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2013年9月17日火曜日

未来派の画家~ウンベルト・ボッチョーニ

未来派 
*未来派の画家にはウンベルト・ボッチョーニカルロ・カッラ、ルイージ・ルッソロ、ジャコモ・バッラ、、ジーノ・セヴェリーニらがいました。
*未来派の理論的要は詩人マリネティでした。マリネティは「運動力学派」を名乗らんとしたが、結局「未来派」に落ち着きました。印刷物を使い広報運動にも力を入れ、文学、音楽、美術を巻き込む芸術運動を展開しました。

*未来派の誕生の背景には、機械のダイナミズムにいち早く気づくミラノ工業都市、古典物理最後の都市イメージがあり、それらはことごとく未来派の画家たちの画題の中にも顕著に表れています。
*喧騒。動揺。輪郭。振動。潜伏。入射。流束。胎動、、、。

*先駆者としてインスピレーションを与えた物理的根拠に、エドワード・マイブリッジの連続動態写真さらにジュール・マレイのクロノフォトグラフィがあげられます。

*すべての存在を時間の矢に向かうエネルギーと捉えたエントロピー理論
*そして哲学ではベルグソンの持続の理論。
*宇宙物理では霧箱の発明に宇宙線の捕捉もなされ。

*もはや実体のリアリティは運動力学に求める他なかったのです。

*速度の美によっていっそう豊かになる美。

*印象派にとっての「馬」はリンゴと基本的には変わりません。しかし未来派にとっては[ある速度で移動―運動体としての馬]以外の何物でもない。速度の描写という新しい表現方法、美術にとっての新しいパラダイムが必要でした。印象派によって解体されつつあった輪郭はすでに粉微塵となります。


未来派を代表する画家・彫刻家としてウンベルト・ボッチョーニをご紹介します。


ウンベルト・ボッチョーニ
1882-1916


マルクス主義のアナキスト!
ジャコモ・バッラを(師匠)に、親しい友達はジーノ・セヴェリーニで一緒にマルクスとニーチェを読む。
ボッチョーニも理論家であるが何よりも詩人のマリネッティ(未来派宣言)の影響が大きいものでした。

「戦争は美しい!」
「戦争は世界で唯一の衛生学である」
「唸りを上げるレーシングカーはサモトラケのニケよりも美しい」
「攻撃的でなければ傑作とは言えない」

ボッチョーニの絵は造形的には後期印象派を継承し、スーラの色点に渦巻く運動概念を加える。すべての面を塗り込めたセザンヌのような絵もある(初期)。彫像は壊れたガンダムのように完璧だ。彼は速度と急速な変化そのダイナミズムを追い求めた!(しかしなかなかスタイルは定まらずにいた)
技術は素晴らしく高い。(学生時代は凡庸だったと言われる)

性格は「蘇生したナポレオン」と親友のセベリーニに評され、自己中心的で野心的で激しやすく複雑で気難しかった、そうです。
「、、、この世は新しい美、つまりスピードの美によって輝きを増した。、、、われわれは戦争を賛美する。、、、」と言うマリナッティのもとボッチョーニ、カルロ・カッラ、ルイージ・ルッソロは未来派画家宣言の草案づくりに没頭します。ボッチョーニは華々しく劇場の舞台で完成したそれを読み上げるのです。
他に詩人や音楽家を巻き込み、彼はようやく自分のやるべきことと制作上のビジョンが確立します。
「古代ローマの栄光を飽きもせず追いかけている芸術家たちのひどい怠惰にはうんざりする。」
未来派はミラノで大展来会が催され大成功を納めますが、がパリで平行してキュービズムが起こっていることはまだ知らないでいます。
大慌てでキュービズムも吸収し、パリでも果敢に展覧会を開いてしまう。広報活動、拡散の宣伝を打ちそこでも成功を得ました。

クリムトのウイーン分離派やアール・ヌーボーもすでに大きな影響を与え始めており、ボッチョーニもその影響は無視できなかったはず。彼の作品には分離派の影響も見て取れます。また物理的な運動に集中してばかりではなく、精神的な詩情も巧みに造形しています。(精神状態1~3など)さらに物体の時空間の移動というより物体そのもののフォルムの運動に対し深く傾倒している点が他の未来派の画家と一線を画するところです。

