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2014年2月6日木曜日

マン・レイ!

写真家と画家について主にレポートするブログですが、そうそう展覧会が近場で開かれるわけではありません。その上、今は遠くに見に行くことがかなわないので、そういう時はCD無作為チョイスをまた行いますので、宜しくお願いします。

今日は輸入ものの写真集をしばらく観ていましたので、「マンレイ」について。
まず、気づくのは名前です。
この無国籍なペンネーム?
なんでこの人はこういう人間離れしたスーパーマンみたいな名前で活動したのか?
アメリカ人ではなく、何でもないものとして制作活動をしたかったのか?
それから、一生を何か楽しく送った幸せなヒトという感じがとても強く感じられるので、興味を覚えるのです。

わざわざ本名を調べてみると、エマニュエル・ラドニツキーというそうで、父はユダヤ系ウクライナ、母はユダヤ系ベラルーシの人だそうです。で、フィラデルフィア生まれ。奥さんはフランス人。
これから世界に向けて何かやってやるぞと打って出るにあたり、なんのしがらみもなくカッコ良い名前を好きにつけることが出来ちゃう立場だったかも。名前なんぞにアイデンティティなど込める気ないというか、ID自体いらないというヒトだったのかも知れない。

マンレイ、ある意味、サルバドール・ダリと対極に立つシュルレアリストか?
ダリは言うまでもなく常にアイデンティティーを問い、研ぎ澄ました上での、
自己ブランディングにかけては、右に出る人はいません。
エマニュエル氏もマンレイとして思い切り自由に振る舞い、結果思い切り名を馳せましたが。
マンレイという他人みたいな名を。

ニューヨーク・ダダを起こしますが、すぐに活動の場はフランスに置きます。

マンレイはまずダダイストでした。
トリスタン・ツァラ率いるダダイストたちは、アメリカ代表のダダイストとしてマンレイを迎えたようです。最初から凄いことになっていましたが、彼は大変乗りが良く、やはりエマニェル何とかよりマンレイの方が遥かに身が軽やかだったのでしょう。そんな気がするのです。

マンレイがフランスに渡ったのは、マルセル・デュシャンがいるからでしょうか。
早々と芸術をやめた彼と一緒にチェスをしたのでしょうか?
仲がとても良かったようです。
ともかくパリでは、マンレイはなにをやっても持て囃されます。
とくにキキ(モンパルナスの女王)やリー・ミラーなどに。あのバイオリンと唇。つまり当時ヨーロッパで最も有名な女性と大変仲良くなり、社交界で当然有名人となりました。キキとは同棲もしています。奥さんどうなったかは知りません。日本の彫刻家宮脇愛子とも深い親交を結んでいます。
(そう言えば彼の最後のポートレートは宮脇さんでした。)
途中戦火を逃れてアメリカに渡りますが、巴里ほど受けないのですぐに戻ります。

レイヨグラフ(フォトグラム)、ソラリゼーション(このモノトーンにはかなり意味がある)、ディストーションは、マンレイにとっては副産物のひとつであって、肖像写真もサイレント映画も彫刻も絵もやはりその他の一つであって。
写真は「芸術ではない」「私は謎だ」(展覧会の名前)など少しダダの香りのする芸術を小馬鹿にした感覚とユーモア。

何か「ウェットに富んだ少年がただ大きくなったという感じで、どこまでも偉大な芸術家という感じではありませんでした。日常的な何でもない生活が、すべて創造であるような、そんな毎日を送っていた人でした」と宮脇愛子の述べるところに彼の本質があるような気がします。





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