろうユトリロは、ただ自分の絵をひたすら描き続けていた。ユトリロにとって絵は自己表現ではなく、ましてそれを手段に何かを訴えるようなものではなく、そんな距離等全く無い自律的な運動、ほぼ呼吸に近いものであっであろう。だから描かなければ間違いなく死んでしまう。実際アル中を抑えるのは絵を描くことだけだった。
描いた絵は、ほとんど人のいない、いても後ろ姿が遠くに見えるだけの、冷えた空気のなか、すべての窓が扉が固く閉ざされたパリの街の姿だ。木々は枯れている。どれも同じ外気と冷たい風が吹き抜ける夥しい数のパリの光景がそのままユトリロの心象―生きる現実と重く重なる。

ロートレックは、由緒ある名門貴族の生まれで、裕福に何の不自由もなく暮らしていたが、階段から落ちる事故で、下半身に障害を抱えてしまった。14歳の時である。
それから、彼は絵を本格的に始める。
当初からロートレックは才能を示すが、彼の絵には重さはない。非常に遊びの精神が感じられ、しなやかな線は活き活きと走っている。実際ユーモアがあり、拘りもない。彼の描く人物たちの表情の誇張を観れば彼がいかに楽しく絵を描いていたか分かる。どんな素材でもあまり気にしないでそれを有効活用して描いてしまう。油絵でもリトグラフでもポスターでも頼まれれば、何でも描いてみせる。ロートレックによってポスターは独立した芸術の一つとして見られるようになったのも確かである。これは彼の大きな功績だが、べつにそんなことどうでもよいことだった。
ロートレックにとって、自分の住処はもはや貴族の世界ではなく、キャバレーであり娼婦の部屋であった。そこで絵を描く以外に道はなかった。彼はムーランルージュの踊り子や娼婦たちとの極めて自然な付き合いの中で、彼女らに溶け込み絵を描いている。そこに生まれる絵はどれも驚くべきスナップであり、誰一人として自分が画家に描かれていることなど気付いていないかの如くである。本当に彼女らはロートレックに気を許しており、いつもの孤独で平穏な空気が素直に描かれていることが分かる。これは稀有な才能と障害の齎すものであろうか。
ロートレックは、熱気あふれる扉の内側に空気のように溶け込み、パリの風俗と人々のあり様に共感を寄せて、アル中の悪化で倒れるまで、ひたすら彼らを描き続けた。


2013年11月28日木曜日

マチスのいくつかの印象

色が何よりも美しい。
灰色の美しさ。ここまで美しい灰色を色として使う画家は少ない。「ピアノのレッスン」
マリー・ローランサンも灰色は効果的に使ってはいたが。
そして黒の美しさ。「エジプト風カーテンのある室内」「柘榴の実のある静物」
しかも、固有色から離れて、描写からは手を切らずに、色を関係性のうちに思うがままに構成して全体を見事に構築する。まったく破れ目なく。これはもう天才という以外に言葉がない。
シニャックの影響で新印象派的な色が窺えるといわれる、「豪奢・平安・悦楽」もそう言われてみると気づく程度だ。
むしろ構図・構成などの点でセザンヌを意識していることが分かる。

実はマチスは色彩だけではない。平面性と立体感(透視図)を絶妙な構図感覚で違和感なく統合している。「装飾的人体」何気なく少しの躊躇も僅かな破たんもなくやってのける、これは実は驚きの技術だ。
また更に、一つの画像=画布のなかに複数の異質の空間を静かな装飾性のうちに構成しているのも、それに気づいて驚愕する。「茄子のある静物」
静謐な空間に見えて、思いのほかダイナミックで重厚であることが分かる。

フォーブと云われていたころは、原色の激しい色彩だけでなく、モチーフにボリュームがある。輪郭線の厚みも力強い。厳格なフォルム。特に「青い裸婦」はまるで彫刻を思わせるものだ。
装飾的で平面的というのがマチスの特性のように言われているが、時期によっては、ものすごい迫力である。ブラマンクのタッチ(動勢)の迫力とは異質だが、迫力では負けない。

フォーブ以降のマチスは、構図の計算と平面性と同一な抑えた色調による作品を追及していく。「しゃぐまゆりのある静物」

マチスにとって旅はとても重要な影響、着想を得る最高の行動であったようだ。旅の度に新たな息吹が絵画に見られていく。例え室内に閉じこもり窓から外を打ち眺め、思考実験や夢想に浸っていても、旅行先に得るものは大変多かったようだ。「ニースの大室内画」
この絵における窓の介在は、マチスの絵には欠かせない構造的な要をなすものとして大きな存在意義を持つ。異なる次元の空間をきわめて自然に融合する「窓」なのだ。これもマチスの発明の一つである。

「ダンス」は多分マチスの究極の作品であろう。最晩年の切り絵シリーズにも継承されていく「平面」の実現といえる。ここで「平面」というが、マチスのように描写を最後まで捨てずにこの平面を達成した西洋画家はほかにいるだろうか?純粋抽象にさっと飛んでしまった画家は最初から別であるが。マチスはその「純粋抽象という無味乾燥」は回避し続けた。


ところでわたしの特に好きな絵を二つばかり。
一つは「ピアノのレッスン」一分の隙もない構成。それでいて楽しいノイズに満ちている。平面性と空間性の融合、それを作る斜線構図の妙。フォーブの面影すら無い、渋い色がまた美しい。キュビズムの最高の成果に違いない。

もう一つは、初期の作品であるが、「読書するマルグリート」
形体がしっかりとらえられたフォーブとは明らかに異なる色鮮やかな美しい作品である。
とても単純化され構図も特に複雑な計算はされていないが。
ルノアールの「エレーヌ・カーン・ダンベール」を見るときのような爽やかで穏やかな気持ちになれる。
一番欲しい絵である。


何より今回よく見て思うことは、連作や実験的な反復的作品はあるが、一点一点が実験的な発明品とも言えるような作品となっていること。ピカソと同様、マチスもマニエリスムとは無縁な存在であり、かつての成果に拘らない、天才であったと言えよう。




2013年11月23日土曜日

素描家としてのクレーから 線のありかた

すべての芸術は音楽の状態にあこがれる、というあまりに有名なテーゼがあります。
クレー自身も有能な音楽家でしたが、彼の素描作品に注目するにつけ、より彼の芸術がもつ音楽性が身に滲みてきました。

まず、線の動き、です。
線の旅です。

クレーは、ぱっと見て全てが把握できるスタティックな空間を作らず、擬似的遠近法によって画面に時間性を組み込んでいることがわかります。
まるでミクロコスモスを旅するように、その線は、中断しては、進み、進んでは停止し、分節が起き、振り返り、反対にも向かう、どちらに進むか熟慮し、線は束にもなる。さらに、流れやたわみも起き、橋を越えなければならない時もある。弧形が幾つもできた後、どうやら親友に出会う。線は収斂し太い震える線となる、しかしそれは長続きはしない。次第に異なった立場をとり、独立した歩みを見せるようになる。そして深い森へと幾つかの線が入って行く。
まだまだ、旅は終わらない、、、。

線はわれわれも辿ってみるしかない。

クレーの線描画が楽譜のようだというのは、構造的に見るとこれだと思います。

また生命の成長をみるように、左上から辿っていく素描画。
これこそ、まさに楽譜という絵も少なくないです。

「すべての生成の根底にあるのは、動きである。」
動きは時間とともに平面を形成し、平面から空間も生成されてゆき。
時間に充ちた空間の構成がおきます。

そして線、そのもの。
一本の線でも豊か。
一音の説得力ある音楽の緊張感はすごいものがあります!

