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2013年10月27日日曜日

アルタード・ステイツ~肉体的制約から解かれる



変性意識。

この映画のイマジネーションの元となっているものは、すぐに気がつきます。
ジョン・C・リリーのアイソレーション・タンクによるあらゆる感覚を遮断した実験からインスパイヤされたものであることははっきりしています。
まさに同じ装置を使っていますし。
タンク内を硫酸マグネシウムを加え比重を大きくした水で満たし、光と音を一切遮断した上、水温・気温も体温と同じ温度にしたところにヒトが裸で入り、所謂無重力状態にして、ボディーイメージのないところで起こる現象を検証しようという実験です。
ここに、リリーはLSDも使って検証を重ねています。
映画ではカスタネダのようにメキシコに行きキノコ(テングタケ)を使っていますね。

この時期、LSDと言えばやはり同じようにヒッピーに多大な影響を与えていたティモシー・リアリーがいます。彼はこのアイソレーション・タンクの有効性は認めておらず、もっぱらLSDによる実験を続けていました。(後にはAPPLEがパソコンを世に出してからは、コンピュータの可能性にかけていきます)いずれにせよこの50年代後半~60年代は、サイケデリックムーブメントの中で、変性意識の虜に多くの人がなっていました。

変性意識という状態とは?
多くの実験者が経験した幽体離脱。高度な宗教体験(至高体験)さらには異なる知的生命体との交信etc.多くの報告がなされています。


この映画でも意識や思考の原点、生命の源を命懸けで求め探求する主人公の生理学者の姿が紆余曲折を経て描かれていきます。その過程で友人の医学博士や大学教授の妻との葛藤を繰り返しつつ、彼らが薬の危険性などもあり懸命に止めるも聞かず彼は強引に実験を重ねていきます。そして細胞の記憶を遡るうちに彼の姿はついに類人猿に退化してしまいます。

実験室を出て、外で大暴れします。動物園に侵入し鹿を殺して生肉を喰らい、生血をすすります。


意識の遡行が単なる幻覚を生むにとどまらず、物質化をみたことで、自分の理論の正当性を確信し、それを証明しようとします。
それと同時にその時の生の快感と充足感が忘れられず、人類の思考の原点を探るというより、より強烈な生の実感を得たいという原始的(無意識的)な生命力に魅了されていく方向を辿ります。
もう半ば科学者としてではなくすでに内に潜んだ類人猿の血がそうさせるように。
実験自体の危うさに加え、夫の制御不能な方向性への危惧で周囲はさらに不安を高めます。
妻たちはのっぴきならない事態を察知し、今度は実験室で彼を注意深く見守ります。
すると遡行をはじめて二時間ほど経過したところで、タンクや部屋を吹き飛ばすほどのエネルギーが夫から光とともに激しく放出され、妻の捨て身の助けで危うく命を救われることになります。

そこではじめて、主人公はその探求の恐ろしさと虚無を身に沁みて認識します。
当初妻が彼に訴えた「わたしは迷いながら生の実感を求めている。でもあなたは真実のために魂を売ろうとしている。」がここで強く説得力をもって蘇ります。
しかし時遅く、もう元に戻れない身体になっていました、、、。

最後は妻の愛に救われる落ちは、同様のものを観た記憶があるのですが、それが何であったか思い出せません。
しかしある意味これが理想的な決着なのだと思われます。

SFXの視覚効果もこの時期(1980年)になるとパタンが出来つつあり、腰を抜かすような衝撃はありません。しかし演出力は充分もったものになっています。話の展開もスピーディで緊張感に溢れる迫真のSF人間ドラマです。

ドラッグによる識閾下の探求は一時期かなりなされましたが、芸術における成果は見られたとしても、学問的貢献ーパラダイムシフトするような発見はなかったようです。しかしテーマは誰もを魅了するものだと思いますし、ある意味生きるなかでの探求は少なからずこのような冒険を含みます。特殊なSF世界ではなく、普遍性を十分に持った物語であることは間違いありません。





2013年10月26日土曜日

2つのソラリス~タルコフスキーとソダーバーグ

タルコフスキーの映画音楽を担当してきたアルテミエフによると、タルコフスキーは人に心を開かないタイプの人間で、16年間も付き合っても親密にはなれなかったということである。勿論、その間、自宅に誘って食事を共にすることはあっても、月並みな会話を交わす程度であったという。

