AdSense

2014年4月30日水曜日

メメントモリ -3  蝶翳~紅棘~天鏡

蝶翳~

「猫は漬けもの石である。」
この写真集は、すこぶる強力なコピー本でもあります。
これも、何にも言えません。
バカボンのパパに何か言えますか!
というくらいのレヴェルです。

「よく気をつけて見ていると、足もとに、いつも無限の死がひそんでいる。」
死はこの国では探さないと見つからない。
葬式も家族葬でなかなか表に出ない。
お別れの会?は普段着を要請される。
死を何故隠すのか?
死人の顔を何故見せないのか!!



紅棘~

「南の午後、夏、一匹の蠅がわたしの体に影を落として二時間ついてきた。」
一面緑の叢。
蠅の二時間とはどのくらいの時間なのか?
匂い立つ緑の叢の中に時間等というものが果たしてあったのか。
「わたし」という運動体ー異物によって時制が生じた。
「影」の出現とともに。

「歩いていると墓場を巡っている気分になる街がある。そんな街の住人は、死人のようにやさしくて、めんこい。」
確かにあります。
田舎にあるかというと、そうでもない。
都会に残っているかというと、そうでもない。
でもふとしたところに、いまもみつかる。
それは、如何にも、といったところには、ない。
わたしの場合、背中に感じるような場所。
あなたは?

「ひとがつくったものには、ひとがこもる。だから、ものはひとの心を伝えます。ひとがつくったもので、ひとがこもらないものは、寒い。」
わたしがものに夢中になるとき、それは、それにこもった作者の心に共振しているからだ。
わたしがMacに心奪われるとき、スティーブ・ジョブスの理念に共鳴している。
機械による大量生産を経ても、それは消えない確かなものである。



天鏡~

「あの景色を見てから瞼を閉じる。」
そんな景色は恐らくは、何処かで見ているはずだが、思い出せない。
この写真を見ると、ここは、あそこだと解る。
藤原新也はそこを写真に撮ってしまった。
彼が死んだら真っ先に逝くところなのだろう。
写真で見てきたから迷うこともない。

「かつて標高四千メートルの、これ以上青くしようのない真青な空の下で暮らした。あれ以来、下界に降りて、いかなる土地に行っても空が濁って見えるという宿業を背負ってしまいました。」
究極を知ると、すべては中途半端になってしまうのですね。
中途半端な地平に垂直的なベクトルを探すのみです。
出家するのでなく。どこへ移動するでなく。
このままからそのままに。


彼の言葉がすべてそのまま「光画」と形象しています。
「言葉」が画像となるとこうなる、というものをまさに、見ました。


0 件のコメント:

コメントを投稿