彼が彫刻を手がける頃はすでに美術館では未来派が常設されるようになっています。それ以降一人での作品展示会を開き、過激な政治的活動をし投獄されたりもしています。そして、従軍を志願しロンバルディア義勇軍自転車人隊に配属されます。この時期がボッチョーニにとって最も充実した幸福で実りある時でありました。常に危険がつきまとうことに高揚して活き活きとしており、「戦争は美しく、素敵で、恐ろしいものだ。山の中では、それは無限との戦いに思える。」と云い残しています。しかし皮肉にも彼は実際の戦闘中ではなく、軍事教練の場で大好きな乗馬中に馬から落ちて死にます。

「フォルムの中のフォルムすなわち持続をそっくり出すことが出来た。」(マリネティ)

ボッチョーニが33で死ななければ、「量子力学派」を生んでいたか?

享年33歳。
空間における連続性の唯一の形態



精神状態Ⅱ:行く人







2013年9月16日月曜日

リヨン派から

プレラファエル派の先駆け的存在と言われていますが。古都リヨンで活動。
科学と実証主義の流れにさからい、カトリック復興運動とフリーメイソンの影響下で生まれた特異な神秘主義の画家たちです。この中にはジョン・エヴァレット・ミレーの敬愛したシャヴァンヌもいます。
近代化の中で取り残された画家であり、1980年代まで埋もれていたそうです。その中から1人、代表としてルイ・ジャンモについてご紹介します。


ルイ・ジャンモ
1814~1892 
かのアングルの弟子だそうです。代表作は「魂の詩」という連作で、油彩18点による第一部と第二部の16点の素描によります。20年以上費やした労作です。

まず様式美を追求していることが分かります。個々の人物の描き方は画集を確認した範囲ではアングルのように筆跡を完全に消すほどのマチュエールになっているかどうか分かりません。ただ非常に精緻に描き込まれていることはよく分かります。この点ではアングルの流れをくむ、プレ・ラファエル派の先駆的存在という位置付けも了解出来ます。

個々の作品に少し当ってみますと、「聖なる生成」などでは羽の生えた天使の群れが整列し、空を飛び、非現実的な空間構成で成り立っています。木の葉の生い茂る中からやはり羽のある天使たちが出てきたり、入っていったりこの辺はかなり自由です。「魂の移行」 ではもう白い衣の羽を生やした天使たちが画面の中を溢れんばかりに群れ飛んでおり、生贄の様な男性が一人、下の方で鳥に内臓を突かれております。「天使と母親」まさに天使と母親の図であって、それ以外に何とも説明がつきません。「春」等は羽をつけた天使がおらず、絵そのものもプレ・ラファエル派を連想する、というよりプレ・ラファエル派の誰かの絵です、といってもそのまま通ってしまう絵と言えます。幼い少女2人が丘の上で小さな花を摘んでいます。右上四分の一の空間は大変深く広大な空間が見降ろすことが出来ます。「天の想い出」では、また宙に浮かぶ羽があったりなかったりする天使たちのオンパレードです。 
天使が出ない絵では、プレ・ラファエル派的な写実画に「生家」等がありますが、その他は不吉(ものによっては不気味)な寓意画とでも呼べるものです。「悪しき小径」「悪夢」「純潔」「太陽の光」等。一見乙女たちの精緻な写実画かと思うとその顔は、何かマインドコントロールを受けた、まともに現実など見てもいない、虚ろな顔、まるでマスクの様な表情なのです。「麦の粒」はまさに男が憑かれたような表情の女性二人を前にして何やら洗脳を進めているような図です。それは顔の表情に留まらず「山の上で」のような体のフォルム自体が山を駆けのぼる姿をしていても全く動勢を感じさせない、実際は走っておらず僅かに宙を浮いて移動しているかのようなスタティックさが全体の特徴です。
「魂の飛翔」ではついに山の上から乙女2人が宙に飛び立ってゆきます。フォルムと絵の構図・構成からその場面はそれと受け取れますが、物質的な想像力に訴える運動感覚は微塵もなく、この世の原理とは全く次元の異なる力(霊力)によって浮かび上がる姿と言えましょうか。未来派の対極にいた画家であったことは間違いありません。

一口に言えば、プレラファエル派から生気をさらに吸い取り、不吉な寓意性を加え、スタティックな様式化を進めたような絵画群です。(ある意味内燃機関を否定した彼らであったからには、人物はみな何か他の力でことごとく動かされていたのかも知れません。傀儡のように。)

