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2014年3月30日日曜日

タマラ・ド・レンピッカの戦略




マドンナや美輪明宏さんが大好きだというタマラ・ド・レンピッカ。
彼女についてはわたしも大学に入ったばかりの頃、書店の美術コーナーで画集を見つけて購入してからのファンです。
ある意味、パリアールデコの象徴でもあります。

パリ都市文化が爛熟した1920年代に華々しく躍り出たひとりの女性。
自由奔放で凛々しく逞しい自立する女性の姿をクールな質感で描いた画家タマラ・ド・レンピッカ。

初めて見たこの人の絵で衝撃を受けたものは緑のブガッティに乗った自画像です。
最新のファッション、ショートヘア、アイシャドーでキリッと前を見つめる強い瞳。
これは彼女の描く多くの女性像全てに見られるものです。

全身像を見れば、体のラインに張り付く単純化されたヒダをうねらせるゴージャスなドレス。
その質感は金属のような光沢で艶やかであり、彫刻的とも言えます。
時代の最先端を行っているというより、近未来を思わせるSF映画にそのまま出ても違和感は感じられないフォルムにまで到達しています。

彼女は自己プロジュースにも長け、優れた容貌とその洗練された優雅で官能的な姿をたくさんのポートレイトにおさめ、まずは社会に認知度を高めてゆきます。
自画像をプロモーションに使用することはかつての女流画家ヴィジェ・ルブランたちも行っていたことですが、レンピッカは徹底しています。
当時「グレタ・ガルボ」に似ていると言われ、それを意識したポーズなどもポートレートに意図的に取り入れています。
さらにポートレートだけでなくニュース映画にも出演し、自分の仕事中の映像も積極的に公開しました。そこでは、レンピッカの恋人とも言われた女性シャンソン歌手のシュディーがセミヌードで彼女の前にポーズしているところや、優雅な暮らしぶりを紹介するなどのメディア戦略を次々にうっていきます。
娘のギゼットも官能的な美しさあふれる肖像画に描き発表しています。

それによりパリ社交会で話題の尽きぬ人となり、画家としての仕事ー受注はますます広がってゆきました。
彼女の思惑のとおり、画家タマラ・ド・レンピッカの知名度は今やパリだけに収まらなくなり、ドイツからも多くの作品・雑誌も含めた依頼が押し寄せてくるまでになります。

彼女の作品は圧倒的に女性が多いのですが、そのポーズ、表情、姿すべて自立心旺盛な強い女性であると同時に、挑発的で挑戦的かつデカタンスな魅力に満ちたものばかりです。
依頼者・購入者がいくら増えても彼女は相手に合わせた絵ー題材というより自分の描きたいー表現したい絵を描き続けました。しかし時代も彼女の表現するものを積極的に受け容れてゆくのです。

まさに時代と彼女の欲望が一致を見ていた時期でした。
彼女の代表作はこの間にすべて出尽くします。
「美しきラファエラ」など、20世紀最高のヌード画と言われる作品も描かれました。
この官能性、他に強いて挙げれば、クリムトでしょうか?
彼女自身、揺るぎないものを感じていたはずです。

ところがウォール街に始まる世界大恐慌で事態は一変します。

肖像画の依頼はぱったりとなくなります。
彼女自身これまでのスタイルを続けてゆくことに大変な危機感をもつようになります。
作品は次第に内省的なものになり、「難民」、「修道女」などというものになり、この「修道女」の涙がメタリックな取ってつけたような白々しいものだという評論家たちのパッシングもあり、さらに彼女は困惑を深めてゆきます。

ロシアからパリに出て大成功を収め、恐慌後はアメリカに渡り、この時代に合わせた題材と技法を用いた制作に専念します。しかし時代は彼女を顧みず隔たってゆくのです。
タマラ・ド・レンピッカのシュルレアリスム画やまったくこれまでになかった技法表現様式の「マドンナ」なども生まれました。
とは言え内的衝動から技法を根本的に変更していったピカソとは異なり、時代との関係で作風を変えようとして作った作品とは本質力が違います。

展覧会は開かれましたが、注目されたのはいづれも1920年代の作品ばかりでした。
最晩年にはメキシコに渡ります。
そこで自宅に篭って彼女の行っていた事とは、すべて手元から去ってしまった最愛の作品群の模写であったと言われます。




