今回は、プロとアマの写真展です。
総合写真祭フォトシティさがみはら
という催しで
基本理念が掲げられています。
ここに転記します。
相模原市は21世紀の幕開けに当たり、
総合写真展「フォトシティさがみはら」を創設しました。
写真は優れた記憶の装置として、
また、現代美術における表現手法として広く親しまれ、
私たちの生活に欠かせない存在となっています。
相模原市は未来への可能性を備えた写真をキーワードとし、
時代と社会を考え、語り合うことで、
新世紀における精神文化の育成に貢献します。
(政令指定都市ですし、何かやりませんと。地方分権・市民福祉の増進など、、、。)
プロの部です
志賀 理江子(以下敬称略)
「螺旋海岸」と題された作品群で、30枚の写真によって構成されていました。
すべてカラーです。
1980年生まれとカタログにあって、びっくりしました。
写真作品を見るとどうしても60を過ぎたベテラン作家に思われてならないものがありましたので。
「快適に整えられ自動化された日々の生活と社会に身体的な違和感を感じるところから表現を始めた」そうです。
そして身体と密接な土地との関係を求め宮城県を見出し、その後何度も訪れて太平洋側の北釜を発見します。現在そこに暮らしながら地域のカメラマンとして制作活動を続けています。
非常に物質的な、場所というものを志向した写真だと感じます。
人も写っていますが、あくまでも茫洋とした風景の一部として、
または何かの影のごとく、屍体のように在ります。
誰が執り行っているのか分からぬ何かの儀式や痕跡(穴)も見られます。
宇宙人も寄る辺ない石ころのように、ころがっています。
その土地を形作る鉱物の写真は、まるで肖像写真のように厳かに精緻な表情で撮られています。
鉱物の写真はすべて時間?数値で記されていました。
写真を撮った時間帯は夜(深夜)か、夜明けのトワイライトゾーンのように見えます。
草や木が生き生きとした異次元の動物のように待ち構えていたり、
ヒトも一体となった不思議な存在となって場所を形作っています。
観測者ー撮る側も数式に組み込まれて成り立った世界です。
野村 佐紀子
「NUDE /A ROOM /FLOWERS」と題された作品群で、23枚の写真がありました。
モノクロが大半を占めており、カラーも彩度を押さえたモノトーンに近いのものです。
1967年生まれということですが、ある意味伝統的な手法を正当に継承した作家に思えます。
題にある通りの題材で構成された写真のひとつひとつ。
一目見て感じられることは繊細さです。
そして永遠を求める静謐な孤独感。
それぞれが郷愁に裏打ちされた詩的世界の短編小説です。
ひりつく写真群。
ひたすら誠実に自分の心象風景を長年追い続けてきた写真家に違いありません。
クルサット・ベイハン
「故郷から遠く」と題された20枚の写真。
カラッカラに乾いた労働者たちと部屋や街並みの写真です。
すべてが想い出、遠い日の亡霊のように写っています。
今はありもしない場所の記録。
トルコは東西の経済格差から東から西へと労働者の歴史的移動が80年代から90年代にかけて起きていたそうです。
イスタンブールにやってくる労働者の数は、2009年から2010年の期間で2倍以上になりました。
電気と水道の使用を制限され、キッチンもバスルームもないひとつの部屋に10人で住み、残してきた家族に仕送りをして生活をしているといいます。
そのことは写真が雄弁に物語っています。
これ以上ないほどに、荒涼として殺伐として。
ここに人間的な感性が残されているのか、そんな疑念が頭をもたげるほど。
そんななか、「イスタンブールで働く父から贈られたウエディングドレスを着る2人の少女」が砂漠の中の小さなオアシスのように労働者の中にはさまれていました。
しかしウエディングドレスを着るのはいくらなんでももっと先のはず。これは意味のない贅沢ではないのか?そのサイズを見てすぐに思います。その不合理を。でも、
彼らが本当に残した娘たちに送りたいものは物や金よりも、日々不毛な労働に消耗し尽くしてもなお、ギリギリのところに残る「思い」そのものなのではないでしょうか?それがなければ、もはや生きる意味も失ってしまうような。
娘たちの微笑みを見てそれを思います。大変禁欲的な無口な写真ほど地下水脈のような詩情を秘めています。
田代 一倫
「はまゆりの頃に」2011年4月15日から被災地の人々を撮り続けた写真から20枚。
一枚に必ず一人写っている写真です。
しかも皆前をしっかり向いています。
写真家は、一言を被写体と交わしてから撮っているようです。
すべての写真には日付と街の名前が付いており、それが作品名となっています。
まさにその場所の写真です。
瓦礫の山の中、地べたは隠れていても。
この作業は今も継続されており、すでに夥しい記録の数となっています。
普通、人物をひとり正面から撮った写真は、何か異様な付加価値を醸します。
ダイアン・アーバスなど特にその例に入ります。
しかし、ここにいる人たちは何も求めない写真家の視線に素直に応えているだけです。
もはや個人的な欲求を上回る使命に従って生き始めた清々しさをみてとれます。
画像の裏側には隠すべきものなど何もない、すっかり洗い清められた自明な世界があるだけです。
これからそれぞれに大変な作業が続く人たちですが、どれも晴れやかな気持ちにさせられる写真群です。
10/11~10/28の期間、開催
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