「悪しき小径」で少女たちを小径の脇で待ち伏せている気味の悪い人物たちは教師たちだそうです。彼らは所謂科学と実証主義の象徴として表されています。勿論、画家にとってそれは排除すべき悪でした。 その産物として見ると首尾一貫した主張をもった画業であることは納得できます。

  「悪しき小径」                                      ^



2013年9月13日金曜日

相模原芸術家協会展より

48人の48以上の作品が展示されておりました。
時間的にじっくり観ることが出来ず、目に飛び込んだ作品のみ簡単にご紹介?します。
かなり言いたいことを書いております。どうかお気になさらないでください。



1.遠藤彰子
「春に舞う」P50:比較的小さい絵ですね。大きな丸―赤い夕日を包むような構図で、桜の木が左右からのび広がり、枝の上には左右2人ずつ大人とも子供ともとれるノスタルジックな人物が乗っており、左には猫も寄り添っており、皆一緒に大きな赤い夕陽を恍惚として見入っています。
木の下はとても広い場所で、一面にやはり花が咲き誇っています。その中を人々が散在してみな夕日に見とれています。自転車の人物もお約束で混じっています。下の部分を引き締めるように桜の花が輪郭に沿って小さく描かれてゆきます。この大小の差が空間の遠近法をかなり加速させています。ですから小さな空間でかなり広い世界が現出しています。桜の花は日本画の伝統的な描き方に通じるような表現です。何をおいても人物の量感と風合いが良いですね。とても魅力的です。


2.鈴木英子
「美わしき日」F100:そこそこの大きさですね。見やすいです。F100は。もう一目で、ポテロ+ルソーという感じの絵です。こういうスタイルで押している作家さんなのでしょうか。自身の様式をひたすら追求しているという作品です。少女とジャングルだったか。大きなポテロ少女がブランコを中央でしていて、その周りを植物が囲んでいたと思います。きちっと計算された構図で、無駄は見られません。色彩はかなり抑制されており(トーンが抑えられており)、ルソーの様な原色などの色は使われていません。そこはかなりモダンな落ち着いた感じを受けます。かなり洗練されたグラフィカルな印象を受ける絵です。


3.藤田弥子
「アツイヒ」S80:見やすいサイズです。コラージュ表現ですね。浴室で浴槽に男性が目を閉じて入浴しています。いかにも暑そうな透明人間というか入道の様な内面を表すような像が暖色の輪郭線で重なるように表現されており、猛暑の中熱い風呂でスッキリしようと今ひたすら頑張って暖まっている様子です。
バスタブの外はプールがダブルイメージされており、そこに男性スイマーが泳いでいます。水の感じからかなり冷たそうです。入浴中の男性が浴槽から出た後のアーっすっきり、という予感(近未来)を表現しているととれます。
アツイヒです。


4.戸田みどり
「Living Waters XI 生ける水」変形:80号くらいのスペースはありました。日本画です。白い活き活きした水が白―光で表現されていました。配色の妙で生ける水を浮かび上がらせていたように記憶してます。日本画の平面性を色面構成的に塗り分け生命感―動勢を出すにはこの白い光(マットな)の感じが有効だと思いました。


5.四谷明子
「PLATEAU」変形:100号くらいか。これはまさに変形中の変形です。通常、長方形または正方形のキャンバスの中で構図を工夫して対象を描きこむと思われますが、この作品は2001年宇宙の旅のモノリスの様な直方体が果てしなく続く荒涼とした死の地平に二つ刺さるように建っており、その一つの(こちら側の)直方体がキャンバスの上にはみ出ているのです。文字通り。キャンバス作りが大変でしたでしょうね。枠組みもそうですが布張りはもっと大変だったはずです。ここまでして枠を出っ張らせる必要があったのか?
よほど作者は直方体を強調させたかったのだと思います。絵画空間(疑似空間)からわれわれの3次元空間に浸蝕しようとするモノ。死を象徴するデコボコの暗黒の地平の底から生えてきた角柱が新しい次元に延長する動きでしょうか。力でしょうか?


