最近、写真展によく行くことがあったが、やはり良い物を見なければいけない、とこのメメントモリを見て、つくづく思った。
切るところが違うというだけでなく、絵そのものの次元が違う。
その写真家の写真は彼の言葉通りのものである。
「乳海」の章にある「あの、ヒトの群を見たとき、後光がさす、とは、朝日によって逆光されたヒトガタの輪郭が輝くのを言うのではないか、と思いました。」
この写真など、藤原新也だからこそ撮れる写真だと思う。
バーン・ジョーンズが藤原の言葉を理解したなら描けそうな絵だ。
朝日の中のこれだけ多くの群像。
上の言葉の元ではじめて掴まれた画像だ。
もっとカラッと白んだ昼空の中に後光にくるまれた人々を撮った写真家に東松照明がいる。
どちらも、光が何であるか知っている。
光を的確にとらえている。
光が主題化している。
この光のトーンこそがこの言葉を見事に実体化している。
「ありがたや、ありがたや、一皮残さず、骨の髄まで、よくぞ喰ろうてくりゃんした。」
三途の川とはこのようなものかと想うオレンジに静かに暮れる川面に、人骨とそれを啄ばむ鳥二羽の黒い影。
二色だけで描かれた寺の襖絵にも見える。
「眠島」から
「植物は偉大な催眠術師だと思う。」
この緑の抑えたトーンのやわらかで優しい光はまさに天然睡眠導入剤だ。
起きている必要性を忘れる。
植物の生に誘い込む写真。
「いねむりの中にも、覚醒がある。」
眠っているときの覚醒の写真が撮れるのは藤原新也以外にいるだろうか?
ベッドの横に置いておいた夢日記に記述しようとして出来なかった光景を思い出す。
「家にも体温がある。」
藤原の写真にはその場所の体温が写実されている。
どれも精確に。
他の写真家はその写真家独自の温度設定を写真に施す。
奈良原一光は彼独自の温度で統一する。
藤原は一枚ごとにその場所の温度を移す。
あたかも、そこから採取したかのように。
続きます、、、。
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