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2016年3月24日木曜日

児玉 沙矢華 展を観る Ⅱ


昨日、帰宅時に駅で偶然、児玉 沙矢華 展に遭遇し、11点ばかりの絵を観ることができた。
如何せん充分に観る時間が取れず、その感想をNew Orderにて述べたはよいが、その時の自分のコンテクスト上での印象で語っているため、記事をアップしてから、気になる部分がいくつか出てきた。
今日調度、またギャラリーのある駅近くまで行く用が出来たため、ほんの少し足を伸ばし、観てみることにした。

大分以前、バルチュスギュスターブ・モロー展を二度見に行ったことがあったが、それ以来のことである。


児玉 沙矢華という画家はプロフェールの解説によれば、若手のなかで、賞もすでにいくつも獲得し、特に将来を嘱望される存在として注目されているという。

まさに、知る人ぞ知る、というところか。


さて、昨日帰りがけに忙しなく観てから、気になっていたことがある。
「等閑の境界、多重するズレ」という絵が、制作の時系列上かなり前の絵ではないか。
つまり、その他の鏡(ガラス?)の入った作品群がそこから出てきた、または、単に新しい形式として制作されたのか、という懸念である。

更に、その「ガラス系」の絵で、2人の少女が出てくる「青空の空隙」という特に注目して採り上げた絵であるが、それについて書いているうちに、手前にいた少女の視線は、穴ではなく、彼女らを見ているこちらを窺っていたのでは、、、という点だ。
この二点を確かめたくて、また来てみた。


昨日なかったのであるが、今日はそこに展示されていない絵画のスライドがヴィデオパネルで見られるようになっていた。
そのため分かったのだが、予想通り「等閑、、、」はガラス系よりかなり古い作品であることと、「等閑、、、」がシリーズ的に、同時期に何作も描かれていたのだった。作風は同列のものである。

そこにはガラス系に見られる、側方と下からの鏡(ガラス)の反射を介した正面からの同時描写はない。
しかし、それより興味深い遠近法の圧縮による濃縮空間が創出されている。
わたしは、この原点?からのもうひとつの展開を期待したい。
別にそれが系をなす必要は無く、単独(単発)の絵画でも良いと思う。
この「等閑の境界、多重するズレ」に、充満する空気は面白い。
救われない幼少期の無限反復を想う。

そこから、思春期特有の不安の色を宿し夢想に耽るのガラス系(勝手に言っている(謝)がある意味必然的に地続きで出てきているのか。
いや、それはそれ、であろう。
異なる方向性もあれば、時間性に囚われず、垂直的な展開もあってよいはず。

そちらの作品も見てみたい。
「等閑」に拘る必要はないが、この作品の方向性をもっと極められないか?



もうひとつの方。
「青空の空隙」の手前にいる少女であるが、やはり穴は覗いていない。
視界から言えば、見えてはいるだろう。
だが、明らかに自分たちを視野に入れているわれわれを意識し、こちらを窺っている。
この娘にとっては、穴よりわれわれの方が、興味深い異物であるかも知れないのだ。
何れにせよ凝視するというほど、鋭い視力は発動してはいない。
ただアドレセンスの只中の自分を写す鏡に、空隙を見つけ、同時に自分を見る他者にも気を惹かれる。それは誰にもある(あった)はずで、わたしにも記憶がある。自分の内界を探求し出したら他者に出逢う、そんな瞬間。


確かにじっと眉を吊り上げて(それはないが)、穴ばかり凝視していたら、発狂してしまう。と言うか統合失調症になる。


人が何かを選択し出す、直前の段階の謂わば「性的空白期」に創造の焦点を当てることは、確かに有効だと思われる。
性の選択。親の選択。生まれる選択。を自らの意思でし直さなければならない重要な時期に当たる。
その過程における様々な風景があるはずだ。


しかし、幼少期の心象はもっと普遍性をもち得るのでは、、、。
ここにおいては、昨日と変わらない。


今日は、「等閑の境界、多重するズレ」をじっくり観てしまった。























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