AdSense

2014年4月6日日曜日

ギュスターブ・モロー ~ 時刻表を持った隠者



わたしの最も好きな画家である。


パリの独房で宝石の放つ閃光のような水彩画を描き、陶酔に浸っていた画家というようにユイスマンス(さかしま)に描写されてから、モローは神秘主義の隠遁者という側面だけ強調されてきた。
デカタン派ユイスマンスとしてはまさにそのほうが良かったはずだ。
あたかも閉じこもって血なまぐさく退廃的で耽美的な幻を見て描く画家、、、。


モローは時期としては印象派の画家たちとほぼ同じ時期に創作活動を行っている。
片や真昼の陽光の下で変幻する光景(人物)を捉え、片や密室に籠り神話や聖書の主題の光景を創り上げる。

しかしそのスタイルによって己を語ることについては同じだ。
モローについて言うと、昔の画家がイコンを描くような姿勢で聖書の絵を描いていたのではなく、聖書を題材にして自分の思想をその装飾的な絵で表現していたことになる。
「描くことで思想を呼び覚ます」モローらしい言葉。

不可避的に画家はその制作によって自らの思想を語ってしまう。

ユイスマンスによって語られたモロー像ではモローがまさにその思想を語るように描いた幾何学模様など、饒舌で精緻極まりない装飾がどこから来たのか、存分に想像できない。

この時期、フランスでは消費社会がいよいよ成立し、モロー曰く、「中身のない愚かな民衆が狂奔する市場社会の出現を見る。外にはデパートの立ち並ぶ風景が現れる。
そこを我が物顔で跋扈する民衆のちからは恐るべきものだ。」
このように述懐しているということは、鋭い目で凝視して分析しているからであって、籠りきりでは単なる仙人になっている。
確かに厭世的な知性と気質を持っている分、作品は時代性に阿る事のない、高踏的で超越的な主題となるであろう。
しかし実はモローはその書簡などから外界に対し旺盛な好奇心を抱いていた理知的な画家であったことも公にされてきている。

パリ万博も盛大に開かれ、インドや東南アジアの美術品や風俗の紹介がなされると、それらについてはモローは大変な興味関心を寄せ、かなりの資料をアトリエに取り寄せている。
その中で特に彼の興味を引くものは日本から来た仏教美術であった。
廃仏毀釈運動の関係で仏像はもちろん日本美術に触れる機会はもっており、
モローの描く神話の世界を見ればそこから得た文様ー思想が幾つも見て取れる。
また、多数ある「サロメ」には、睡蓮を持って静かに佇み、冠には白い布、上半身裸の衣装。純粋さをそれらの形の意味で表しているものもある。
これらは仏像美術の研究から導かれている。
様々な形の意味を取り出し編集してここまで異文化の融合を果たした画家も珍しい例だ。
常に最新情報を貪欲に吸収し作品に昇華してきた画家である。

ドガがモローについて語るように、まさにモローは「時刻表を持った隠者」であった。
外界の流れを確認して自ら独房に篭り、思索を絵を描くことで深めてゆく。
こんなスタイルである。

鋭い洞察力はすべての絵に見られるもので、「オイディプスとスフィンクス」は特に有名である。
フロイトがオイディプスコンプレックスを唱える数十年前にその説く世界を絵画化しているものである。この二者の相容れない者同士の永遠の対峙を描ききっている。オイディプスの足元には父親の屍体が横たわっている。

外界に関してモローは多数の、時代に対するアンチテーゼを自らの主題に込めて描いている。
これまでにない構図と装飾によるプロメテウスに、ヤコブに、、ヨハネに託し。
また、「オルフェウスの首を抱くトラキアの娘」やサロメの「出現」のようにかつてテーマとして描く画家がいなかった、場面・構図を取り上げている例も少なくない。特に切り取られたヨハネの首が空中に出現する場面は大変センセーショナルな事件となった。

「写真技術」も一般化し、絵はすでに外界の対象の再現に留まるものではなくなっている。
モローのような批評的・象徴的な作風は、モロー独自の線描による装飾性、色彩の扱い方によっている。その制作ー思索を可能にする方法が闇を通して光を見るような、アンテナを張りつつ籠るスタイルとなる。
これは現在では、ともすると分裂症の生活スタイルと重なってくるところがあるが、あくまでも外界に対する創作の場所として不可欠な設定であったといえよう。

晩年の作品は抽象画に大変接近していく。それまでの絵を見てもその着彩の仕方は特異なものであったが。モロー自身「抽象への情熱」と言っていたように、何もないような外見に神聖なものを彼は見ていた。余白についても塗り残しに見えるものについても意図的に塗らないでおくものが大作などに多く見られる。
水彩画の小品も晩年多く描かれ、どれも圧倒的な神秘性を誇る極めて美しい名品ばかりである。
最後の大作は「ジュピターとセメレー」であり、人間の女がジュピターに愛され、ひと目でも神を見たいと願う絵であるが、ジュピターの出現によって、セメレーはその光によって焼け死んでしまう。最後を飾る、象徴的な大傑作である。



*自宅を改築して作ったモロー美術館は、一種の寺院を想わせるとよく言われます。実際に行かれた方どうでしたか?感想などよろしければお寄せください。
たゆまぬ研究と努力によって「わたし」という存在ー作品を完成させる、というモローの意思がこの美術館という形の作品となったのではないでしょうか?

0 件のコメント:

コメントを投稿