フィルムでタルコフスキーの顔、表情、姿や仕草を観て、その事がよくわかる気がした。
孤高の人である前に、孤独から逃れられない人のように感じられた。

詩情溢れる郷愁まさにノスタルジアにタルコフスキー映画はつねに色濃く染まっている。

「鏡」「ノスタルジア」はその最たるものだが、この「惑星ソラリス」もそうである。

やはり
4大元素とりわけ「水」がいたるところで満ち、滴り落ち、うずまき、潜んでいる。
ヒトや想念はその中から次々に立ち現れる。
まさに郷愁を帯びて。
時間・空間を何気なく横断する亡霊のごとく。

こう言ったら乱暴すぎるが、タルコフスキーのソラリスはほとんど舞台は「鏡」と変わらない。
少しばかり部屋の内装が異なっているくらいで。
それくらいタルコフスキーの4大元素は本質であって普遍的であり自然である。
ソラリス(プロメテウス)も地球もない。
どこにいようと意識のあるものは、想念を持ち、意思を働かせ思考することをやめられない。
そして夢を見ることを。

多分、電磁波と重力のあるところならば、タルコフスキーの描くものは皆同じ光景になるはずだ。
そのため、タルコフスキーの作品はどれも超越的で普遍的で傑作に成らざるおえない。

取り敢えずスタンスワフ・レムの原作「ソラリスの陽のもとに」をもとに作ったとは言え、同じ原作から撮られた映画と比べる必然性はない。ある意味、タルコフスキーにとっては、原作などあって無いに等しい。もともと線状的なストーリー展開を映像形式においてことごとく壊し本来起きている重層性、多元性、同時性を表してきた作家である。彼にとってリアルであるのは「映画」そのものであって、現実ですらない。否、彼にとっての現実が映画であるのか。プロメテウスの船内に自殺したはずの妻が現れようと、幼い日の自分が突然居間に現れようと、タルコフスキーにとっては日常である。

彼の意識は全てを包含している。

ここまで言ってしまったが、ソダーバーグの「ソラリス」もよくできている。
ブレード・ランナーにもよく似ている。

ディテールの作り込み。
物質性。
光線・照明の繊細さによる画像の単純化と質感の強調。
音楽の映像との高いレベルでの融合。
両方の主人公とも、うどんとラーメン(ヌードル)所謂、日本麺を食ってる。
主人公を愛する女性が片やクローン、片やレプリカント。両者ともある意味、ハッピーエンド。
どちらも傑作SFの原作がある。ブレード・ランナーは「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」
「2001年宇宙の旅」を含め、これらの3作はSF映画の3金字塔と呼ばれる。
(「ソラリス」は勿論、タルコフスキー版であるが)

これを続けてもあまり意味はない。

ソダーバーグ版はタルコフスキーの先入観があり、どうしても不利な立場にあるが、実際に観てその出来栄えは破綻の少ないよいものであった。

映像と音楽がよく溶け込んでいること。
セットの質感が統一されており、照明が画面を単純化し厳かな演出が成功していた。
ディテールの作り込みがプロメテウスの現実感を保証するに十分なものであった。
あくまでもタルコフスキーのリメイクではなく、レム原作のSFをもとにした新作と捉えて、ハリウッドにしてはアメリカ臭さも少なく、とてもよい映画であると思う。1回見れば十分であるが。
(ちなみにタルコフスキーはすべて3回から12回同じものを観ている)

これは、両者の映画に対する前提と焦点の当て方の問題で、タルコフスキーは謂わば宇宙の基本原理の下で存在を描くが、ハリウッドはある意味、自我レベルのラブストーリーに落ち着く。スケールは異なり、描き方は限定されるが、それでは軽佻浮薄な物かといえば、十分に存在における深みを問う作品になっており、ジョージ・クルーニーも良い仕事をしている。しかし彼の裸体像を入れる意味はどれほどあったものか?
しかし全体のもつ雰囲気の整合性はとれており、最後に妻が現れ「わたしたちは許されたのよ」と言う場面は、まさにリドリー・スコットがブレード・ランナー、ディレクターズ・カット最終版で抹消した部分に重なるところであり、いまひとつその部分が何とかなっていれば格調ある映画の一つとなっていたはずである。