高僧の筆のような線。
微妙な神経の震えそのもののような細やかな線。
何かの飛跡のような線。

これはクレーの得意とするところの弦楽器の弦の震え
それが醸す音色。
その様々な線ー音色のオーケストレーション。

クレーの時間の空間化作業は多様な個性を持った線の動きで豊かな香しい音楽を画布上に現出させることです。

そこに後期のクレーは色彩を被せます。
豊かで微妙な線の構成に、色は深みを与えてゆきます。
いよいよこの世ならぬクレーの素描作品ができあがってゆきます。

クレーは素描が圧倒的に多く、それらは油絵作品の下絵やエスキースなどでは全くなく、完全に独立した作品となっています。これはいかにクレーが線を重要視し、絵にとっての本質であることを認識していたかです。



絵画空間とは、線の質と線の動きによってできあがってゆくことを、クレーの作品を見て再確認してみました。




2013年11月22日金曜日

ティツィアーノ


子供の頃、画集等を学校の図書館で観て、「すげー」といいまず夢中になるのが、アングルだったりする人が多いように思う。
タッチがあれほど残らない写真みたいな絵を描く人も珍しい。
なんともあのそっくり感がたまらない、といった感想にまとめられるあの作風である。
あのペカペカな上手さが仮面ライダーやウルトラマンの強さに重なる思いがして、凄いけど親近感もあるというような。骨董品店の奥の主人の座る隣あたりにでかでかと額に入って置かれているのが結構似合うはず。
レオナルドは確かに凄いのは分かるけど、重すぎる感じがして、哲学者然とした冷徹な自画像など見るにつけ、まじめすぎてみな避けていたようだ。
わたしはその頃、今ひとつアングルには馴染めず、ダリが好きだった。
そして、ヴェネチアのジォルジオーネやティツィアーノもいいなあ、と思ってよく観ていた。
時々クレー、ミロ、エルンストなどにも脇見をしながら。

ティツィアーノは大好きな画家というのとは、少しばかり違うのだけど、身近になくてはならない存在と言って過言ではない。
「性愛と俗愛」などもいかにもその時代のアレゴリー絵画の典型というのもよいが、わたしとしては、「フローラ」や「ウルビーノのビーナス」や「悔悛のマグダラのマリア」や「ダナエ」や「イザベラの肖像」など、まだまだ思い起こすと結構出てきそうだが、こういったものやいろいろな絵にちりばめられたいわばミューズたちに魅せられていた。
上に挙げた中では、「イザベラの肖像」がお気に入りで、本を片手に遠くを眺め、凛とした佇まいの知的な女性がなんとも魅力的であった。まさに同時代における主流スタイルの、地位あるご夫人の肖像画ではある。

ジォルジオーネやティツィアーノの絵は確かに、アレゴリーを纏っていても奇を衒うこと等なく、ミューズたちがことのほか超然としているわけでも、妙に生々しくもなく、特別な美(ブロンズィーノのような)を狙ったものでもなく、美しいのだがしかるべき安定した構図の中に無理なく収まったものである。特に時代を超脱して革新的な創造を果たしたという芸術ではないが、こちらもそんな絵を特に観たいのではない。はっとする美しさ香しさに癒されたいのだ。不安に陥れられたり、迷路に迷い込んだり、悪夢となって夢に見るような刺激物をことさら求める気はない。そうでなくとも、現実はそんなモノだらけだ。すでに悪夢の中にあって、さらに悪夢を求めるほど酔狂ではない。毒には毒をという療法があることは知っているが、扱いを間違えると取り返しがつかなくなる。わたしはそこについては、音楽でやっていた。現状をさらにとことこん深く確認することで毒を皿ごと噛み砕くことを日々つづけてきた。

ティツィアーノのミューズはやはり、身近に必要だった。

しかし当時、親に買ってもらった山田書院の美術全集ティツィアーノの章を読んで、物事や人という存在の厚みについて考えさせられることとなる。
ティツィアーノは出生記録が焼失しており、はっきり何歳生きたのか定かではないが、百まで生きた可能性は高いらしい。貴族並み(実はそれ以上)の生活をしていて極めて贅沢三昧の生を謳歌していた。制作した絵の夥しさは正確には数えきれないようである。技量が高い上に体力も尋常ではない。
質的に近い同等の血の流れているとみられるジォルジオーネとは、その卓抜な表現技能以外は、あらゆる意味で対極である。人格・富・生存時間・絵の作成枚数などにおいて。ひとくくりにベネチア派などと言っておいて。

ティツィアーノはなんと絵を描く傍ら高利金貸しでも稼ぎまくっていた。絵だけでも十二分に稼いでいたのに。その上表向きには支払いが遅れると本当に困るのですなどと貴族相手に手紙を書いてみたり、でも金銭的に困ること等全くない生活地盤を固めていた。今のネオヒルズ族みたいにぎらぎらしたおじいちゃんであった。しかもへたをするとかのミケランジェロよりも丈夫な身体であった。向かうところ敵なしである。その意味では最強の画家である。
あの純粋な「悔悛のマグダラのマリア」のこの世ならぬ美しさ幼気さをあそこまで描き抜き、人々に深い宗教的高揚感を与え名声を勝ち得た画家であるが、同じ主題のものを人気があると分かれば少しずつパタンをズラして市場(いえこの時期はお得意様)に投入していく等、マーケッティングの勘も冴えたモノである。彼こそキャッシュポイントとツールとマインドとセオリーと人脈とスキルを兼ね備えた、ベネチア・ネオヒルズ派(のおそらくボス)であった!
別に画家が清貧である必要等全くない。清貧が画家の属性である訳はない。ピカソを見るまでもなく、多くの画家は例え絵でそれほど稼げなくても資産家であった。自分の家が死後そのまま(多少の改築はするがモローのように)美術館になってしまうようなひとも少なくない。ゴッホだって裕福な家の出である。

しかし面白い人である。ピカソは芸術一本で大富豪になるという完全な正統派であるが、ピカソが単純な人に見えてきてしまう。

ベネチア・ネオヒルズ派のティツィアーノの絵は、やはりどの画家や派の宗教的な絵よりも押し付けがましさがなく、風通しが良い。特に飾りすぎないデフォルメもない清純で美しいモデルたち。技能がしっかりしているためどの絵もアンシンして観れる。
はっとする美しさ香しさに癒されたいときになくてはならない常備薬である。
芸術の人を癒すという属性においては最高の作品ー商品を提供した人である。







2013年11月21日木曜日

ベラスケス


フェリーペ四世のお抱え画家のような得意な位置の宮廷画家で、基本肖像画家として働きつつ、宮廷において宮内配室長さらにはサンティエゴ騎士団の騎士にまで命ぜられたベラスケス。
才能においては、自身天才と呼んで憚らないダリが、フェルメールとともに最高点をつけて大絶賛する画家である。ダリが自分以外を天才呼ばわりするのは歴史上このベラスケスとフェルメールの2人くらいだ。しかしベラスケス当人は大変控えめで思慮深く慎重な性格であったようだ。反面いくらフェリーペが呼び戻そうとしてもイタリアの旅行先からなかなか戻らないといった如何にも芸術家らしい面も窺える。フェリーペにことのほか寵愛されたのも、才能だけでなくこのような性格、人柄に依るところも大きいようだ。フェリーペ自身、彼に制作上の細かい注文や依頼や命令等ほとんど出すことはなく、絵に関しては彼にすっかり任せていたという。彼は周囲の貴族とはあまり接触はもたなかったようで、肖像画も国王フェリーペとその極親しい小人や道化、夭折した子女たちに限られている。通常の宮廷画家にありがちな宮中における華やかさなどは認められない。

