イノセンスを観た。
かなり前に観たはずだが、全く覚えていなかった。
であるから、新鮮な気持ちで観ることが出来た。
映像のディテールの描かれ方が過剰であった。
プレラファエル派の上を行く充満する描き方だ。
しかもappleseedよりもしっくりする空間だ。
画質が宗教的である。
人間が常にネットに繋がっているーーー。
確かにわたしもiPadを持ち歩いている。
iPhoneがないと普通の生活に支障をきたす。
子供にもGPS機能を常にONにした携帯は持たせている。
人間がサイボーグ化していくーーー。
確かに物質的にも身体的(無意識的)にもサイボーグ化している。
別に端折ってチップを埋め込むことはない。
歯医者で治療を受けインプラントでも埋め込み、コンタクトをし
自転車に無意識に乗っていればバトーまであと少しだ。
ここに再生医療も入ってくる(はず)。おお、STAP幻想!?
人間において外部情報系が確実に内部情報系より巨大化した。
つまり文化情報はDNA情報より強大となった。
すべてはことばの獲得から始まっている。
文化という外部(都市空間)にそれを構築した。
大脳新皮質、前頭葉の発達(相互照射関係)が成り立つ。
生後獲得する情報の方が多いため、外部に延長した身体性に親密に関わり易い物ーiPhoneなどで容易にやりとり出来る。
そして、Cloudに全てを預け、必要とあらばそこから引き出すようになった。
個の中身は空っぽの端末と化す可能性、方向性はある。
しかし文化の中から無意識的に獲得された身体性。
これはある意味、非常に堅牢なものである。
この映画では、”ゴースト”と呼ばれる。
いかにテクノロジーによるパーツが肉体と置換されていようと身体は確かな時間性を保持する。
それを精神と呼び変えてもよいか?
ことばの総体より遥かに大きな領域である。
ここではかなり明確に身体性について掘り下げられている。
そのひとつ、その発展系としての電極を挿して相互に繋がること。
これはすでに脳科学で細かく研究・実験が行われているが、そのインプット・アウトプットのリアリティーは十分感じられるものだ。
繋がれる対象は恐らくなんでもアリだろう。
繋がりたいものも3Dプリンターでどうにでも作れる。
自分ひとりで大袈裟なサイボーグになるヒトも近いうちに出てくるはず。
だれもがすでにサイボーグであるが。
そして「人形」。
人間の美しさをギリシャ彫刻のような理想のプロポーションに型どり、中に何かが込められる余地を残した存在。
その空洞を持った完全体として、この映画にあっては、それは「犬」であったり「子ども」であったり「人形」である。ことばで疎外されていない象徴としての他者。
ことばの要らない、この愛おしさ。
すでにとうに身体化している他者。
廃墟に人形は似合う。
ポンペイにディオニッソスの一際美しい像が相応しいように。
もはや何にも繋がる必要性のないスタンド・アローンな存在。
やはり一個だけで充足している人形。
欠如感も過剰もない、そのような時間に触れたい。繋がりたい。
という気持ちを満たすものとして、それらは在る。
自分にないものとして。
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