だが、久々にハリウッドのよい映画を見たという感想は持ち得た。


2013年10月20日日曜日

Klee~クレーの野心後半

クレーは宇宙を支配する法則ー原理の発見にひたすら専念した。
カンディンスキーと共に仕事を始めてから本格的にクレーらしさが窺えるようになる。
非常に実りのある出逢いであったことは確かだ。

カンディンスキーを中心にブラウエ・ライター~青騎士は、クレーの他にマルク、マッケ、シャガール、ヤウレンスキーによって結成された。
これほどの才能が一堂に集まることは稀有なことだ。

言うまでもないことだが「画家自身の内的欲求を満たすフォルムのみを使用する」とカンディンスキーの述べるように、もはや自然主義的なフォルムの再現など端から問題外のところから出発している。

しかしクレーはカンディンスキーの方向性・理論に深く傾倒しつつも、目で観ることの出来るものから完全に離れることはしなかった。
純粋な形体-音楽的な抽象へ一気に飛翔することはなく、モノの痕跡を残し暗示的で象徴的な神秘性溢れる芳醇な世界を創造し続ける。

あえてブラウエ・ライターの共通性を挙げれば、音楽性・抽象性の高さ、装飾的傾向の強さ、民族的要素が窺えるところだろうか。キュビズムの影響も感じられるものだ。

クレーはグループで知り合ったマッケとチェニジア旅行を、やはり多くの画家たちのようにしたが、この旅行はクレーに「色は私を捉えた、、、」と言わしめるほどの色彩に対する衝撃の深い体験となって、その後の作品に確かな方向性を与える。
線描の画家が色彩も捉え、色彩と一体となったクレーの芸術の完成度がさらに高まる。またこの地に見られる幾多の建造物はクレーの以後のモチーフに欠かせないものとして、クレーの内奥に幾何学的に醸造されていく。アラビア模様などとともに。

第一次大戦でカンディンスキー、ヤウレンスキーはドイツを去り、マッケとマルクは若くして戦死する。
クレーは自身の特質もあいまって、この経験でさらに確信を深めている。
形象の残骸は抽象化の素材となる。「贋の分子の巣くう廃墟、不純な結晶物の生まれる素地。これが今の時代なのだ。」
クレーにとって彼岸に完全な世界を構築することが絵画=抽象芸術制作の根拠となる。

グロピウスからの要請でバウハウスの教授となり、講義の傍ら自身の造形理論をまとめた。
「造形思考」は制作者側から提示された最も優れた理論書のひとつであることに間違いない。

「芸術は目に見えるものをあらためて提示するのではない。目に見えないものを見えるようにするものだ。」クレーの抱き続けていた野心は最後の二年間に向けて実ってゆく。

多くの天使たちと交わり、彼岸においても進化ー運動を止めない描線が続く。















2013年10月19日土曜日

Klee~クレーの野心

クレーはとても芳醇な画家である。

クレーは他の多くの画家がするようにイタリア旅行に行く。
ルネサンス期の大画家の作品も、勿論見るが、寧ろそれより遥かに熱心に、
ビザンチン・初期キリスト教美術、ロマネスク模様の寺院、バロック美術、古代のカリグラフィーを研究した。
そこにある宇宙的宗教観とでも言うべき世界観を自らのものとして確立した。
クレーの後の造形にとってかなり大きなインパクトがあったであろうことは見てとれるが、クレーの感性にまずフィットしたものであったことは想像できる。

さらに、ナポリの水族館での経験。これはクレー芸術の形成にとって決して小さいものではない。
クレーはそこで「休みなく小さな可愛い旗を廻している、沈没した汽船の幽霊、、、」や「骨董品のような格好」をしているクラゲ、「偏狭な人間そっくりに、耳の上まで砂にうもれているおかしな魚」や、ヒトデ、イガイ、「ゼラチンのような生物」たちから、形態のもつ自由な変貌の楽しさと深い神秘を吸収する。

また、クレー一家は音楽家一家であり、彼自身バイオリン演奏に大変な才能を示しており、青年期、自分が音楽家になるか詩人の道を選ぶか画家となるか、迷っていたという。
彼の絵画世界は単に形態の再現性における器用さから絵描きになった、というような他の画家にありがちなコースではなく、クレー自身、圧倒的な造形の技量ももっていながら、それを遥かに上回る詩的才能と音楽性を兼ね備えていた事が彼の絵画世界を決定付けたと言えよう。
彼の絵はよくモーツァルトに比較される。
詩人リルケが親友である。

