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2013年8月22日木曜日

後期印象派の画家

ゴッホ
1853~1890

ゴッホは精神を病み自殺に至る3年間に500枚にのぼる作品を憑かれたように速筆で仕上げていった。彼の絵画作成様式と言えるあのタッチはこの速筆からくる要請により成り立つ。

彼の作品は印象派の最大の発見でもある影にも色があるという認識をさらに一歩進めた、鮮やかな影の表現が眩いばかりである。日本の浮世絵の研究の成果もありゴッホの絵は平面的で原色が鮮やかに使われ総じて明るい(初期の絵は暗いが)。パリ時代からのゴッホは、ピサロたちとの交流を経て、まさに描写を超えるギリギリのところまで迫り、補色効果も見事な緊張感のある画面を生成している。短い筆のタッチで矢継ぎ早に色を乗せるタッチによる構成も完成してゆく。
彼もまた(レンブラントのように)自画像を多く描く画家であり、色彩上の実験とともに自己洞察も次第に研ぎ澄まされていくなか、敬愛するゴーギャンとの共同生活が破綻し、耳を切り、精神病院にも入院している。タッチも「糸杉」に見られるように、呼吸のリズムで短く押し付けられ、激しくうねりつつすべては上方に向かってゆく。
「わたしは自分の仕事のために、命を投げ出し、半ば理性も失ってしまった」と手紙に書きつけ、畑でピストル自殺を果たす。享年37歳。

ゴッホは世間に厄介者扱いされ、死ぬまでに1枚しか絵が売れなかったが、死後急速に注目されるようになる。
1910年代に日本でも「天才画家」として盛んに紹介され、文芸誌「白樺」の特集を通し、多くの文化人に影響を与えた。岸田劉生、萬鉄五郎、山本鼎、高村光太郎などはいち早く礼賛者となったが、なかでも棟方志功などは「わだばゴッホになる」と心酔していた。


「アルルの跳ね橋」、「ひまわり」、「夜のカフェテラス」、「種まく人」、「桃の木」、「アイリス」、「星月夜と糸杉の道」、「曇り空の畑」、「タンギー爺さん」



セザンヌ
1839~1906

「サント・ヴィクトワール山」と「水浴」を生涯のテーマとして制作を続けた。これらのテーマはセザンヌのよい実験の場であったことであろう。
「この世界は、球と円筒と円錐で出来ている。」があまりにも有名。後の立体派に受け継がれる造形の芽生えといわれる。絵がはじめて対象(画題)に従属することから離れ、画家が自然から抽出した「形体」そのものが主題となる道を開いたのである。彼の先の言葉が、絵画から意味が無くなる時代を導くのである。
なによりもセザンヌの絵に特徴的なのは、タッチである。そのタッチはそれまでの印象派が色にこだわり続けていたのに対し、「面取り」を徹底することで「形」そのものを主題化してしまうのである。この緊張感ある作業を通し、画面全域に散りばめられた塗り残しも含め、数々の完成作をうみだしてゆく、、、。
彼の絵を「色紙を貼り合わせたような絵」と呼ぶ人もいる。


「水浴」、「ショッケの肖像(ルノアールに同じ肖像画あり)」、「ガスケの肖像」、「サント・ヴィクトワール山」







ゴーギャン
1848~1903

彼は西洋の近代文明を嫌悪しその芸術にも限界を見、「原始的な」文化にピカソよりも早く関心を寄せた画家である。
ゴーギャンは、中世、日本の浮世絵、エジプト、カンボジアの美術に関心を寄せたが、彼の色彩感覚はそれらの影響を超える圧倒的な鮮烈さが感じられる。タヒチにおいて彼の求める宗教性、象徴的な主題は見出され、彼独自の絵画世界が開花することとなった。エキゾチックな土着のモデルの美と土地の伝統は彼に豊かなインプピレーションを与えたことが容易に想像される。どの作品をとっても単純化された形体と彼ならではの革命的色彩による平面的な画面は、ひと目でゴーギャンのものと判るものである。
彼もまた、生前から少数の理解者はいたが、絵はほとんど売れることはなく、死後急速に高い評価を得た画家である。

「かぐわしき大地」、「死霊は見守る」、「タヒチの牧歌」、「我々は何処から来たのか、我々とは何か、我々はどこにゆくのか」





スーラ
1859~1891
スーラの独自な絵画手法は「点描主義」と呼ばれる。厳密な科学理論による夥しい数の小さな色の点で成り立つ。色を物理的に混ぜることなく並置することで光学的に「視覚混合」が起き、彩度・明度の落ちることのない色面が得られるものだ。彼の絵画は印象派が移ろい易い印象を定着するののに対して、静謐さと秩序が支配している。どれも一目でスーラの絵と判るものである。
彼は内向的で秘密主義のため、ほとんどアトリエに籠って新しい理論に基づいた実験に打ち込んでいた。集中力と忍耐力は並外れたものであり、強く自分の理論に対し確信を持って臨んでいたといわれる。点描による複雑な形体を支えるデッサンも高く評価されている。
髄膜炎で31歳の若さで亡くなるが、スーラの盟友ポール・シニャックは「かわいそうに、われらが友は働きすぎて命を縮めてしまった」と悔やんだ。

「化粧する若い女」、「ポーズをする女たち」、「ポルタンペサンの港」、「アニエールの水浴」、「グランド・ジャット島の日曜日の午後」、「サーカス」



ロートレック
1864~1901
名門貴族の家に生まれたロートレックは幼い頃から虚弱で、両足を骨折したため下半身の成長も止まってしまった。
彼はやがてパリに出ると、ナイトクラブやダンスホール、売春宿に足繁く出入りする生活を続ける。そこで知り合う人々を生涯を通し描き続けた。
持ち前の起用さで板であろうと、ボール紙の上にでもその場で、闊達な手さばきで天衣無縫に筆を走らせる。全く無駄のない見事な動勢のみられるデッサンが瞬く間に仕上がる。またその腕は同様にポスター制作にも遺憾なく発揮されている。人物の特徴を誇張して捉える技術といい絵の構図、文字との構成といい、イラストレーター、デザイナーとしての才能が光るものである。
彼は爛熟したパリの夜の世界・ムーランルージュの世紀末的な雰囲気もろとも、悦楽を求める人々の喧騒を生き生きと描き残した。彼は生前からパリでもっとも高名なポスター作家であった。
ロートレックは、アル中と梅毒により急激に心身ともに衰え、36年の短い人生を閉じる。

「ムーラン・ルージュにて」、「ムーラン・ルージュに入るラ・グーリュ」、「ムーラン・ルージュのダンス」、「ジャルダン・ド・パリのジャンヌ・アヴリル」、「踊るジャンヌ・アヴリル]


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