6.原聡美
「呼ぶ声」M80:典型的なセーラー服を着た女子高生がひとり画面全体を使って右を下にして横たわっており、目は閉じられて手と素足は詩的なポーズをとっていたと思います。今一つポーズや表情がぎこちない感じがしました。特に腕の描写など。後数回、少女の全身ポーズを描いてから制作に臨んでも良かったように思われます。
少女の上には翼竜の骨が浮かんでおり、地面には真っ白い花弁が沢山落ちており、後ろには真っ赤な花が毒々しく描かれ、死と性(思春期か)を象徴的に表現している寓意画という感じです。
何か高校の美術部を思い起こす作品でした。文化祭に出そうな。


7.廣戸節子
「部活はバスケ」F100:実はぼーっと展示スペースに入って、最初に目に飛び込んできたのはこの絵です。一瞬、展示会場を間違えたかと思ったのですが、他の絵を見てやっぱりここだ、と確認できました。これこそ高校の美術部の作品展示コーナーで見る絵です。きっとうんと若い人なのでしょう。ごく普通の女子バスケットボール部の生徒が部室のベンチに腰掛けている姿が描かれています。作品というより習作という雰囲気のものでした。作品にする前のエスキースの様な。かなり描き込まれてはいるのですが、無駄な線や色が残っており、全体に描き込みの統一感がなく、これを見ながら再度構図と形と色彩関係を整理して描くと、まとまった作品になったのでは、と思いました。写実画です。


8.手塚廣子
「時 2013」F130:これはビアズレ―まで自由なデフォルメはしていませんが、その世界を想わせるかなり毒を吐く挿絵的なモノトーンのイラストのような油絵です。かなり大きな挿絵という感じの。
黒絵の具を細いペンを使って、すべて一気に描いたかのようなグラフィカルな絵です。題材は小さな眼鏡をかけたというか降ろしてかけた、何を考えているか分からない非常に怖い感じの婦人で、デザイン的要素が強く様々な模様パタンと大きさの異なる同じ夫人がコラージュされて描き込まれており、充分にまとめられた作品となっております。このパタンで数多くの作品を描いてきた感があります。技術的には、こなれていますが、あまり馴染めないものがあります。そこが狙いか?

2013年9月10日火曜日

マニエリスムの画家 まとめ

地方分権から絶対主義王制がしかれるルネサンス後期16世紀後半。
宗教改革によるキリスト教の分裂、コペルニクスの地動説により聖書の宇宙創造神話が崩れ始める。ペストも流行り、画家たちも避難を余儀なくされる。
この混乱期に宮廷を中心とした文化が花開く。(イタリアを中心に)絵画の鑑賞も教会、広場、公衆施設から宮廷内で行われるようになる。
基本的にミケランジェロのマニエラ(手法)を変形させて描く、曲がりくねって引き延ばされた表現を特徴とする。また寓意を盛り込んだ晦渋な作品も目立つ。
彼らの関心は対象の正確な描写に留まらず、自らの様式を追求することにあった。
しかしすぐに模倣者たちの形骸化した作品に対し批判が集まり、マンネリズムと呼ばれるようになる。
20世紀マニエリスムは独立した形態であるという再評価がなされ、再び注目を浴びる。




ポントルモ
1494-1556
僅か19歳でミケランジェロから絶賛される早熟の天才。フィレンツェを拠点に、活躍する。反古典主義と言ってよい形体の引き延ばしや誇張さらに独特な豊かな色彩表現が見られる。繊細、優美な技巧的作風は彼の名を揺るぎないものにしている。デューラーにも強い影響を受けている。作品テーマは主に宗教画とメディチ家の肖像画である。物語風の形式の絵画も充分に成熟した手法を見せる。9歳年下のブロンズィーノを弟子に迎えるが、その才能から特に大事にし、フィレンツェのサンタ・フェリーチタ聖堂のカポーニ礼拝堂の装飾を2人で仕上げている。ポントルモはブロンズィーノを養子に迎えている。

十字架降下







ブロンズィーノ
1503-1572
メディチ家フィレンツェ公コジモ1世宮廷画家として活躍する。洗練された端正な作風が最大の特徴。宗教画、寓意画、肖像画を描く。技巧を凝らした冷艶な「愛のアレゴリー」等の作品が特に名高いが、ビーナス等数か所にに加筆され、後に修復によって当初の姿に戻った。そのあまりにも艶めかしい写実が災いしたものである。ポントルモを師とするが、初期の作品はヴァザーリでも見分けがつかないほど似ていたという。彼はポントルモの死によって未完で残されたフィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂のフレスコ画を完成させている。油絵、フレスコ画ともに達人であり、卓抜した技術力を誇っていた。詩人でもあり、ポントルモの死に際し読んだ詩は記録に残っている。

