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2016年3月29日火曜日
見えない重力を描く
同じ絵を数回観に行った後の感想である。
何故引っかかって気になり見に行ってしまうのか、その点について。
話題の絵だから見に行くのではない。
よく知っていてお気に入りの画家の作品だからでもない。
たまたま偶然に出会った絵である。
作者も知らなかった。(勿論、今もそれらの作者という以上のことは知らない)。
だから先入観もない。
とは言え一度見れば、その画題やモチーフ、形体・構図構成・色彩などからいろいろ連想が蔓延るのも自然である。
知識(外部情報)との照合や確認をついやってしまうきらいもある。
それをわざと促す類の作品にも出会ってきた。(単なる流行りものだったりする)。
だが既知の徴(コード)から、意味や価値を無意識的に拾おうとする以前に、その作品を在らしめている潜在する何かに少なからず惹かれてしまう事もある。
紋切り型の作品だとか、単なる象形に過ぎない無自覚なスケッチだと知って、足早に過ぎ去るだけの事がいかに多かったか。
既知のものを確かめにわざわざ足は運ぶ程暇ではない。
やはり未知の何か。納得して片付けきれないものを感じるから観たいのだ。
ただその絵が気になるのだ。
何故か好きな絵だとも思う。
それで複数回見に行ってしまうとなれば、そこに何かあると思えてくる。
今回気になったのは、忘れていた感覚を思い出しに行ったということもある。
忘れ物の引き取りである。(わたしは最近、何度かやった)。
やはり、絵という平面はわれわれの内界から何らかのイメージを引き出す契機となる場であるとまずは言えよう。
記憶と連結し、それを吟味・更新・編集する場ともなり得ると。
実際われわれはそれによって、生を反復していると言えるし、差異を生きていると言える。
また、絵そのものへの興味、その方法、元となるイメージ、思想が気になってもくるものだ。
創造的な絵は少なからず、見えないものを可視化する。
呼応して不可避的に見えないものを見ようとしてしまう。
それは構造なのか。
われわれは、その絵の指し示す事象が見えてしまう。
それが何であれ、そこに重力がある。
同時にそれは引力であり、自然の摂理のように惹かれてゆく。
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