ベラスケスの絵であるが、上にも述べたことからも何を描きたいという意思、主題意識はほとんど感じられない。訴えたい内容の表現は構図上からも、色彩の対比等からも、光の当て方からも全く見受けられない。彼の絵には内容が欠落していることが分かる。ただ「絵を描くこと」そのものが主題である。
単に国王の近辺しか描かなかったという題材の乏しさからだけでなく、絵の中に中心がないことは、見ればすぐにはっきり分かることで、ベラスケスにとって題材等はどうでもよく、科学者が実験を黙々とするように、描くという実験を淡々としていたと映る。
しかし作品数は決して多くはない。フェルメールほどの寡作ではないにしても。
彼はどんな絵を描いたと言うのか?
かのダリをして天才と呼ばわしめたものとは。

まず、あまりにも有名な「ラス・メニーナス」であるが、この絵についての研究書や詳しく言及している思想書(哲学書)は多数ある。それをここでまたさらに紹介したり、検討する用意はないうえ、もはや真っ向から分析する意味もない気がする。パッと見には単に画家が王と王妃を描いているところの描写である。絵には今まさにこの絵を描いている彼が描かれており、絵画の位置的な中心・最奥部には、描かれている彼の絵の対象である王と王妃の姿が鏡に映し出されている。勿論2人は画家の前方に立っており、位置的にはこの絵画空間の外ー手前、まさにわたしがこの絵ー現実を見ているような立場にいる。ベラスケスらしい絵である。様々な思想的な解釈は割愛し、どうやって描いたのかを問えば、わたしだったらとりあえず大きな鏡を前に置き、ここにいるマルガリータ王女ほかの登場人物をみな所定の位置に描く。その後奥の鏡に王と王妃を描き加える。ベラスケス大好き人間のフェリーペさんだからよいものの、他の王だったら何でわしがこんなに矮小に描かれておるのじゃ、もっと大きく描き直せとか文句をつけそうな気がすごくするが。「織女たち」も同様な空間を描く。彼自身が鏡のように。
思想的な解釈本では、ベラスケスが純粋に絵そのものを描いた過程において、そこに時代の認識装置ーパラダイムを見いだし、そのテキストから精緻なことばとにんげんの関係、言わば認識のありさまを導きだしているものが多いと思われる。面白いと言えばとても面白く、その絵の構造にはベラスケスの無意識というよりスペインという国の特殊性もかなり色濃い影を落としていることが説かれている。


彼の絵を哲学的な対象とせず観るとしても、やはり不思議な絵である。途轍もない技量で厳格かつ冷徹に描かれていながら、どこか未完成を臭わせる大作であったり、未完だと分かる絵はともかく、未完で終わらせたような絵が目につく。ギュスターブ・モローのようだ。勿論、色彩については平明なベラスケスに対して、モローは対極的な位置にいるが(そういえばダリはモローも大変評価していた)。あの偉大なるムリーリョの師匠であったことも、かのモローがマチス、マッケ、ルオーの優秀な教師であったことと重なる。
それはともかく、速い筆で描かれている。慎重で中庸で高貴な人であったそうだが、いざこれを描くと決まればとても素早い制作であったはずだ。そのタッチからも如実に窺える。これほど動勢が的確に描かれているとは、全体像の形体の厳格さと精緻さからよく観ないと気づかない場合もあると思われるが、間違いなくアングルではなくドラクロワだ。モロー的でもある。
素描作品が少ないと言われているが、素描をそもそもする習慣があったのか?思慮深く慎重な性格であっても、キャンバスにはいきなりズバッと描いていたと見える。多分それで素描があまりないのだ。紛失ではないと思う。

今回、初期から順番に絵を見てみると、当初の褐色が主調をなす、自然主義的な明暗を強調した厳しい絵から次第に「色」が表れてくると「筆跡」も見えてくるようになる。純色も観られるに及んで、そろそろ印象派も予感されるような気配もある。それと同時に筆跡も気持ちよく伸びやかになってゆく。さらに色と筆跡は自由度を増し輝きも窺わせる。そして追求していることは絵画という形式そのものである。これまで意識して見なかったが、ベラスケスの手法が着々と変化してきていることを知った。これは自然なことだが、イタリア旅行はやはり大きい。旅行中相当数の書籍も買い込んだようだ。ベラスケスは読書家で絵画に限らぬ造詣の深さでもよく知られていた。
さて、ベラスケスの絵画であるが、当時「想像力のない、上手な実践者」と中傷されたことがあるそうであるが、ゴヤやエル・グレコのような「あるテーマ」を激情のもとに表現した絵画を念頭に置いての批判であることは、容易に想像がつく。確かにそのような絵画群の対極にベラスケスの作品が存在することは明白である。私的な感情などを一切排除して「絵画」そのものを成立させることこそ、ほかならぬベラスケスの静かなる実践であった。

ベラスケスは生活のため注文画を描く必要がなかったのは恵まれていた。ここはフェルメールとは明らかに境遇が違う。フェリーペ4世はやれ無能だのなんだのと揶揄されてきたが、天才ベラスケスに制作の上で最良の環境を提供し続けたことひとつとっても、そこらへんの王よりも遥かに優れた人物であると言っておきたい。



2013年11月18日月曜日

刺繍アートここまでやるか!

「日本刺繍」の細緻で絢爛たる趣をお伝えしたかと思いますが、日本人のなかには刺繍による造形DNAが深い部分で普遍的に満ち満ちているのでしょうか?と思ったのは、病院の待合室でのことです。

スティーブ・ジョブスがAppleを追放された後に作ったNeXT社に、NeXTcubeというパソコンがあります。ワークステーションになるか。
そのcubeのなんとマザーボード、基板をよりによって刺繍によってそっくりに作ってしまった作家がおります。ホントにそっくり!

わたしは目が悪いのでとある雑誌でマザーボードの写真を見たとき、単にパソコンの基板の写真だと思っただけでした。ようやく見出しに「NeXTcubeの基板を再現!」とあり、それが尋常でない物の写真であることに気づきました。ほう、NeXTcubeの基板がなんで今頃、と思いつつページをよくよく見ると「電気が一切通わない布と糸の不思議な世界」という顛末で、私の中ではまた「刺繍か!」ということになりました。
ここのところ、刺繍には度々驚かされてきています。またやられたか!ということです。
これが刺繍!、、、?という具合に。


わたしが冒頭で、普遍的に、、、などと言ったのは何故かというと、この作家はずっと「日本刺繍」を制作してきた専門の作家とかではないのです。
20年間企業で働いてきて2008年から刺繍を始めたきっかけというのが、「このままクリエイティビティを放出させずに死ぬのは嫌だ」と思い立ち、いきなり糸と針を買いに行き、刺繍をやることにしたと言うのです。大学は版画科を卒業してはいるものの、それとは無関係の生活を続けてきて、いきなりのことです。油絵とかアクリル画とか彫刻などなら分かり易いですが、刺繍なのです!それまで全くやったことがなかったそうで、伝統ある技法など全く知らないのに、作ってしまったと。
これでは、今後突然、肉屋のお父さんが刺繍に走ってしまった、なんていうエミール・ボンボワみたいなことがあっても、受け入れ易い素地がすでにこちらの中に育まれています。