彼は、自分でも「野心」という言葉をよく使う。しかし同年代のピカソのように早くから頭角を見せ、世間の評価を得ようということに関心はなく、「、、、わたしは俗界を捨て去り、本源そのものへと向かう。虚界を遠く脱したところにこそ『想像』の根源が潜んでいる、、、無限の可能性への信仰のみが心の中に、創造に励むべく活き活きと脈打っている」
彼は自身の直感にいささかも疑いをもたず、存在学的なアプローチで自身の芸術をじっくりと確立していった。「無限の虚空にまで達する」絵画を描きあげる野心である。
これには時熟を待つ必要もあった。
彼の作品は彼自身が死期を悟った、最後の2年間に集中して制作される。

数々の天使は彼独特の世界の象徴である。
此処と彼岸(異界)とを結ぶ、クレーそのときどきの表情のような。
芳醇な世界である。

今回画集を見直してみて、素描も含めるとその表現の幅、多様性にも驚くべきものがあった。
特に線描の美しさは他に比べるものがない。
改めて今後も長く味わい続けたい画家である。



2013年10月13日日曜日

フォトシティさがみはら Part-2

アマチュア部門の作品について

金賞 「夏の日」

この作品はフレーミングの妙に尽きるかと。
最終選考に残るような人たちはみな、玄人はだしの知識とテクニックをもっていますし、機材もプロと遜色のないものをガッツリ揃えています。
最終的に自分(精神)を入れた上で、どのように場を切り取ってみせるか、がポイントになるかと思います。

作品は対象を真上から見た構図がそままモンドリアンの絵画にもなりそうなほど洗練されています。川岸近く浮き輪に身を任せて画面左の岸側に向きつつ静かに浮かぶ3人の子供、水際にしゃがみこみその子供達と対面する黄緑とクリーム色の麦わら帽子の二人、川岸に川と平行に置かれた4本の青竹(その内最も川に近い竹だけ画面5分の3位のところで上方に途切れている)、画面下方端に青竹に120度の角度で何気なく置かれた白い傘、画面上部青竹に沿って並んだ海パン姿のスイカを食べる男の子3人が主(他は丸い小石くらい)な構成要素となります。
各要素が整然と構成されながらも変化(動き・揺らぎ)と調和があり、色彩配色も美しく、ウキウキするようなリズムが生まれています。観測者-作者のここだと息を飲み込む瞬間の息遣いが感じられます。

しかしこんな角度で撮れる場所ってなかなかないです。真上からです、、、。



銀賞 「砂塵」

日常の中のドラマというものは何処にでも誰にでもあります。
まさにそれをわれわれに思い起させてくれる写真です。

公園でしょうか?不意の突風に砂塵が巻き起こり、ベビーカーに乗せた子供を咄嗟に庇う夫婦の写真です。砂塵が舞えば、恐らく誰でもこの夫婦と同じ姿-行為を見せることでしょう。
小さな一瞬のドラマではありますが、
謂わば人類の普遍的な、もっと言えば記念碑的な姿でもあります。
ただ一瞬の面白さを狙っただけの写真とは明らかに一線を画するものです。

平素から作者の基本的に持っている理念-精神がこの画像を瞬時に捉えたのだと思います。
他のカメラマンでしたら、もしかしたら目を閉じ顔を両手で塞ぎ、レンズを向けることなど思いもよらないかも知れません。
身体的に感覚的に対応するには、相応の意識水準が固められていなければ不可能でしょう。

ドーミエが描くような美しい画像です。壁に飾るより大切にアルバムにおさめておきたい写真です。そしていつか子供が何気なく見てくれるといいな、と思います。

ことごとく、人は自分の見たいもの(知っているもの)をのみ見る。



銀賞 「橋の上の七夕祭り」

手前、かなりの高所を長く中空にひかれた七夕飾り。
その遥か後方の橋の上に静かに祝う人々の姿。
われわれの時空とは異なる場に入ってしまったように見えます。

こういう七夕祭りがあるのですね。
明らかに日常の場とは断絶した(ハレ)の場が出現しています。
ある意味、祭りの本質を捉えた厳かな作品と言えましょう。
光の加減もそれを際立たせるものです。
少しオカルティックな情景です。

