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2014年4月16日水曜日

ドガ ~ 外が嫌い?


以前、印象派について書いたあと、すぐに気になったことがあった。
印象派の画家たちは、絵の具とパレット、絵筆を持って、崇拝する自然ー外に向かって出て行った、ような事を書いてしまった後、そうだ、ドガは外に出てない、ということに気づく。

しばらく気にしていたのだが、すっかり忘れていた。

後期印象派のスーラならともかく、モネやルノアールの友達のドガである。
「光の戯れ」よいフレーズだ。(ドビュッシーの「水の戯れ」が自然と流れてくる)その戯れを捉えるのは些か室内では心もとない。

そこで、画集を久しぶりに出して、ドガが何を描いていたか確認することにした。
すると、そうだ、馬も描いていた!思い出した、馬もいた。
馬は、外にいる。
室内にわざわざ馬を連れてきて描くのは無理である。
走れない。
静止した馬を描くならともかく、ドガの馬は走っている。

しかし、馬だけである。他にもあるかも知れないが、多分馬は例外的な題材であったかも知れない。
というのも、馬の絵以外はすべて基本的に室内であった。
例外というものは何にも存在する。

だが、さらにゆっくり見わたすと、ドガは印象派のキャッチフレーズである「光の戯れ」を描いている節が無い!?今更気付いた訳でもないが、再確認すると少しばかり驚く。
ドガは印象派ではピサロの次に展覧会に出品している中心人物である。
これは「光の戯れ」という美しいフレーズは彼らに対し使わないほうがよいかも。

では因数分解すると、何が項として取り出せるかというと、「瞬間の動作」か?いや、無生物も含めると、「瞬間の運動」となるか?
これなら、馬も問題なく入ってくる。
部屋に入らなくとも。

ということで、ドビュッシーの水の戯れが好きなので、印象派でも光の戯ればかり強調してしまった気がするが、「瞬間の運動」を捉えたとすれば、光の瞬きも入ってきてモネたちも悪い気がしないはずだ。

まずは以上、です。

ついでにもう少し鑑賞して寝ます。

やはりドガと言えば、踊り子だ。オペラ座の。
大変微妙な動作がここには伺える。勿論、カフェのお客の姿も同様である。
例えば歴史画のような、モニュメンタルなドラマチックで白々しいものではなく。
まさに写真に撮ったスナップショットばりの何気ない切り取りがある。
この動作の妙こそドガの魅力であり革新的なものではないかと思える。
いや、そんなことは誰もが言っている、という声がすぐに聞こえるのだが。
1度、先ほどのコンテクストの中で整理してから眠りたい。

「瞬間の運動」というのが、ドガーモネを繋ぐにはよいが、ここでは取り敢えず「瞬間の動作」に置き換えて考えると、よりドガの狙いが鮮明に浮かぶように思える。
つまり、ドガは健康的なキラキラする表面的な瞬き運動よりも、構造を伴う微妙な動きの探求により魅力を感じていたのではないか。だから外はもともと嫌いなのに(嫌いなのはわたしか?)馬は別格だったのかも。踊り子ーヒトだけでは物足りず。異なるダイナミックな構造体である馬も描いてみたいな、と思ってもおかしくないし一貫性もある。

今夜はこのへんで、おやすみなさい。








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