ただ、基板などを刺繍作品にしてしまうというのは、よほど腕に覚えがないことには。あのめくるめく複雑さですから。しかし美学的には分かります。確かに美しいです。対象にすることに何の不思議も感じません。
当人の弁では「駅の自動改札機がメンテナンスで開いていたりすると、つい見入ってしまう。基板のなかでも、チップをつなぎ止めている”足”がかっこよかったりして、美しい」のだそうだ。本人曰く「密度フェチ」わたしも充分共感するところです。

最も深く刺激を得たのはこの言葉です。

「布に縫い付ける行為は、残留思念を込めているような感じで、時間と手間をかけたものほどオーラを発している。小さなスペースで大きな存在感を出せるのが刺繍のおもしろさ」

ここに刺繍とは何かが言い尽くされている気がします。
作者は、全ての作品は玉止めと半返し縫いだけで作っているといいます。他に技巧を知らないそうで。
それでこの手の作品だけで個展も開いている。

会社では営業職だそうです。



2013年11月17日日曜日

女子美美術館収蔵作品展にて

この作品展は11/15に終了となりました。

最終日の夕方観た「女子美美術館所蔵展」

5歳双子の子供連れで行きましたもので、集中して観ることは不可能でしたが、それなりの発見がありましたので、簡単にお伝えします。


1.女子美美術館に関して
  1)門からエントランス、扉などセンスが良く思わず入ってしまう所です。
  2)学生展の場合、無料であることが多いです。今回のような収蔵展でも300円程度です。
  3)会場は絵の見やすい形の広い空間で、照明もよく落ち着いた環境です。
  4)車で行かれるのなら、相模原公園(麻溝公園)の駐車場に停められます。
  5)学生さんの受付の対応も良いです。


2.作品構成に関して
大正から平成までの収蔵作品を「春夏秋冬」に分けて展示していました。
女子美卒業者ばかりではなく、広く集められた作品群です。
油彩と日本画です。サイズも縦250をこすものがかなりありました。
何故か版画のカレンダーが空いた壁面すべてを覆っていましたが、意味・意図は分かりませんでした。


3.鑑賞できた範囲での感想
①三岸節子氏が女子美の卒業生であることを知りました。ここでは、1970年作の「夜」(油絵)です。
夜と言っても、紺や黒ではなくバーントシェナかもう少し赤い色で重く塗り固められた「夜」です。窓枠は光っている物もあり、黒く縁どられた三日月が夜空に貼り付いています。
特別な夜であることは窺い知ることができますが、重苦しい不安な夜です。
層をなす塗り重ねがそのまま重厚さを生んでいます。
三岸氏の絵です。

②三谷十糸氏の「秋の流れ」(紙本着色)1963年作は、うちの双子のイチ押し作品です。
中央よりやや画面右に女性が前を向いて立っております。
瞳は茶に塗り込められており、モジリアーニと一緒で、とても抽象的な存在感を高めます。
髪が模様になっており、背景と同質の描き方です。秋の気配の流れでしょうか、水色を主調とした単純化された平面的な色とフォルムがそれを静謐に表しています。
一見静かで優しい絵に見えて、太く強い輪郭線とも相まってステンドグラスの宗教的な趣やムンクの持つ神秘性を湛えた内省的な作品です。

③柿内青葉氏の作品「十六の春」1925年作と「月見草咲く春」1926年作(両方共、絹本着色)は、それは美しい典型的な日本画です。題名からしてクラクラきます。
「大正浪漫」「大正デモクラシー」と言いますが、大正期の風に触れる感があり、大変新鮮で驚愕しました。
その新鮮な感覚は、時代を超脱した形体にあります。極めて典型的な和服を着たご婦人の座る姿に見えて、その女性の顔はとても現代的な描写で、着物の柄はかなり大胆なアール・デコ調で全く古き良き時代ではないのです。
かえって竹久夢二や中原淳一の描くドレスを着た、パリのキキを思わせる「モダン・ガール」の方が、はっきり時代性を帯びています。
「ハイカラ」な格好をしているわけでは全くないのに、この現代性はなんなのだと、思いますと、ダビンチの「モナリザ」が古いの新しいのなどと言われずに永遠に神秘性を湛えているのと同様にこの絵も時間性を超越しているのかも知れません。
すごい絵を見ました。特に女性の顔です。今の女性の顔そのものです。凛とした端正で知的な美しさです。

④「日本刺繍」について。
この分野が昔からありその技法の流れが現在まで脈々と流れていることを、田沢澄江氏の作品で知ることができました。相模原の女性画家展から7人ほどまとめ
以前ここで書きました記事にも山田美佳氏の作品を紹介しましたが、かなり熟した分野であることが分かりました。豪華絢爛な作品が生み出されています。




2013年11月15日金曜日

グループ「瑛」展&水彩スケッチ「一和会」展 相模原市民ホールにて

*済みません。今回、初アップした際、文の見直しをせず(箇条書きのまま)文意の成り立たないものを載せておりました。ここに改めました。訂正してお詫び申し上げます。

はい、今回もローカル展にようこそ。
「瑛」グループ、「一和会」ともに団員いえ構成員(何か怖い方々を連想してしまいますね)メンバーの方も多いようで作品数もたくさんありました。「瑛」は第6回展、「一和会」は第3回展になるそうです。
では今回は展覧会に接してわたしが感じたことをおおまかにお伝えします。


今回はかなり素人さんの多いグループ展を二つ見ました。自分の描きたいように伸び伸び楽しく描いたというより、どちらかというと上手に描こうとしているものが多く見受けられました。勿論、とてもこなれた見応えある作品や、上手で無駄のない筆運びが窺える物もありました。しかし、ぐっと惹かれる絵は以下2点の要素をもった絵だと思います。

1.独自の手法で描いたもの
2.n-1の発想によるもの


まず自分なりの技法と描写方を見出している人はとても魅力的な作品を生み出しています。完全に他の作品と差別化できており、真っ先に絵が飛び込んできます。
それは事物の単純化からパタンを見出して構成している作品です。対象からその煩雑な動きに引き摺られず、自分なりの美-法則を発見し、自分なりにパタン化して表現しているものです。それは複雑であっても整然として明快であり、楽しく心地良く、何より「作品」になっています。
作者は具現化するまで絶えず好奇心を持ってこうしてみたらどうか、ああしたらどうか、など常にあれこれ実験をして得た結果ですね。
それも子供のように楽しんで。
これが大切なんだなとつくづく思いました。
一生懸命、見に来た人にその経緯を説明している作者さんがいて微笑ましいものでした。
こんもりとした草叢を6つの塊に分け描き方(色の塗り方)を分けて描いたものです。とても心地よく見栄えの良い絵本の挿絵みたいでした。
珈琲で色の下地を作って成功した事例も面白かったです。カラスウリのデッサンにその下地はとても渋く、効果的で合っていました。