確かに最近~祭と名打ったものに接しても、
それがいかに大規模なものでも、質的に日常の延長であり、異化された光景の見えないものが多いように思われます。運動会をやってるような。(運動会も祭りの一種とは言えなくはないですが)
異界の者に出会いそうな、アルタード・ステイツを呼び込む何かが欲しいです。

この写真の場合、橋というのが象徴的ですね。



銅賞 「至福の時」

どうやら仮説住宅で生活を続ける人たちの写真のようです。
他の作品に比べて、目立って平面的で明るくはっきりした画面です。
明度・彩度ともに異様に高い。

奥行というものが一切感じられない。
深みというもの、過剰な意味を締め出した、
というよりすべてを洗い流した感のある写真です。

ある意味、本当の写真というものかも知れません。
みんなが座敷に座って、レンズ(カメラマン)の方を向いて微笑んでいます。
否、笑っているのか。

それ以上語るなと言う力強い「写真」です。



銅賞 「夕雲の丘」

そう言えば純然たる風景写真というものは数が少なかったように思います。
まさに夕日の時刻の作る空と大地のアナーザー・ワールドです。
それが丘ときていますから、尚更でしょう。

トワイライト・ゾーンは最もアルタード・ステイツが発動する場-時空です。
こういった光景を撮る事自体の意味・価値は大きなものだと思います。

ただ何もここまでドラマチックで大きなスケールでなくとも、
もっと何気ない日常的な事象において、この精神を発動させても良いはずです。
むしろその方がわれわれを強く揺さぶるのではないかと思われるのですが。

われわれの寄って立つ日常生活の活性化において、
丘という超越的な場より、部屋の中などに焦点を置くのも良いかも知れません。
外でも、庭の花壇とか。毎日乗っている自転車とか、、、。
ケ→ケ枯れ→ハレの循環を考えても、当たり前の物の異化という形で。

作者は壮大な美しい絵が欲しいのかも知れませんが。



市民奨励賞 「満月の花見」

この光景をフラッシュ焚いて撮りでもしたら、恐らく入選も逃すでしょう。

被災地で頑張っている写真機メーカーのS****がありますが、
それを使い強い光源の下、極めて対象を精緻に撮ることが一方で流行っています。
これまで見えていなかったモノも可視化させてしまうような威力で。
それはそれで大変なインパクトを持ち、その方向でのさらなるテクノロジーの発展は大事です。
しかし写真の方向性としては何でも微細に克明に捉えなければならないことなどなく、
仄かに朧げで、幽かに窺い知ることのできる光景ーリアルさもあることを伝える必要があります。

太陽光は熱量などの無駄なエネルギーが多すぎます。
月の冷光で対象を撮る。
ここではじめて浮き上がってくる光景があるはずです。
お寺の鐘楼とお花見の2人の人物。

リアルな光量。過不足ない情景です。




この他、入選作が多数展示されていました。かなりのテクのものが多かったです。

最近ブログなどでマクロのすごい精緻な画像をよく見かけますが、その手の作品は入選作には2点ほどでした。SIGMA DP* Merrillの持つ超高解像度とFoveon ダイレクトイメージセンサーではじめて可能となる画像があり、圧倒的な再現性を誇りますが、そういったスタティックなものはあまり見当たらず、逆に一連の動きの中のまさにシャッターチャンスを見事モノにした、幸運な瞬間映像がかなりを占めているようでした。日光の下のマクロ撮影に最適化されたSIGMAの最も苦手とする領域ですが。

やはり動きは、物語を不可避的に孕み訴えるものも強いことは確かです。
訴える点にあまりに力を注ぎ、過剰なパソコンによるレタッチが目立つものも多かったようです。
入選には 残りませんでしたが、想像はつきます。
使用カメラはもう殆どが、デジタルになっているそうですが、
アッジェなどの写真に一回戻って、考えるのもよいかも知れません。

2013年10月12日土曜日

フォトシティ相模原 市民ギャラリー(セレオ4F)を見て

またまた相模原市民ギャラリーからのレポートとなります。
今回は、プロとアマの写真展です。

総合写真祭フォトシティさがみはら
という催しで

基本理念が掲げられています。

ここに転記します。


相模原市は21世紀の幕開けに当たり、


総合写真展「フォトシティさがみはら」を創設しました。


写真は優れた記憶の装置として、


また、現代美術における表現手法として広く親しまれ、


私たちの生活に欠かせない存在となっています。


相模原市は未来への可能性を備えた写真をキーワードとし、


時代と社会を考え、語り合うことで、


新世紀における精神文化の育成に貢献します。



(政令指定都市ですし、何かやりませんと。地方分権・市民福祉の増進など、、、。)


