AdSense

2013年11月1日金曜日

「国際墨絵展」を観て

国公募第25回 またまた相模原市民ギャラリーから

11/1~11/4 までです

全国レベルで公募し集まった作品だけあって。数も多かったですが、質も高いものでした。

基本的に真っ白い和紙に、黒い墨で硬質な細筆から面を意識したぼかしまで濃淡を使い分けて精緻にまた豪放に描かれたものが多数見られました。なおカラーで描かれたのは2点で、部分的に金箔(金色)を使ったものは3点ほど見られました。
やはり墨絵ということもあり、風景画が圧倒的に多かったです。

今回印象的であったことは、朦朧体のような全体がソフトフォーカスされた伝統的なものはごく少なく、題材や構図も含め大変ビビットでソリッドな表現(技法)のものが多かったことです。
また、墨絵であることから技法上念頭におくべきことは、白の表現です。白は抜いて描かなければならないことです。白を絵の具で表現できる油彩やアクリルと異なり、地から図を起こすように描くところに決定的な差が生じますし、水彩画と同様に描き直しは効きません。
しかしこの展覧会は「墨絵」ということを特に意識せずに、画像を純粋に楽しめるものでした。


ではいくつか気のついたものを記憶をたどって。

一番私が長く足を止めた絵は、高須茂章氏の「渓流」です。
構図にインパクトがあります。
この展覧会に集められた墨絵は、構図に空間的な広さを表現したものが少なくなく、近傍から遠方の空間を空気遠近法で木々の霞具合や霧の深まりを絶妙に使って描いた静謐なものが目立ちましたが、この絵は何より緊張感と力強さが特徴です。それがどのような表現かというと、なだらかな遠近ではなく、圧縮された近傍と遠景で思い切って構成されており、正面・間近にゴツゴツした岩石の間から川の水が小さな滝のように流れ落ちており、その上部遠景に少し霞んだ岩山が佇み、近傍の岩石が支え湛えている大変な圧力の水の表面を想像させるだけの川の構図になっているというものです。岩石の向こうの一段高い水面は描かれていません。ここにこの畳み込まれた遠近法の重量感があります。
物質感がよく出ている上に構図が秀逸です。


「雨のち晴れ」相馬律子氏の風景は、テクスチュアのインパクトです。
石肌と空の空気感の質感の違いが詩的に表されています。
マックス・エルンストのフロッタージュを思わせる石の質感は単にそれを似せようという次元ではなくシュル・レアリスティカルな物質感すら漂わせています。これは白を抜きながら細かい柄を描き分けるというだけでなく、濃淡と筆を複数使い分け塗り重ねも行われている様子が窺えます。重厚な物質感と儚い空の表情が対比によりさらに強調されます。
質感・気配を追求し続けると、エルンストの作品のようなシュール・レアリズム作品に接近してゆく良い例に思われます。
「陽光」大山よつ子氏の作品もマチエールにこだわりフロッタージュを利用したかのような物質性を充分に感じさせるものです。
質感では「明けゆく」有坂美津子氏の作品は雪や雪煙の質感が雪の重さの量感と空気感の動勢と相まって空間そのものの繊細で力強い運動(対流)をも感じさせるものとなっています。墨絵はことのほか量感・動勢・質感を出すことが可能なものであることが分かります。特に今回質感に優れた作品が多かったです。


「山路を行けば」山本英子氏の画像は面と線の描き分けが一番自然な形で際立って有効に描き分けられていたように思われます。ここが少しでも崩れると線そのものや面が浮き上がってわざとらしく見え、絵としては破綻してしまいます。
上に紹介した絵は、どれも画面までの距離によって違う相貌を見せますが、距離をどう取っても部分が調和せず破綻するようなことはありません。

今回展示されている絵には、線の入れ方、面のぼかし方に全体としてみると、ズレが窺えるものが数点ありました。建造物にも歪みが散見されるものがありました。

人物画には「ねぶた」「ミステリアス」藤森玲子氏や「昼下がりの港(トルコ)」虎田英里氏の作品が目立っていました。藤森氏のデッサンは非常に安定しており、ねぶたを踊っている人物(少女)の動き着物の柄顔や手の表情どれをとっても愛らしく見事にまとめられています。全く破れ目のない緊張感と優しさのある線で描き尽くされています。「ミステリアス」の婦人像は手馴れた線で椅子に座る凛とした女性を僅かなムダもなく描ききっています。まさに軽妙洒脱です。
虎田氏のものはトルコ人の働く姿の群像です。安定した構図で、単純化された形態でまとめられており安心して見られるものとなっています。墨を木炭のように使って描いたスケッチ(クロッキー)のように思えました。さらっと描かれているところに作者のデッサン力が窺えます。

人物画には明らかな意図せぬデッサンの狂いや写真からそのまま描き写したのが分かる説明的で量感のないものなどがありました。

仰向けで無防備におなかを丸々出した「吾輩はネコ「ギフト」である」小山器美子氏は猫の他にも「かぼちゃの自己主張」で静物を、「晩秋の山里」で風景を描いています。
どれも力作であることを感じさせない描き慣れた腕を窺わせています。
ただこれらの絵を見ると木炭を墨筆に持ち替えて見事なデッサンをしました、という感じです。
かぼちゃの絵もモノクロ写真に撮ったかぼちゃに見え、晩秋の山里も煙と枝の絶妙な対比に力を発揮しています。
このレベルですと安心して見れますが、どことなく優秀な女子美大生の作品に見えてしまいます。
この技量を持って、もう一歩対象に踏み込むとさらに面白い絵になるのではという期待感も持ってしまうポテンシャルが感じられます。


墨絵と聞いて連想する静謐でソフトな質感の詩的な絵というより、厳格にフォルムを追求し構図にこだわり、動勢・質感を厳密に追った作品が多く、認識を新たにすると同時にこの墨絵の可能性をさらに感じさせられました。



0 件のコメント:

コメントを投稿