2014年3月29日土曜日

マティスとルオー



マティスとルオーが親友で書簡がたくさん残されているということは充分に想像できることであったが、実際往復書簡が相当数残されていることが確認されている。

もともと2人ともギュスターヴ・モローのもとエコール・デ・ボザールで学んだ仲である。
ルオーはマチスより2つ下である。
大変優れた教育者でもあったモローの教室で出会った2人。
片やレンブラントの再来と言われモロー教室で度々1等をとっていたルオー。
片や聴講生としてモローに迎えられたマチス。
教室ではかなりのやんちゃであったルオー。
モローに対し堂々とタテをつく学生であったマチス。
これらの思い出も綴られている。


とても素敵なやり取りにもほっこりする。

戦時中の大変な時にお互いに必要な物を送りあったり、それぞれの身内の安否を気遣ったり、体の心配をしたり。
「君は仕事のしすぎで睡眠不足になりやすい。よくねてくれたまえ。」マチス
「最近は昼も夜もよく寝てるよ。この前は鼻に絵の具を突っ込んだまま寝てたよ。」ルオー
「そちらでは亜麻仁油が不足していると聞いた。小瓶を手に入れたので2本送るよ。」マチス
「君の健康状態が優れないと聞き、心配している。早く体調が良くなることを願ってやまない。」ルオー
などなど。


しかしお互いの芸術に関しては驚くほど言及は少ない。

お互いに同時代の批評家たちから大変辛辣な批判を受け続けていたが、お互いの芸術は尊重しあっていた。
「君の芸術への強い共感を信じてくれ」ルオー
「素晴らしく美しいルオーの絵を預かっているなんて運が良い。この絵と過ごすことができて本当に幸せだ。」マチス

2人が現代美術の先駆者として絶賛され始めたのは60過ぎてからであった。
評論家からは「マチスを見習え」などと新聞に書かれることもしばしば。どこも評論家は似たようなものである。

「色彩の魔術師」「喜びの画家」と讃えられるマチス。「20世紀最大の宗教画家」「厳しい内奥の探求者」として確固たる名声を博したルオー。

しかし形体の単純化、黒を一番の色彩においたこと以外は、共通点はなく、かなりかけ離れた芸術の追求を行っていた2人であった。
サーカスを描いてもマチスはその場の広がり・動きの構成を描き、ルオーはピエロの顔をイエスのようになるまで描き尽くす。

やがて
マチスが最後の最後に人生の総まとめとして手がけた作品がロザリオ礼拝堂のステンドグラスと壁画であった。
「今度南仏に行く娘たちは君の礼拝堂を見にゆくよ。」ルオー
これはルオーの芸術の出発点(ステンドグラス職人から画家となった)に重なる。もちろんルオーが生涯追求してきた宗教画をはじめてマチスが描く。
ルオーの最晩期の作品はそれまでの内面を追求した顔ではなく、キリストと人が同じ光に包まれた喜びすら感jられる色鮮やかな風景であった。(実はこの「秋の終わりV」はわたしの最も好きな作品だ)
どちらの作品ももはやこの世のものとは思えない慈愛に満ちた彼岸の光景のように柔らかく発光している。


マチスがいよいよ体調が思わしくなく、見舞いに行ったとき、ルオーは彼の疲労を考え早く立ち去ろうと思いつつ時を忘れとても長く話し込んでしまう。
そして帰り際、玄関ホールにてルオーは長いことマチスの切り絵のヴィーナスを見入っていたという。


マチスが亡くなる前、最後にルオーが病床を見舞った後の2人の手紙がなんともいえない。

「私にとって君の訪問がどれだけ大切だったか。今後二度とない若い頃のひとときを過ごすことができた。」マチス
「どうか安らかでいてくれ。君を満足させるためにわたしは何とかやってみよう。わたしはつまらなそうな顔をしているが、内心喜びに満ちている。今晩きみとの話を大切に思い出しながら。」ルオー