プロの部です

志賀 理江子(以下敬称略)

「螺旋海岸」と題された作品群で、30枚の写真によって構成されていました。
すべてカラーです。
1980年生まれとカタログにあって、びっくりしました。
写真作品を見るとどうしても60を過ぎたベテラン作家に思われてならないものがありましたので。

「快適に整えられ自動化された日々の生活と社会に身体的な違和感を感じるところから表現を始めた」そうです。
そして身体と密接な土地との関係を求め宮城県を見出し、その後何度も訪れて太平洋側の北釜を発見します。現在そこに暮らしながら地域のカメラマンとして制作活動を続けています。

非常に物質的な、場所というものを志向した写真だと感じます。
人も写っていますが、あくまでも茫洋とした風景の一部として、
または何かの影のごとく、屍体のように在ります。
誰が執り行っているのか分からぬ何かの儀式や痕跡(穴)も見られます。
宇宙人も寄る辺ない石ころのように、ころがっています。
その土地を形作る鉱物の写真は、まるで肖像写真のように厳かに精緻な表情で撮られています。
鉱物の写真はすべて時間?数値で記されていました。
写真を撮った時間帯は夜(深夜)か、夜明けのトワイライトゾーンのように見えます。
草や木が生き生きとした異次元の動物のように待ち構えていたり、
ヒトも一体となった不思議な存在となって場所を形作っています。
観測者ー撮る側も数式に組み込まれて成り立った世界です。



野村 佐紀子

「NUDE /A ROOM /FLOWERS」と題された作品群で、23枚の写真がありました。
モノクロが大半を占めており、カラーも彩度を押さえたモノトーンに近いのものです。
1967年生まれということですが、ある意味伝統的な手法を正当に継承した作家に思えます。

題にある通りの題材で構成された写真のひとつひとつ。
一目見て感じられることは繊細さです。
そして永遠を求める静謐な孤独感。
それぞれが郷愁に裏打ちされた詩的世界の短編小説です。
ひりつく写真群。

ひたすら誠実に自分の心象風景を長年追い続けてきた写真家に違いありません。



クルサット・ベイハン

「故郷から遠く」と題された20枚の写真。
カラッカラに乾いた労働者たちと部屋や街並みの写真です。
すべてが想い出、遠い日の亡霊のように写っています。
今はありもしない場所の記録。

トルコは東西の経済格差から東から西へと労働者の歴史的移動が80年代から90年代にかけて起きていたそうです。
イスタンブールにやってくる労働者の数は、2009年から2010年の期間で2倍以上になりました。
電気と水道の使用を制限され、キッチンもバスルームもないひとつの部屋に10人で住み、残してきた家族に仕送りをして生活をしているといいます。
そのことは写真が雄弁に物語っています。
これ以上ないほどに、荒涼として殺伐として。
ここに人間的な感性が残されているのか、そんな疑念が頭をもたげるほど。
そんななか、「イスタンブールで働く父から贈られたウエディングドレスを着る2人の少女」が砂漠の中の小さなオアシスのように労働者の中にはさまれていました。
しかしウエディングドレスを着るのはいくらなんでももっと先のはず。これは意味のない贅沢ではないのか?そのサイズを見てすぐに思います。その不合理を。でも、
彼らが本当に残した娘たちに送りたいものは物や金よりも、日々不毛な労働に消耗し尽くしてもなお、ギリギリのところに残る「思い」そのものなのではないでしょうか?それがなければ、もはや生きる意味も失ってしまうような。

娘たちの微笑みを見てそれを思います。大変禁欲的な無口な写真ほど地下水脈のような詩情を秘めています。



田代 一倫

「はまゆりの頃に」2011年4月15日から被災地の人々を撮り続けた写真から20枚。
一枚に必ず一人写っている写真です。
しかも皆前をしっかり向いています。
写真家は、一言を被写体と交わしてから撮っているようです。
すべての写真には日付と街の名前が付いており、それが作品名となっています。
まさにその場所の写真です。
瓦礫の山の中、地べたは隠れていても。
この作業は今も継続されており、すでに夥しい記録の数となっています。
普通、人物をひとり正面から撮った写真は、何か異様な付加価値を醸します。
ダイアン・アーバスなど特にその例に入ります。
しかし、ここにいる人たちは何も求めない写真家の視線に素直に応えているだけです。
もはや個人的な欲求を上回る使命に従って生き始めた清々しさをみてとれます。
画像の裏側には隠すべきものなど何もない、すっかり洗い清められた自明な世界があるだけです。
これからそれぞれに大変な作業が続く人たちですが、どれも晴れやかな気持ちにさせられる写真群です。