また、水彩や水墨画などに限らず全ての創作の基本だと考えるのですが、n-1の発想で創作することです。
はっきり言って、講師作品以外、水彩画コーナーの絵は、描きすぎが大変多くを占めていました。描き過ぎと言うと誤解を招く言い方ですが、要するに一本の線で形が決まらないため不確かな探りを入れる線を何本も入れてしまう。
特に輪郭を成すペン。線が過剰に説明的で必要の無い線が多過ぎるものほどいかにも素人くさくなってしまいます。
クロッキーをどれだけしているかがとても大切であることが分かりますね。よい作品はクロッキー-デッサンが出来ていて安心して観られる。
さらに良いものは、多少の揺らぎのある線を8分目で停め、輪郭を閉じない。足りないところで終わらせる。
これがとても風通しが良くて気持ち良い。
こういう作品は見入ってしまいます。自分がその線をなぞるように見てしまいます。
対象の動きに引き摺られ線がゴリゴリ入ってしまったら、それを元にもう一枚新しく描き直すと良いものになると思われます。勿論これは透明水彩の彩色にも言えます。重ねすぎてしまったら、即新たに描き直す。混色の妙もありますが、一歩手前で退くことが大事です。
足りないくらいが丁度よいですね。

今回、絵を描くときの心構えを再認識させてもらう良い機会となりました。また、このようなグループ展には足を運んでみたいです。

2013年11月14日木曜日

Procol Harum プロコルハルム 10/10

9. Procol's Ninth          1975
何よりも大きな変化はプロデューサージェリー・リバー&マイク・ストラーというわたしはまったく馴染みがなかったが、AOR界では大変著名な実力プロデューサーということだ。

プログレッシブ界(と便宜的に言っておくと)の動向は、1曲45分位の楽曲を研ぎ澄ました演奏テクニックで畳み掛けるように聴かせる、心臓の弱いリスナーにはついていけないようなアルバム制作が続いている一方で、ピーター・ハミルのように、そのサウンド作りの張本人だったようなアーティストが短くハード&ストレートな革新的な曲(パンクの原型)を出してきた。ドイツの自覚的なアーティストたちはすでに3年くらい前からポストロックに走り、CAN、NEU!、FAUST等、KRAFTWERK以外にも飛び抜けた世界観と発想とテクニークを持つアーティストアーティストたちがいよいよ台頭してきていた。どれも聴いていてその革新性がどうのこうの言う前に、圧倒的に気持ちがよい。
間違いなく彼等が強力なニューウェイブとなることが、自然に納得できるサウンドであった。
さて、新プロコルハルムプロデューサーコンビからの答えである。
多分、彼等はAOR専門家であるため、その型に嵌め込む以外の発想はなかったと見える。そのプロデューサーチームを選んだ時点で答えは決まっていた。
ゲーリーがいるのでプロコルハルムの曲が聴けることは保証される。例えビートルズのカヴァーを歌おうと、彼のボーカルがある。しかし何でよりによってエイトディズアウイークか?エスペラントのエリノアリグビーのような奇跡的な大傑作カヴァーもあるなかで、この曲ではさすがのゲーリーも料理のしようがない。というよりそのまま歌うように指示されたのか?
しかし、彼が自分のしたくないことをしぶしぶ引き受けることは考え難い。恐らくこれを高らかに素直なスタイルで歌うことが気持ちよかったのだ。時代は気持ちよいことは、よいことであると積極的に評価する気風が高まってきた。
要は、彼等がどれほど気持ちよくアルバムを作ったのか、である。このようなアルバムを出すことが彼等にとって必要だったのだ。事実これまでより遥かに彼等を高く評価する評論家もおり、いつまでも彼等の青い影を追いかけるファンはプロコルハルムにとって足枷でしかない。とは言え、この方向性で彼等がずっと突き進むということは、ない、と容易に予想出来るモノである。曲は明らかにプロコルハルムのものであり良くできた物も目立つが。
どんなときもバリー・J・ウイルソンはテクニックを合わせてくる。ここがまた天才と言われるところだろう。

リゾート気分でリフレッシュしたような、いづれにせよ彼等がプログレの重厚長大押しつけのような畳みかけにアンチテーゼを打ち出したこの感性は、やはりただ者ではない。10年1日のごとく過去の成功曲を真似ているようなグループとは訳が違う。

このアルバムは他の彼等のアルバムと比較しても遜色のない楽曲で構成されているお薦め作品である。


10. Something Magic        1976
邦題が「輪廻」である。
よく付けたと思う。
とても内容というかこの時点での彼等の一区切りに合った邦題となっている。
なんでも、アランカートライトが行方不明になったとかで、ピート・ソリーという人がメンバーに加わり、オルガンとシンセサイザーを演奏する。シンセサイザーはこれまでも一部に使用されたことがあるが、シンセサイザー奏者をメンバーに入れたことは初めての試みである。これがかなりのテクニシャンであることが分かる。
ゲーリーもオーケストレーションとシンセをアレンジ上うまく使い分け、従来の格調高いクラシカルな楽曲がとりわけ良い出来になっている。個々の曲もそうであるが、アルパム自体もコンセプトがしっかりあり全体がひとつの流れを持って進行する。
ちなみにクリスはベーシストとなっている。

ひとことで言えば、プロコルハルムの集大成であり、記念碑的な完成作である。
これまでのクラシカルでハードで時にポップな楽曲が極めて高いレベルで作られ、アルバムとしてのまとまりも、申し分ないものだ。

彼等はまずここで解散するが、最期は多くのファンも認めるであろう、重厚ないかにもプロコルハルムといったブリティッシュロックで締めくくってくれた。
最期のアルバムはこういった形以外には、確かに考えられない。



これ以降のプロコルハルムを追う準備は今ないが、まだまだメンバーを変えて多くのアルバムを長期休暇後、発表していく。
バリー・J・ウイルソンが若くして事故死した後、また再びゲーリーの元にマシュー・フィシャーとロビン・トロワーが集まり、黄金期さながらのアルバムも発表している。
まさにプロコルハルムは不変であるが、もう二度とバリー・J・ウイルソンのドラミングが聴けない損失はあまりに大きい。何よりプロコルハルムにとって。言うまでもなくファンにとって。






2013年11月13日水曜日

Procol Harum プロコルハルム 8/10

7. Grand Hotel        1973
完璧な作品。

今後、どのようなアーティストが現れ、どのような作品が生み出されようが、本作がロックミュージシャンから生まれた「全音楽」の最高傑作であることに、いささかも影響は及ぼすことはない。これほどの作品は金輪際出ない。これは自明のことである。

"Grand Hotel "はプロコルハルムにとっても奇跡的な出来であり、彼等を最も適したメディアとして、彼等を通してはじめて具現された芸術である。
このようなものに触れると、Ideaというモノの実在を否応なく感受する。

芸術の本来の存在意味に、意識の拡張深化ー覚醒作用があるとすれば、彼等の音楽はまさにそれである。

いつにもましてキース・リードはシニカルで乾ききっている。
すべてを突き放す。
どんなに暗い世界よりも深い闇に。
ここには、中途半端な描写は一切ない。
一点の隙もない。
その徹底した意味で、フランツ・カフカの描く世界に酷似している。
ロマンティックな幻想など微塵もない。

そこに繰り広げられるただ虚しいだけの人間のありさま。
きらびやかに変幻する光と表情を失って舞う人々の一瞬の姿。
その表装を描くメロディーの美しさ。
そして意味の無い昂まり。
サウンドは渦を巻いて高揚してゆく、、、

そして、舞台の照明は完全に落ちる。
誰もがロバーツボックスにすがりつく。

自分の病を今更、治してもらおうなどと思いはしない。
救われる?
一体何から?

ただいまのこの痛み!
この耐えがたい痛みを何とかしてくれ!
この痛みだけでも、何とかしてくれ!
もう二度と来ないから
痛みだけ、
束の間でも消してくれ!

