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2014年4月25日金曜日

東松照明 ~ 泥の王国

本の背を見て、なんだこの日焼けで文字が消えてしまったものは?と思い、手にとったのが「泥の王国」(東松照明)だった。

この写真集は高校の時に観て、確かに泥の国が切り取られているな、という漠然とした感慨をもったものだが、3分の2くらい観たところにあった黒いテントの前に佇む少女の姿に、激しいデジャヴを感じ、それがなんである分からず暫くそのページに見入ってしまったものであった。
その経験を思い出したのだが、それから何十年かが経ち、まずそのページがそれであることすら、最初は、はっきりしないほどこちらの観る目が変わっていることに驚いた。

恐らくその少女のこちらを睨むようなその眼差しと、歯を食いしばっているかのような印象的な口元による表情が、わたしの記憶に沈んでいた何かを呼び覚ましたのかもしれない。もしかしたら当時のクラスの誰かを思い起こすものであったかも知れないし、そのころよく読んでいたオカルト関係の書籍に触発された前世の光景とかの想像がそこに投影されていたのかも知れない。

ともかくいまより感性は瑞々しかったから、いちいちよく感動はしていたものだ。
しかし一度感動したり、目眩に似た感覚を味わったとしても、そこに何らかの言葉がおさまれば、通常のコンテクストに収集され理解されて落ち着いてしまう。(現実に復帰している)

音楽でもそういうことがよくあった。名前の思い出せない音楽が突然流れ出した時の圧倒的な感動とあまりに鮮明な幻想。それに耐えられなくなりそうになり、生命の危機を感じるような畏れを抱いた時にその曲の名前が思い出されてようやく今その時の日常に落ち着くことができた。そんな経験はよくした。

例の写真はとても美しい写真であるから今も観るほどにその魅力に打たれるが、当時の感覚で見ることはかなわない。

何が変わったのか?
コンテクスト(時)が変わったのと、自分の経験(記憶)、言葉、感性、感受性の変化によるものか。
それは当然、音楽に対する趣味も変わったし、昔あんなに良いと思っていたのに、という感慨にひたることはよくあるものだ。LPなどを手にしながら。

これらのページをずっとめくってみて、かつてのその少女のような強い感情を呼び起こすようなものは、ないのだが、鑑賞するうえでは、いずれも優れた作品ばかりで、それを前に充分に時間を費やすことはできる。

そのある現実の切り取りがアフガニスタンでありそこが王国であったころの光景であろうと、特別それで何か興味をそそる物ではないし、珍しさとか変わっているとか名状し難いものを前に判断中止で宙吊りになってしまうとかいうことはない。内容的にも形式的にも。もう何かこころをかき乱すような未知のものなど恐らく何処にもない。

しかし、よく見れば見るほど良い写真集であることが分かってくる。
何をもって良いとか悪いではなく、まず良いものであることが分かるというものだ。
あえてその理由などをでっち上げる気持ちになれない。
ある意味、これらは写真的でないように思える。

被写体たちがみな構えてはおらず、決定的瞬間であることは分かるが、みなが自然でいつもこうしているんだろう、こんな感じの人なんだろうということを研ぎ澄まされてはいるがそれを優しく伝えている。だから表現というような強度をあまり感じさせない。
かといって、わたしの日常のコンテクストにスポッと入り、理解されてしまうほど安易なものでは決してない。一枚一枚の奥行が広く、畳まれた時間もとても濃い。
美しい。

これらの感想がすこしでも述べられるのは、まだ先だ。


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