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2016年3月28日月曜日

美の翳りに寄せて Ⅱ


要するに、如何に怪物性を失わない、イデアのフィギュアが描き出せるかであろう。
かつては聖母像であったもの。
グリフォンでもあったもの。
、、、、、、、、、であったもの。
手懐けられないもの、、、。
生きているもの。
人格化を撥ね退け続けるもの。


今、何を見ても「写真」の見方である。
「写真」が尽く既視感を産み落とす。
どんな光景も「写真」で観た光景に思える。
「写真」にわれわれは知育されてきた。

ここにおいて、「写真」から逃れたフィギュアの創造は可能か?

アンチヒューマンは稚拙な方向しかない。
これは、余りにもありふれた。
ネオヒューマンの方向性が残るか。
実際、フランシス・ベーコンがこれだ。

このネオヒューマンの範疇に、高い抽象性を抱え持った(前)思春期の少女・少年を方法的に主題化した物はどうであろう。
人間としては、最も空っぽの時期である。
これから、人間を選択し始める状況にある。

この潜在性。
まずここが肝心である。
充分に抽象的な場所である。
ここにこれまでになかった物語が挿入できないか?
つまり、もはや人間ではない変身したもの。
空っぽなのだから、何でも入るはず。
今差し詰め、念頭に置いているのは、先日観てきた児玉氏の絵である。
ベーコンの絵とは、変身の次元は異なるが。
今後の展開は注目したい。

そこに動物にはならないが、人間でもない意味のない頭部が析出する余地はあろう。
潜在的な生成の場として、この(前)思春期の時空は充分活かせる。
アーサー・C・クラークの、「地球幼年期の終わり」のような少年・少女の変態では、、、
あの両親たちを圧倒する異質極まりない身体たち、、、。


そこにおいては、もはや人間の顔面―表情は失せ、身体の頭部があるのみである。
未来のイブという完全に市民権を得たサイボーグ(アンドロイドか?)ではなく、すでにデジャヴュに塗れたパタンから脱した動き―平面性―色彩―多面化(ベーコンの場合は3面)―枠などの方法により、新たなフィギュア生成は可能であると見る。
いや新たにではなく、純粋なフィギュアか。
純粋で自然なフィギュアである。


どうであろうか?

こう言ってみたわたしにも、想像はつかない。
だが、非常に刺激的なテーマである。





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