管弦楽とスイングルシンガーズを全面フューチャーしての大団円。
感動の終曲である。

われわれはいったいなににかんどうしているのか


前作での唯一の失点。プロコルハルムの歴史で唯一の汚点であるデイブボールのギタートラックを全て削除し、ミックグラハムのものに入れ替えたことで、このアルバムは絶対を獲得した。



8.Exotic Birds and Fruit        1974
クリストーマスの最後のプロデュースによるもの。
トータルとしてのコンセプトより、個々の作品に力を置いていることの判るアルバムである。
トゥジュールアモールがバタフライボーイーズに、という様な個々の楽曲はさらに力強く厚みを増し躍動している。
ミックグラハムはロビントロワーの抜けたあとを見事に埋め、プロコルハルムのサウンドに完全に溶け込み、作品をさらに魅力的にして余りある素晴らしいギターワークをみせている。

ハードでタイトであるが、以前のアルバムよりカラフルで曲ごとの表情がとてもゆたかだ。何よりゲーリーブルッカーが非常にエネルギッシュでパワーに溢れている。ボーカルも気持ちよい。ピアノもこれまで以上に走っている。
バリー・J・ウイルソンのドラミングはいつもながら非凡な個性をみせ、ミックのギターもドライブ感と重量感をもって駆け抜けていく。オルガンも厚みをもち彼らの曲のクラシカルな格調の高さを充分に醸している。
このアルバムでは、一切オーケストラは導入していないが、サウンドの厚みや表情は決して劣らない。

曲想的には、プロコルハルムは完全にゲーリーブルッカー=キースリードのグループとなり(戻り)、それを支える優秀なスタッフとしての演奏家が揃ったという感がある。
メロディもスッと入り込んでいつまでも残るものばかりであり、改めてゲーリーブルッカー=キースリードのコンポーザーとしての能力の高さが認識できる作品となった。

一般的な評価も高いアルバムであり、彼らの代表作のひとつに数えられる。
はっきり言って、あのアルバムの後に、またこれだけの仕事をコンスタントにできるポテンシャルの高さは並大抵のグループでないことを証明している。

この年、南イタリアからは、アルティ・エ・メスティエリなどの超絶技巧のクラシックにジャズアンサンブルを融合したアルバム1組曲というコンセプツァル作品を発表するアーティストも相変わらず出てきており(このTILTというファーストは凄まじいテンションのトータルアルバムであった)、キングクリムゾン、ジェスロタルも同様な練りに練った重厚なアルバムを出している。この後のプロコルハルムの方向性も懸念されるものであった。







2013年11月12日火曜日

Procol Harum プロコルハルム 6/10

5. Broken Barricades    1971
ここで何より印象的なのは、ロビン・トロワーがジミヘンばりのギターを弾きまくりはじめたことである。このギタースタイルはソロ(の大傑作アルバム)で見事に開花する。これまでになくロビンが前面に出てくるアルバムである。ものすごくカッコ良いプロコル・ハルムが聴ける。
イアン・アンダーソン率いるジェスロ・タルの在籍するクリサイスに移っての第一弾アルバムでもある。ジェスロ・タルとプロコル・ハルム。彼らはイギリスが誇る実力派アーティストの双璧である。どちらも常にプロフレッシブな姿勢を崩さない。(寧ろプログレッシブグループと言われているものこそ自分のスタイルを模倣し形骸化する傾向がある。)

この新しい環境での新アルバムは、「ヘビー&ソリッド&タイト」と言ってよく、バンドのエネルギー溢れるものである。演奏テクニックにはさらに磨きがかかりスケールアップした感がする。バリー・J・ウイルソンのドラミングは相変わらず超絶技巧で素晴らしく、そこにロビン・トロワーのフェンダー・ストラト・キャスターが縦横無尽に絡む。ゲーリーの作る旋律ーサウンドはヘビーかつクラシカルで、実に他のメンバーの演奏に融合している。ゲリーのボーカルもこのサウンドには水を得た魚のように非常にマッチして活き活きしている。

痛快なプロコル・ハルムが存分に聴けるアルバム。



6. Live in Consert with Edmonton Symphony Orchestra        1972
ロビン・トロワー脱退。
マシュー・フィッシャーに続き、これまでのプロコル・ハルム、彼らの彼らならではのサウンドの要を担ってきたメンバーがまた抜け、ここでゲーリー・ブルッカー=キース・リードの真価が問われるところであることは、誰の目にも明らかであった。

その答えが、これである。
このアルバムから、ギターにデビット・ボール、ベースにはアラン・カートライトが加わる。
ベーシストはライブも考えるとメンバーの加入は必須であった。
ギタリストについては適当な人材確保は時間的にも難しかったようである。

本作は、カナダのエドモントン・シンフォニー・オーケストラとカメラ・シンガーズが全面的に演奏・合唱に加わったものである。ディープ・パープルを始めロックバンドとオーケストラの共演は何度かなされており、成功した例もあるが、この時点でこの作品ほど高いレベルでの共演はなかったはずだ。プロコルハルムのクラシカルな要素が強調され、ゲーリー・ブルッカーのコンポーザーとしての才能・能力の高さが再認識されたアルバムとも言えよう。
特に、"In Held Twas in I"は2ndアルバムの名曲というより彼らの代表曲の一つであるが、ここではさらにグレードアップした演奏を聴かせている。あくまでもバンドがコントロールして、オーケストラと合唱団をドラマチックな高揚にしっかり活かしきっている。ライブでのズレや荒さはなく、とても緻密でダイナミックな演奏が実現されている。(実は1度演奏をやり直したらしい)
このアルバムは間違いなく、これまでのプロコル・ハルムの集大成であり、申し分のないクライマックスで締めくくられる。
セールス的にも正当な評価を得て、成功した。
プロコル・ハルムは不滅である。
ただ、メンバー的な立て直しは課題として残った。




2013年11月11日月曜日

Procol Harum プロコルハルム 4/10

3. A Salty Dog      1969
このアルバムは、マシュー・フィッシャーのプロデュースとなる。今作を最後に彼はグループを脱退する。ゲーリー・ブルッカーとの軋轢などが噂されるが真相ははっきりしない。その後、哀愁溢れるメロディーを奏でるハモンド・オルガンのたっぷりフューチャーされたソロアルバムとプロデューサーとしてロビン・トロワーの傑作ソロアルバムなど多く手がけていくことになる。
このアルバムでマシュー・フィッシャーは後のソロ活動に引き継がれる確固たる個性を持ったマシュー節の哀愁に鈍く染上げられた珠玉の名作を発表している。
ロビン・トロワーもギターテクニックだけでなくソングライティングの才能をはっきりと窺わせている。ボーカルはあまりに個性的であるが、多分好みのわかれるところである。
メンバー各自がおおらかに自分の才能を発揮する場となっており、各曲が明るく心地よいアルバムとなっている。面白いのは各メンバーが自分の担当楽器以外の楽器も演奏しており、リラックスし楽しんでレコーディングしている雰囲気が伝わってくるところだ。マシュー・フィッシャーのプロデューサー業の出発点であり、アーティストの意思を尊重し、開放的に才能を引き出す彼のスタイルが理解出来るものである。
このアルバムはジャケットとともに初期プロコルハルムを深くリスナーに印象づける傑作に数えられ、相変わらず「青い影」は付き纏うが、グループとしての認知度を確実に高めるものであった。ゲーリー・ブルッカーとキース・リードの中核コンビは言うまでもない高いレベルの仕事をしている。
このアルバムも個性的な楽曲が並ぶ割に"A Salty Dog"の雰囲気によくまとめられている明らかに成功作である。彼等の海賊のイメージはジャケットの絵の強烈な印象で、暫く続く。