2014年3月27日木曜日

デューラー ~ ヒューマニズムの自意識


デューラーの画集を見ました。
これまでまともに見てきませんでした。
新鮮な気分で見ることが出来ましたが、、、
最近観たもののうち最も力を感じさせるものでした。

「自画像」は特にそうです。

ルネサンス以前にこんな絵はまず存在し得ないでしょう。
このイエスのような風貌。まっすぐ前を向いている顔。
あまりにしっかり前を見据えているので、見ているこちらが見られているような感覚に陥ります。
瞳に自分が映されているような。
しかし、実はわたしの遥か先、遠くを強い眼力で見つめているのが解ります。

形式的にイエスや聖人以外にない顔の向きというだけでなく、
内容的にも同等な神聖を帯びた超越者‐自己となっていることを了解します。

そのイエスのごとく描かれた男は高価な毛皮のコートを着ており、
当時の誰もが一言、「ありえない」と呆気にとられて叫ぶような挑発的なものだったと思います。
ある意味、ルネサンス‐人間の復権と言われた時代を映した典型ともとれる自画像だったと思われます。(毛皮はイエスにも当時の画家の身分にもありえない衣装です)
デューラーの他の肖像画では、重要なパトロンであるマキシミリアン1世の肖像画でも頭部は斜め45度を向いています。
他の貴族などは伝統的な横顔です。

はっきり言って舐めています。

極めて意識的な意図的な絵です。
何気なく自分を正面から描くことなど出来ませんから。
横顔なら鏡を見つつなんとか描けます。

はっきり意味と意志を込めて描いていることは間違いありません。
姜尚中さんはこの絵を一言「マニフェスト」と呼んでいました。
まったくその通りだと思えます。
ドイツルネサンスはこの人が切り開いたのでしょう。

力強さを感じます。


デューラーの生まれたニュールンベルクは当時文化の最先端を行く街であり、当然その時代からして激震・地殻変動多くのせめぎ合いに見舞われた時期でしょう。文化的交通の激しい場所ならその揺れ幅も半端ではないはず。(1500年になると世界が滅亡するなどの終末思想も起きていました。)

そこにあってデューラーは大人気の画家・版画家となります。
それはまず彼が類まれな高度な技術を素描にも油絵にも版画にも持っており、おおくの題材を卓越した表現で制作できた点が挙げられますが、それだけでなく、その作品がほとんど版画で出版されていることです。
彼の絵は「ヒエロニムスの書斎」や代表作「メレンコリアー」のような晦渋な作品はありますが、世に蔓延している終末思想に絡んだ「ヨハネの黙示録」などの木版画もあります。これは厳粛で高尚なキリスト教画というより、身近で風俗的な人物の登場する感覚に大変訴えやすい劇画調の内容になっています。これなら特に教養がなくても子供でも興味を持ってその世界を思い感じることが出来ます。実際、市民に大変な好評を得て売れに売れたそうです。

彼の庇護者のマクシミリアン1世が非常に優れたメディア戦略家であったことから進んで版画印刷で様々なアピールをします。そのなかの重要なポイントをデューラーが担います。
デューラーはその制作費の請求にも長けており、それをもとにした資産運営によって生活を豊かに安定する方法を講じています。その点でも事業的にも成功したルネサンス人です。

やはり力強い。

しかし、「メレンコリアー」のような羽をつけた女性芸術家がやはり遠くを鋭く見つめている象徴や謎の詰まった画像。「憂欝は芸術家の魂」と彼自身の言うように。
ニュールンベルクの人なら知らない人はいないという「祈る手」などの敬虔な作品。(その元になった大作は焼失しています)
これらを見ても、デューラーの抱え持つものの大きさと強靭さを感じないではいられません。




2014年3月25日火曜日

山下りん ~イコン画家とは~

明治時代の女流画家で、日本最初のイコン画家。
「生来画を好む」
大変自立心旺盛な女性で、身近に絵を学ぶための良い先生がいないという理由から、単身東京に上京し、まず浮世絵師のもとで学ぶ。しかしそれは自分の求める世界ではなく、洋画を学ぶため工部美術学校に入学し、フォンタネージの下で西洋絵画を徹底的に学ぶ。
成績もよく才能を買われ、その後ペテルブルグに5年間の画学留学を日本政府から認められ、ロシアで学ぶ。しかしこれはイコン画の修養であり、イコン画家となるべく留学することだった。
ロシア正教にも改宗しており、聖名はイリナ。
とは言え、ロシアでイコン画を学ぶということがどのようなことなのかは、本人はまだ十分理解していなかった。