10/11~10/28の期間、開催

2013年10月10日木曜日

水の不思議

水素原子がつくる104.5°という角度が水を特徴付けるのか?

DNAの螺旋・カタツムリの殻も構造・松かさの模様・ヒナギクの花芯部の配列がそれだという。
深い意味のある角度に違いない。
たいがいの分子では、原子は45°60°90°という規則正しい幾何学的な結合をしている。

水は他の物質がしっかり持っている、法則をことごとく破る。
ものすごくありふれたものなのに、極めて特殊なもの。
構成は2個の水素と1個の酸素からなるが元素自体が水素の場合、質量は1だが、同位体は2または3のものも存在する。酸素にしても原子量は16であるが、同位体には17,18のものがある。分子量が18から24に渡る計18種の組み合わせが可能となる。同じ構造式であっても性質はかなり異なり、まさに種々雑多な化合物と言える。


まず誰でも知っている、液体の状態の方が個体の時よりも密度が高く、固体・液体・気体の各状態を持ち合わせる化合物は水しかないこと。氷は水に浮く。分子間距離は水より氷の方が広い。
また酸としても塩基としても振舞う。そのためどんな物質とも反応する。
水は特殊な化合物である。

それから非常に強力な溶剤であること。
なんでも削り溶かしてしまう。
陸地は今も少しずつ水に地形を削られている。
水の力からは何物も逃れられない。

水は比熱が他の物質より大きく、暖まりにくく冷えにくいため、急激な温度変化を抑えている。
太陽は地球が誕生後、放射するエネルギーはすでに3倍に増えている。
しかし海水が、熱を蓄え、熱を遍く移動させて気温を変動を抑えていることが分かる。
赤道付近から始まる貿易風の力も借り、大規模な対流と熱交換そして蒸気から雪へのその華麗な状態の変化、さらには月と太陽の力(重力)も借りた干満によって深海の水を海面にまで戻すことにより、エネルギーを放出させ均一に安定した状態にしている。


水は生きている。農家が儀式で水の入ったバケツに粘土を入れ、その水に向かってセレナーデを人々が歌う。明くる日にその水を畑に蒔くと、それをやらない農家より30%多い収穫が得られたという。水の性質上ほとんどあらゆる物を取り込むことができるが、土と音楽もとりこみかなりの効果を生む。昔からの慣習は確かな意味を持つ。


水は地表の71%砂漠の砂にも15%含まれ地球を覆っている。
太陽系を見ても水が液体で地表に保持されているのは地球だけ。
地球の質量・重力から言って、水素原子を引き止められるものではなかった。
水を合成し保持できること自体奇跡であった。


最初の水は、雨だった。
熱い地表の遥か上で渦巻く蒸気が凝結し、
その後、何百年間降り注ぐこととなり、
はじめての水を受け入れる地表は激しく削られ
光が射し込むのはそのあと。

雨への憧憬。
その時の処女のみずをのみこんだ瑪瑙。
その水影に眺め入る瞳。
無意識の拠り所。
太鼓のリズムー想い出が重く揺らぎ。
わたしもむろん、同じ水を宿し。

水は海に集まり気象を作り出し
台風や竜巻の原因を作る。
洪水。雪崩。津波の猛威と
幾何学的で危うい精緻な雪の結晶。可視光線の美しさを思い起させる虹。
わたしたち地上の生物が生命を維持できるのは
本当に微妙な狭間。

奇跡の水の惑星。
だからこそ遠方から見て美しい。
ラピスラズリの青。
巨大なひとつのせいめいたい。

水に支えられつつ
無意識から意識の明るみに放たれ
地表からあらん限り離れようとしても
他の動植物とともに
相変わらず地表のひとつの層を生きているヒト。
わたしたちの集合無意識はその干満のリズムに
揺られて再び海に行き着く。