愛のアレゴリー





エル・グレコ
1541-1614
クレタ島出身。スペインで活躍する。マニエリスム期最大の画家。作品のほとんどが宗教画であり、他には肖像画が制作されている。エル・グレコ以外の誰のものでもない奇抜な構図と引き延ばされた人体、彼特有のあまりに鮮烈な色の扱い方が特徴。作品に対する報酬のトラブルも多い人であった。その作風と当時神格化されていたミケランジェロを批判するなど、その強い個性から宮廷画家は断念することになるが、宗教関係者や知識人からは強い支持を得た。セザンヌとエル・グレコを精神的な兄弟と説くフランツ・マルクの見解も興味深い。

受胎告知





アンチンボルド
1527-1593
ミラノ出身。動植物や果物、料理、書籍、道具などを組み合わせて表現される独特の「肖像画」で名を馳せる。ダリでも有名だが、彼の絵もダブルイメージを利用した「だまし絵」などと言われることもある。宮廷画家としてフェルナンド1世、マクシミリアン2世、ルドルフ2世と3人もの皇帝に仕え、彼らの趣味に応える形で、この極めて特異な作風が生み出されたようである。特異さでは此の後にネーデルランドに現れるヒエロニムス・ボッシュの作品の幾つかにも窺えるものである。確固たる地位を築いた彼であるが、死後急速に忘れ去られてしまう。その後20世紀シュル・レアリストらによりインパクトをもって再発見された。{四第元素}(「大気」「火」「大地」「水」)の連作など、いかにもシュル・レアリストの好みそうな先駆的な作品である。ヤン・シュヴァンクマイエルの作品にもその影響が見届けられる。

四季(夏)





2013年9月4日水曜日

BASHAR-2

「光の速度」
光の速度は無限である。
毎秒30万キロメートルというのは、地球人の物理次元で知覚できる限界。そのために定数となっているにすぎない。光の中の要素で30万キロメートルが物理次元で知覚できる限界だが他の部分がある。

いま地球人がフォーカスしている宇宙の部分は、光を部分部分において計算することはできる。しかし、科学者が意識そのものを方程式に取り入れない限り、それ以上の理解は不可能。

すべての原子はひとつの同じ原子で、同時にマトリクスとして具現化している。つまりホロニックなマトリクスとして。

一つの点はすべての他の点もその中に含む。
宇宙とは常に、情報がホロニックに配列されたもの。それが意識そのもの。

スーパー・ストリング理論の正確で素晴らしいところは、パラレル・ワールドを定義する数学の部分。

地球上でも意識が現実世界を創っていることに気づき始めた科学者がいる。


*この時期に物理学者(ブーツ・ストラップ理論)フリッチョフ・カプラ氏が述べていたこととかなり重なります。
特に、「ミクロコスモスのみならずわれわれの日常世界も安定したバランスによる振動が介在している。」「粒子は必ず他の粒子も含む。」「定数は一時的にしか基本性を発揮しない。より洗練した理論に進むとその定数は相関する全体に巻き込まれてしまう。」「素粒子をホロニックなマトリクスととらえている件。」「物質と脳のパターンの関係が鏡像関係にあるならば意識を数式に入れなければ成り立たないという件。」「部分は常に全体を内在している(デビッド・ボームを引いて)。」「パラレル・ワールドの存在に関しての評価。」「物事を分割しすぎた悲劇や、素粒子の数が増えすぎていることに関して異を唱えている件。」「基本粒子を作らないという基本姿勢。」等々。



「全体の無限な反映」

BASHARは常に個々の人間もこのように無限の持つ一面と説明する。

より強調または統合された行動を起こすとき、その無限、全体をより反映している。




「再度、物理次元でのワクワクのメカニズム
存在の波動が高くなるとワクワクする。すると同じ波動のものを引きつける。
その波動は意識において最も強く感じている観念によって決まる。

