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2013年10月26日土曜日

2つのソラリス~タルコフスキーとソダーバーグ

タルコフスキーの映画音楽を担当してきたアルテミエフによると、タルコフスキーは人に心を開かないタイプの人間で、16年間も付き合っても親密にはなれなかったということである。勿論、その間、自宅に誘って食事を共にすることはあっても、月並みな会話を交わす程度であったという。

フィルムでタルコフスキーの顔、表情、姿や仕草を観て、その事がよくわかる気がした。
孤高の人である前に、孤独から逃れられない人のように感じられた。

詩情溢れる郷愁まさにノスタルジアにタルコフスキー映画はつねに色濃く染まっている。

「鏡」「ノスタルジア」はその最たるものだが、この「惑星ソラリス」もそうである。

やはり
4大元素とりわけ「水」がいたるところで満ち、滴り落ち、うずまき、潜んでいる。
ヒトや想念はその中から次々に立ち現れる。
まさに郷愁を帯びて。
時間・空間を何気なく横断する亡霊のごとく。

こう言ったら乱暴すぎるが、タルコフスキーのソラリスはほとんど舞台は「鏡」と変わらない。
少しばかり部屋の内装が異なっているくらいで。
それくらいタルコフスキーの4大元素は本質であって普遍的であり自然である。
ソラリス(プロメテウス)も地球もない。
どこにいようと意識のあるものは、想念を持ち、意思を働かせ思考することをやめられない。
そして夢を見ることを。

多分、電磁波と重力のあるところならば、タルコフスキーの描くものは皆同じ光景になるはずだ。
そのため、タルコフスキーの作品はどれも超越的で普遍的で傑作に成らざるおえない。

取り敢えずスタンスワフ・レムの原作「ソラリスの陽のもとに」をもとに作ったとは言え、同じ原作から撮られた映画と比べる必然性はない。ある意味、タルコフスキーにとっては、原作などあって無いに等しい。もともと線状的なストーリー展開を映像形式においてことごとく壊し本来起きている重層性、多元性、同時性を表してきた作家である。彼にとってリアルであるのは「映画」そのものであって、現実ですらない。否、彼にとっての現実が映画であるのか。プロメテウスの船内に自殺したはずの妻が現れようと、幼い日の自分が突然居間に現れようと、タルコフスキーにとっては日常である。

彼の意識は全てを包含している。

ここまで言ってしまったが、ソダーバーグの「ソラリス」もよくできている。
ブレード・ランナーにもよく似ている。

ディテールの作り込み。
物質性。
光線・照明の繊細さによる画像の単純化と質感の強調。
音楽の映像との高いレベルでの融合。
両方の主人公とも、うどんとラーメン(ヌードル)所謂、日本麺を食ってる。
主人公を愛する女性が片やクローン、片やレプリカント。両者ともある意味、ハッピーエンド。
どちらも傑作SFの原作がある。ブレード・ランナーは「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」
「2001年宇宙の旅」を含め、これらの3作はSF映画の3金字塔と呼ばれる。
(「ソラリス」は勿論、タルコフスキー版であるが)

これを続けてもあまり意味はない。

ソダーバーグ版はタルコフスキーの先入観があり、どうしても不利な立場にあるが、実際に観てその出来栄えは破綻の少ないよいものであった。

映像と音楽がよく溶け込んでいること。
セットの質感が統一されており、照明が画面を単純化し厳かな演出が成功していた。
ディテールの作り込みがプロメテウスの現実感を保証するに十分なものであった。
あくまでもタルコフスキーのリメイクではなく、レム原作のSFをもとにした新作と捉えて、ハリウッドにしてはアメリカ臭さも少なく、とてもよい映画であると思う。1回見れば十分であるが。
(ちなみにタルコフスキーはすべて3回から12回同じものを観ている)

これは、両者の映画に対する前提と焦点の当て方の問題で、タルコフスキーは謂わば宇宙の基本原理の下で存在を描くが、ハリウッドはある意味、自我レベルのラブストーリーに落ち着く。スケールは異なり、描き方は限定されるが、それでは軽佻浮薄な物かといえば、十分に存在における深みを問う作品になっており、ジョージ・クルーニーも良い仕事をしている。しかし彼の裸体像を入れる意味はどれほどあったものか?
しかし全体のもつ雰囲気の整合性はとれており、最後に妻が現れ「わたしたちは許されたのよ」と言う場面は、まさにリドリー・スコットがブレード・ランナー、ディレクターズ・カット最終版で抹消した部分に重なるところであり、いまひとつその部分が何とかなっていれば格調ある映画の一つとなっていたはずである。

だが、久々にハリウッドのよい映画を見たという感想は持ち得た。


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