1925~2000
すべての写真はモノクローム。
強烈なコントラスト。
重ね撮りやコラージュもある。
手ブレも表現の一つとしてとりこまれている。
黒から今にも激しい色彩が燃え上がりそうな直前で耐えているような画像である。
また、そこに写っているヒトのいる光景そのものがまるで異界を想わせる。
一瞬写真を見た印象は絵画か版画である。
絵画的な意図的な構成が感じられる。
しかしさらによく見ると、ある距離をもって対象を捉えたものだとわかる。
妙にこころをかき乱す遠近法のつかめない写真。
そして強いて挙げればルドンの絵か。
「白は虚無、黒は傷跡」
確かに。
「わたしたちがここに見ている世界は本当にあるのか」
写真家は普通、現実を盲信した上で撮っているはず。
しかし彼はそんな前提に立っていないことははっきりわかる。
「わたしは時間に興味がある。時間とわたしとの間には永遠の論争がある」
ここがジャコメッリの存在学で肝心なところ。
死にどれだけ近接するか。
「わたしにとって距離と対象物があればよい」
究極の制作スタンス。あらゆる仮像を排除し。
生まれ育ったスカンノという場所に生活する人々、ホスピスに住む老人たち、をひたすら撮る。
そのリアリティに高精細や遠近法は必要ない。
ぼやけて映り込むリアリティもある。
白・黒その虚無と傷跡を強いコントラストで浮き彫りにする。
死を意識した存在の時間との戦いがそのまま創造となってゆく。
彼は死ぬ間際の老人に強烈なフラッシュを焚いて撮る。
内界か外界か判別不能な世界の光景がある。
名状しがたい腐りかけた肉の塊の異物感ー物質感、存在というものの恐ろしさの露呈。
存在と死がトワイライトのなかに浮き立ち、その眼差しは死者のものかも知れないということに気づく。
この他界感覚いや一種の既視感こそ実は市場社会が覆い尽くしている現実を食い破るものなのか。
資本主義の対極は死であることに彼の写真群で気づかされる。
すべてのものは、資本主義に呑み込まれる。
その市場主義に。
9.11の写真然り、戦場カメラマンの写真然り。
すべてCM・ニュースとして流れ出してしまう。
これは自ら意図的にそうしている場合も多い。
しかしそれらのメッセージ性をすべて洗い流すと、彼の写真に似てくる。
そもそも存在ー死に近づくのであれば、何故わざわざ戦場の写真を撮りにいく必要があろうか?
死は自分の近傍にいくらでも転がっている。
それを見ずに戦場へと出かけてゆくのは、表現者というスタンスの奢りであって、ポーズまたは非常に無邪気で軽薄な特権意識に過ぎない。(最初から資本のうちでの商品性を狙ってのことも当然あるはず)
マリオ・ジャコメッリの存在学は最初からそれらに無関係でいられた稀有な例である。
それは彼が徹底して時間との闘争をし続けていたからであろう。
死を凝視し続ける眼差しを持っていたからであろう。
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