今の現実に対し、問題があれば自分が何を信じているかを確認する。
そこが変われば波動も変わり、現実が変わる。

これは物理の原理である。機械的にそうなる。

あなたの与える物があなたに返ってくる。という基本原理。




2013年9月3日火曜日

BASHAR ー1

今更なのか今こそというか最近個人的にとても気になり始めた、宇宙存在BASHAR について触れます。

公開チャネリングの記録から、
オーバーマインド:BASHAR  チャネラー:ダリル・アンカ

”BASHAR 1” 1987(株)VOICE 刊 (2~3も出ています)

BASHARが基本的に説いていることから幾つか。(他については次回に続きます)


「この地球の特異性」
いろいろな文明に出会ってきたが、これほど何に対しても制限・条件の多い文明ははじめてだ。このような文明に接触する場合、非常にデリケートに接しなければならない。
この惑星では、何千年もの間、何かを身につけるには苦しんで苦しみぬいて学ばなければならないという観念が充満している。
さらにこんなにたくさんの観念がひとつの惑星に存在していたこともはじめてだ。
自分と無限(自然)の間に細かい観念を置きすぎてしまった。細分化しすぎてしまった。そのため訳がわからなくなっている。(何故一生懸命、誰もが自分以外の人間になろうとするのか。)
それらを網目とするとわたしたちはその網目を破ることはしてはいけない。そのため、その網目の上にアンテナを出した人たちとコンタクトを取ることにした。


「あなたの現実はあなたの想念が作る」
現実とは自動的なフィードバックシステム。自分が今、一番欲しいと思っているものを見せる。あなたの中にあるものを反映して見せるために現実がある。

しかしその想うということが実は難しい場合がある。しかしそのままほおっておくと、否定の連鎖が生じ状況は悪くなるばかり。頭では分かっても、そう信じきれないなどは、頭と心が別だと信じているからであり、その定義付けを変えることが大切。心の奥底から肯定的な思いを巡らせれば100%その現実が実現する。例外はない。

あなたがたが意識的だろうと無意識的だろうと自分の現実は自分が作っている。

この数千年の間地球の人間は苦しまないと先には進まないと教えられてきた。いま、意識を拡張した別の在り方が内部からも模索されている。いま地球は変革期に入っている。

すべての苦しみ、痛み、病気は自然な本来の自分成ることに抵抗する過程で生まれてくる。

分離ではなくバランスをとった統合によって進化は進む。このバランスをとるのにまず「感情」が役立つ。知識と思考パタンと感情のバランスがとれること。


「時間は幻想であり全ては同時に起きている」
意識が物理次元に焦点を合わせるとき、時間と空間の枠に当てはめる。

あるのは現在の存在のみ。毎瞬、毎瞬、今しかない。

すべての人生はいま起きている。



「パラレルワールドでの生活」
誰もが同時に異なる次元に生きており、相互に影響を受合っている。イメージとしては、多面体を想えば良い。それぞれの自分はそれぞれの面であると。

過去世の生活。未来世の生活。別の惑星での生活。などすべて同時に送っている。(まさしくsynchronicity)


「ワクワクのメカニズム」
自分が自分である時の波動状態がワクワクの時ということ。ワクワクに沿って物事を進めれば努力せずにやるべきことを成し遂げることが出来る。創造的な波動の状態。

ワクワクの波動が必要なものすべてを引き寄せる。素晴らしい偶然が起きる(実は必然だが)。自分のやりたいことが努力なく成し遂げられる。

ワクワクと同じエネルギーをもったものに恐れがある。恐れは否定的な力(自分が魅かれるエネルギーを疑う力―否定的な定義付け)であり、それに見合った現実を引き寄せる。


「イマジネーションの重要性」
否定的な現実に遭遇した際、これを肯定的に受け容れることはできないかとイマジネーションを働かせる。これまでに教えられてきた事象に対する価値判断を捉えなおす。これは単に中立的状況で、ここからいくらでも肯定的状況を導き出せる。そのようなイマジネーションを常にもつ。

否定的な現実にあるとき、同じことを違う方法で学べないか、イマジネーションを働かせてみる。「ねばならない」社会の要請ではなく、自分に自然に流れ込んできたアイデアに耳を傾けよ。

退屈な状況は存在しない。退屈な意識は存在する。

混乱や困難を引き起こすのは期待である。こうあるべきという考え(古くからの教え)である。

宇宙でただ一つ一定なものは「変化」だけ。

自分にとって一番役に立つやりかたが、あなたのやり方。あなたが変化したらまたそれにあったやり方を選ぶと良い。やり方は人の数だけある。イマジネーションは常にそれを供給する。


