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2013年11月2日土曜日

紀子の食卓から

そもそも家族とは何か?を描いた映画なのでしょうか。

端から家族とか家庭のとっぱずれた個人というか単独者の各行動を描いたもののように見えました。

それというのも、様々な関係から生じる齟齬や葛藤などの重なりなどで徐々に家庭環境が崩れてゆき、家族が解体するというような過程の物語がなく、最初から皆さほど家庭に目を向けていない人たちが勝手に飛び出していったというのがむしろ特徴ー印象的な映画でしたもので。

そもそも家族とは今ありえるのでしょうか。
つまりそのような機構=幻想の有効性。
さらにその必要性とは。

仮にその必要性を一番強く感じて頑張っていたのは父親だったように思われます。
が、この物語では、最もひどい加害者のごとく描かれています。
主人公の長女に批判されます。
どうなのでしょう?
母や2人の娘たちの方が家庭を軽んじていたようにも受け取れます。
むしろ父親はごくありふれた父親より、家庭を大切に思って生活を送っている人です。

突然、長女が家出し、すぐあと次女も出てゆき、心労から?母親が自殺し、と女三人はまったく自己中な行動をしまくり父親を苦しめます。
少なくとも、家庭・家族があると、それを自明のものと盲信していたのは父親一人だったでしょう。
後の女性たちは元々とりあえずひとつの家の中に集合していただけで、思いや意思は常に違うところにあったのではないですか。

つまりこの映画は家族の不可能性を描いてみせたものだと思われます。最初から家族は成立し得ない。もし作るとしたら契約の上、短期間だけ思いっきり紋切り型の仲の良い愛情と信頼と尊敬に支えられた家族というものを演じてみるのが面白い、ということになりますか。少なくとも仕事として成立する、ものであると。
するとやはり異質の人間であるあの父親はその幻想のために排除され、娘たちを追いすがる立場にならざる負えなかったのでしょう。

さいご商売なしでまとまったかに見える家庭から、妹が名付けられない何者かとしてひとり出てゆきます。そこには清々しさを感じました。



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