4. Home      1970
コンスタントにアルバムを発表していく彼等であるが、ここにはもうマシューはいない。ベーシストも脱退しており、クリス・コッピングがオルガンとベースの両方を担当する。明らかに神々しいマシューの調べとは異なるオルガンではあるが、クリスのオルガンは今後のプロコルハルムになくてはならないサウンドの要となっていく。名曲をしっかり支える決して自己主張しすぎないタイトな調べを奏でていく。もちろん出るところでは腕を発揮する。
プロデューサーはクリス・トーマスを迎えている。プロコルハルムはたとえ誰がアルバム制作しようとブルッカー&リードがいれば不変のサウンドが保証されるものである。その点に何ら不安は介在しない。彼等は次元の違う天才コンポーザーコンビであるから。
基本コンセプトとしてこのアルバムはキースの詩が全体を見事にまとめていることは特筆に値する。「青い影」の頃のシュールレアリスティカルなものではなくはっきりと後の「グランド・ホテル」に磨かれ継承されていく世界観「生・死・老い・病、、、」が明確に描かれていく。

彼等の前身バンドであるパラマウンツのメンバーに戻ったことが分かる。それで"Home"というアルバムなのだと容易に想像がつく。しかしこれは明らかにプロコルハルム以外の何者でもない。
ある意味、スケールが拡がり骨太の力強いアルバムになっており、ヒット性の高い曲が多い。シンプルでストレートな印象が強いが、プロコルハルムの確固たる芸術性が中心にあり、単純なブルースだったり、カントリーだったりすることはない。どんな形式を借りようが、プロコルハルムは絶対であることを再認識させられたアルバムであり、彼等の辞書に駄作という言葉など無いと分かる、これもまた傑作アルバムであった。









2013年11月8日金曜日

Procol Harum プロコルハルム 2/10

プロコルハルムとは
プロコルハルムは物凄いコアなファンはいますが、薄いファンはあまりいないように思います。
ですから、ご紹介などしても、知っているヒトは必要ないし、知らないヒトは興味ない、と言うことにもなりそうな気がします。
ただ、私自身が大ファンで、「グランドホテル」はROCK史のみならず音楽史にも燦然と輝く大傑作であると確信しており、自分自身のためにも一度まとめておこうと思います。


1. A Whiter Shade of Pale       1967
まず、最初からロック、R&B、クラシックの要素が自然に融合した音楽であることがよく分かります。取って付けたような不自然なところはまるでありません。どれもゲーリー・ブルッカーの血が書かせた曲なのでしょう。
これは、彼等の基本スタイルとして、メンバーやプロデューサーが変わっても不変のものとして貫かれていきます。
どの曲もイギリス的で翳りがあり、ピアノ・オルガン・ギターの基本構成で格調の高い曲想を湛えたものです。
ゲーリー・ブルッカーとキース・リードのソングライターチームはプロコルハルムの中核として全く駄作のない優れた曲をこのまま10年間以上安定して作り続けていきます。
また、もちろん忘れてはならないことに、個性の光る非凡なソングライターであり、ハモンド・オルガンとブルース・ギターの類稀なプレイヤーであるマシュー・フィシャーとロビン・トロワーという存在、さらにバリー・J・ウィルソンという天才ドラマーが在籍していることです。
プロコルハルムとは、当初から完成された恐るべきスーパーグループ(適当な表現とは言えませんが)だったと言えます。
ただ、ここでは表題(当初は入っていなかった)曲とハンブルグくらいしか注目はされなかったようです。征服者も時折かかっていましたが。
「青い影」についてはことわるまでもありませんが、バッハとロックの相性は抜群です。トレースのリック・バンダー・リンデンを挙げるまでもなく。しかし、このような途轍もないヒット曲を放つことはアーティストにとって必ずしもよい影響を及ぼすばかりではありません。(マーケッティングの上では)


2. Shine on Brightly    1968

これはある意味、「青い影のプロコルハルム」を払拭すべく出された彼等の渾身の意欲作と言えましょう。アーティストたちは、一度大ヒットを出してしまうと来る日も来る日も引っ張りだこで同じ曲を演奏させられます。中にはそれが耐え難く心身ともに不調をきたしてしまう人もいます。その曲のイメージが邪魔となって生涯苦しむ場合もあります。
このアルバムは前作のような短期間で作った、単に小品を寄せ集めて収録したものではなく、完全なコンセプトアルバムであり、長い組曲も含め全体として充分に練られ制作されたものであることが一聴すれば納得出来ます。彼等がアルバムで聴かせるアーティストであることを誇示していることがよく分かります。
この時期には、ムーディ・ブルースが革新的なコンセプトアルバムを出していましたが、ムーディ・ブルースの方はかなりポップな雰囲気に包まれている(ウォルト・ディズニー的な)のに対し、プロコルハルムは大変荘厳なクラシカルな佇まいをもってインストロメンタルを中心に曲を構築しています。ゲーリー・ブルッカーとキース・リードのソングライターチームの実力がいかほどのものか、リスナーに印象づけるに充分なものでしょう。
ここでは、メンバー全員がしっかり自分の出番での演奏を遺憾なく披露しています。ロビン・トロワーも充分に個性を出し、バリーのテクニックはこのグループの名曲を支える上で、なくてはならないものであることがはっきり分かります。さらにマシュー・フィシャーは、ハモンド・オルガンでとても際立つ演奏を聴かせているだけでなく、ソングライティングでも組曲の重要なパートを作っており、頭角をかなり見せています。彼のボーカルもただ者ではありません。ソウルフルなゲーリー・ブルッカーのボーカル'(彼等がR&Bの要素を兎や角言われるのはこのボーカルに寄るところが大きいです)に対し哀愁を湛えた張りのある文学青年的ボーカルはブルッカーとはかなり異質な響きで耳に残ります。
しかし、強烈な個性たちもここでは一つの組曲の構築のためにぎりぎりのところでまとまり、混声合唱などの導入等、後の世紀の大傑作「グランド・ホテル」にも繋がるような感動的な構築美を実現しています。演奏に一切加わらない詩人キースの詩も独特なシュールレアリスティカルな世界を作り、アルバムに深まりと拡がりを与えています。彼等は詩も非常に大切にしています。
この詩を専門に書く詩人をグループに持つスタイルはベティ・サッチャーを置くルネサンスやこの後、Rockミュージックを根本的に変えるべく出現する、やはりピート・シンフィールドを詩人として擁するキング・クリムゾンの先駆けと言えます。
ROCKの名作は詩の出来が前提であることは、つい先頃急逝したルー・リードの曲を例に出すまでもありません。
間違いなく、"Shine on Brightly"は微妙なバランスの上に立った、60年代を代表するコンセプトアルバムの傑作(Best)と言えます。しかしそれがそのままセールスに繋がったわけではありません。但し実力の評価は成されました。


2013年11月2日土曜日

紀子の食卓から

そもそも家族とは何か?を描いた映画なのでしょうか。

端から家族とか家庭のとっぱずれた個人というか単独者の各行動を描いたもののように見えました。

それというのも、様々な関係から生じる齟齬や葛藤などの重なりなどで徐々に家庭環境が崩れてゆき、家族が解体するというような過程の物語がなく、最初から皆さほど家庭に目を向けていない人たちが勝手に飛び出していったというのがむしろ特徴ー印象的な映画でしたもので。