「自分を信頼すること」
現在の自分を楽しめば愉しむほど、本当になりたい自分にすぐなれる。本来の自分となり、自分が統一性をもって自然の行動をとること。宇宙はあたたを見つけてサポート出来る。(本来の自分自身であることのお返しとしてすべての豊かさがあなたに返って来る)

変化はリラックスした時に一番起きやすい。

豊かさとは自分のやりたいときにやりたいことができる状況。

あなたたちはもともとすべてを知っている。今はそれを思い出す段階に来た。

罪悪感-自己否定が愛の反対語である。ほんの僅かな否定でも人格を抹殺することが出来る。自分の肯定できるところを信頼し愛すること。

わたしが言うことをあなたたちが身をもって証明してください。わたしたちはあなたがたが本来持っている力に気づく環境づくりに来た。わたしたちを決して頼ってはいけない。


「波動について」
この現実はすべて波動からなる。波動が現実化したものが物質である。
場所を移動すると波動も違っている。動きという幻想を創るために自分の周波数を変えている。動くとは固有振動数を変えること(動くから波動が変わるのではない)。周波数の変化は意識によりなされる。

自分自身でない波動は体験できない。(自分が発する最も強い波動が現実化する)

波長を上げるとわたしたちと顔を突き合わせて話が出来る。そしてやがてあなたがたもわたしたちのように、食べたり眠ったりする必要が無くなる。さらに波長が上がると、肉体そのものが必要なくなる。



「猫とは」
物質レベルから非物質レベルへの変化の象徴。
この両世界について良く理解している。


2013年8月29日木曜日

フランツ・マルクについての簡単なスケッチ

1880~1916

醜い赤ん坊であった。(父親談)

父は有能な画家。

勉強好き 内気で感受性豊かな少年時代を送る。

神学を学び、牧師を目指すが20歳で画家を志す。
父は才能を認めず反対する。

父の信頼はそのまま得られなかった。

不安と自己不信に悩まされる。
鬱病発症。

フランス パリで印象派と出会うが、影響を自分の芸術には活かせない。
動物画家ジャン・ブローエ・ニースレに出逢い、動物画に関心を深め。

父死去。
結婚を決心するが花嫁をおいて、パリに逃亡。

二度目のパリでゴッホ、ゴーギャンの絵に接し感銘を受け、ようやく自分の方向性を定める。
ゴーギャンのタヒチはマルクにとって動物となる。
動物園に通いスケッチを続ける。
色彩とフォルムの実験を繰り返す。

アウグスト・マッケに出会い親交を深め、励まされる。
芸術関係の人脈は広がり経済的にも基盤ができる。
充実期を迎える。
再婚。

カンディンスキーとの出会い。
自身の制作スタイルの基本が確立。
青騎士を結成。マルクは馬と青が好きであった。
2回の展覧会を行う。マレービッチ、ピカソ、ブラックの作品も含まれる。
フォルムの並置から混合へ。
キュビズムの影響が絵に表れる。

年鑑「青騎士」刊行。
マルク:ドイツのフォーブ
マッケ:民族芸術
シェーン・ベルク:音楽理論につて
などが寄せられる。

マッケ、クレーとともにパリに滞在。
ロベール・ドローネの色彩に魅せられる。色彩が構成上の要素になる。(色とフォルム分離)
フォルムの埋葬が進む。未来派的な運動が画面に見られるようになる。
死を免れない肉体から解かれ精神的なものへ向かう作業が抽象絵画へ。
しかし完全な抽象にはならずフォルムは変化しつつ残る。重なり動き。

戦争の予感に苛まれる。
絵に破壊のテーマも入ってくる。
戦争勃発とともに従軍。ロイヤル・バイエルン野砲連隊第一師団に配属。
マッケ戦死。(1887~1914)
戦場からのスケッチブック36点のデッサンでさらに今後のフォルムの展開を見せる。
志を半ばに、戦死。

死は「絶対の解放である」(マルク)
 

風景の中の馬  雨の中 二匹の猫 青い鹿 歓待者ユリアヌス 動物の運命 戦うフォルム 
 
黄色い牛

青い馬の搭