そもそも家族とは今ありえるのでしょうか。
つまりそのような機構=幻想の有効性。
さらにその必要性とは。

仮にその必要性を一番強く感じて頑張っていたのは父親だったように思われます。
が、この物語では、最もひどい加害者のごとく描かれています。
主人公の長女に批判されます。
どうなのでしょう?
母や2人の娘たちの方が家庭を軽んじていたようにも受け取れます。
むしろ父親はごくありふれた父親より、家庭を大切に思って生活を送っている人です。

突然、長女が家出し、すぐあと次女も出てゆき、心労から?母親が自殺し、と女三人はまったく自己中な行動をしまくり父親を苦しめます。
少なくとも、家庭・家族があると、それを自明のものと盲信していたのは父親一人だったでしょう。
後の女性たちは元々とりあえずひとつの家の中に集合していただけで、思いや意思は常に違うところにあったのではないですか。

つまりこの映画は家族の不可能性を描いてみせたものだと思われます。最初から家族は成立し得ない。もし作るとしたら契約の上、短期間だけ思いっきり紋切り型の仲の良い愛情と信頼と尊敬に支えられた家族というものを演じてみるのが面白い、ということになりますか。少なくとも仕事として成立する、ものであると。
するとやはり異質の人間であるあの父親はその幻想のために排除され、娘たちを追いすがる立場にならざる負えなかったのでしょう。

さいご商売なしでまとまったかに見える家庭から、妹が名付けられない何者かとしてひとり出てゆきます。そこには清々しさを感じました。



2013年11月1日金曜日

「国際墨絵展」を観て

国公募第25回 またまた相模原市民ギャラリーから

11/1~11/4 までです

全国レベルで公募し集まった作品だけあって。数も多かったですが、質も高いものでした。

基本的に真っ白い和紙に、黒い墨で硬質な細筆から面を意識したぼかしまで濃淡を使い分けて精緻にまた豪放に描かれたものが多数見られました。なおカラーで描かれたのは2点で、部分的に金箔(金色)を使ったものは3点ほど見られました。
やはり墨絵ということもあり、風景画が圧倒的に多かったです。

今回印象的であったことは、朦朧体のような全体がソフトフォーカスされた伝統的なものはごく少なく、題材や構図も含め大変ビビットでソリッドな表現(技法)のものが多かったことです。
また、墨絵であることから技法上念頭におくべきことは、白の表現です。白は抜いて描かなければならないことです。白を絵の具で表現できる油彩やアクリルと異なり、地から図を起こすように描くところに決定的な差が生じますし、水彩画と同様に描き直しは効きません。
しかしこの展覧会は「墨絵」ということを特に意識せずに、画像を純粋に楽しめるものでした。


ではいくつか気のついたものを記憶をたどって。

一番私が長く足を止めた絵は、高須茂章氏の「渓流」です。
構図にインパクトがあります。
この展覧会に集められた墨絵は、構図に空間的な広さを表現したものが少なくなく、近傍から遠方の空間を空気遠近法で木々の霞具合や霧の深まりを絶妙に使って描いた静謐なものが目立ちましたが、この絵は何より緊張感と力強さが特徴です。それがどのような表現かというと、なだらかな遠近ではなく、圧縮された近傍と遠景で思い切って構成されており、正面・間近にゴツゴツした岩石の間から川の水が小さな滝のように流れ落ちており、その上部遠景に少し霞んだ岩山が佇み、近傍の岩石が支え湛えている大変な圧力の水の表面を想像させるだけの川の構図になっているというものです。岩石の向こうの一段高い水面は描かれていません。ここにこの畳み込まれた遠近法の重量感があります。
物質感がよく出ている上に構図が秀逸です。


「雨のち晴れ」相馬律子氏の風景は、テクスチュアのインパクトです。
石肌と空の空気感の質感の違いが詩的に表されています。
マックス・エルンストのフロッタージュを思わせる石の質感は単にそれを似せようという次元ではなくシュル・レアリスティカルな物質感すら漂わせています。これは白を抜きながら細かい柄を描き分けるというだけでなく、濃淡と筆を複数使い分け塗り重ねも行われている様子が窺えます。重厚な物質感と儚い空の表情が対比によりさらに強調されます。
質感・気配を追求し続けると、エルンストの作品のようなシュール・レアリズム作品に接近してゆく良い例に思われます。
「陽光」大山よつ子氏の作品もマチエールにこだわりフロッタージュを利用したかのような物質性を充分に感じさせるものです。
質感では「明けゆく」有坂美津子氏の作品は雪や雪煙の質感が雪の重さの量感と空気感の動勢と相まって空間そのものの繊細で力強い運動(対流)をも感じさせるものとなっています。墨絵はことのほか量感・動勢・質感を出すことが可能なものであることが分かります。特に今回質感に優れた作品が多かったです。


「山路を行けば」山本英子氏の画像は面と線の描き分けが一番自然な形で際立って有効に描き分けられていたように思われます。ここが少しでも崩れると線そのものや面が浮き上がってわざとらしく見え、絵としては破綻してしまいます。
上に紹介した絵は、どれも画面までの距離によって違う相貌を見せますが、距離をどう取っても部分が調和せず破綻するようなことはありません。

今回展示されている絵には、線の入れ方、面のぼかし方に全体としてみると、ズレが窺えるものが数点ありました。建造物にも歪みが散見されるものがありました。

人物画には「ねぶた」「ミステリアス」藤森玲子氏や「昼下がりの港(トルコ)」虎田英里氏の作品が目立っていました。藤森氏のデッサンは非常に安定しており、ねぶたを踊っている人物(少女)の動き着物の柄顔や手の表情どれをとっても愛らしく見事にまとめられています。全く破れ目のない緊張感と優しさのある線で描き尽くされています。「ミステリアス」の婦人像は手馴れた線で椅子に座る凛とした女性を僅かなムダもなく描ききっています。まさに軽妙洒脱です。
虎田氏のものはトルコ人の働く姿の群像です。安定した構図で、単純化された形態でまとめられており安心して見られるものとなっています。墨を木炭のように使って描いたスケッチ(クロッキー)のように思えました。さらっと描かれているところに作者のデッサン力が窺えます。

人物画には明らかな意図せぬデッサンの狂いや写真からそのまま描き写したのが分かる説明的で量感のないものなどがありました。

仰向けで無防備におなかを丸々出した「吾輩はネコ「ギフト」である」小山器美子氏は猫の他にも「かぼちゃの自己主張」で静物を、「晩秋の山里」で風景を描いています。
どれも力作であることを感じさせない描き慣れた腕を窺わせています。
ただこれらの絵を見ると木炭を墨筆に持ち替えて見事なデッサンをしました、という感じです。
かぼちゃの絵もモノクロ写真に撮ったかぼちゃに見え、晩秋の山里も煙と枝の絶妙な対比に力を発揮しています。
このレベルですと安心して見れますが、どことなく優秀な女子美大生の作品に見えてしまいます。
この技量を持って、もう一歩対象に踏み込むとさらに面白い絵になるのではという期待感も持ってしまうポテンシャルが感じられます。


墨絵と聞いて連想する静謐でソフトな質感の詩的な絵というより、厳格にフォルムを追求し構図にこだわり、動勢・質感を厳密に追った作品が多く、認識を新たにすると同時にこの墨絵の可能性をさらに感じさせられました。