ペテルブルグに着き、修道院でイコン画、つまり個人の発想や想像など一切入れてはならない、はっきりと型の決まった絵の「模写」を来る日も来る日もおこなう修行が続いた。本人はここで始めて事の次第を認識することとなったようだ。
しかし数ヵ月後、エルミタージュ美術館の鑑賞を許され、ここぞとばかりに描きたい画家(特にイタリア画家)を模写し学ぶ場を得る。この期間は山下りんにとって素晴らしく充実した時間であったようだ。だが、すぐにイコン画以外の模写を禁じられる。
修道院でイコン画を描くということは、そのまま修道女として信仰生活を深めてゆくことにほかならない。日本でフォンタネージに西洋絵画を学び、美術館(彼女は絵の博物館と言っていた)で貪欲に自分の好きな画家たちの絵を勉強した山下にとっては芸術的欲求がとうてい満たされるものではなかった。
「ラファエルロのような絵を描きたい」と日記に書き苦悶する日々が続く。
ロシアでも最初の頃は大事にされたが、気が強く喧嘩をしてしまい、周囲の彼女への当たりも次第に悪くなってきたようだ。
結局、5年留学を2年で切り上げ帰国してしまう。

帰国後は暫く絵は描けない状態が続いたが、ようやく日本正教会女子神学校内にアトリエを構え、そこでひたすらイコン画の制作に静かに明け暮れる。彼女はここで改めて(真に)ハリストス正教会に帰依したかにみえる。イリナとなったのである。決意したのでしょう。

模写であるイコン画にはもちろん著名はない。神の姿を伝えるだけなのだから。
山下イリナは他人ともほとんど没交渉で、ここでひたすら300点以上のイコン画を白内障で描けなくなるまで描いてゆき、それは各地の正教会へと届けられることとなる。(ロシアにも大事に保管されている)。



その絵はしかし、アンドレイ・ルブリョフの超然とした聖画と比べると、どこかしら日本的な親愛感の抱けるものになっています。もちろん構図や登場人物が完全な模写であることは守られています。まったく自己を主張することのない禁欲的な無名性による聖画であることに間違いありませんが、筆致が明らかに彼女を不可避的に表してしまっています。爽やかな生気に満ちており、ときに天使や聖母は美しく、凛とした愛おしい姿です。
そこがたまらぬ魅力となっています。
個性とはこういうものかと思いました。
自分というものを律した上でなにか(自分ー自我)を主張することも断念した上でもなお、はっきりと残るべきものこそが個性なのだと。

イコン画に対して祈るときは決して目を閉じて祈ってはならない掟があります。
正教では自分の中に勝手な神を想像してはならぬからです。
でも、このイコン画であれば何びとでも何度でも何時でも祈る事が出来そうです。
もちろん何処でも。

いまも多くの祈りを吸収し、ますます美しいイコン画となっているのでしょう。
焼失したものもありますが、まだ日本に300点以上の彼女のイコン画が教会の祭壇で煌きを放っています。
いつかその小さいイコン画をしっかり目を開けて見てみたいです。


一点だけイコン画の後ろに自分の名前を記名したものがあり(日付もある)、それは生涯離さず毎日祈っていたといいます。
「ウラジミールの聖母」と呼ばれる聖母マリアと幼子のイエスが優しく愛に満ちた表情で頬をすり寄せている画です。


*山下りんのイコン画は以下の教会で見ることができるようです。

所蔵教会一覧


2014年3月24日月曜日

ジャクソン・ポロック



ポーリングとドリッピングさらにオール・オーヴァー。
そして晩年のブラック・ポーリングへ。
異なる新たなアプローチへの芽生えを残し
事故による死で突然の制作永久中断。
44歳とは惜しいものでした。


やはり50年代の絶頂期の作品群(それほど多いものではありませんが)は大変な見応えありますね。
なにより充実が感じられます。
Powerに溢れています。
いつまでも見入ってしまいます。
この緩急自在なポーリングや変幻自在なドリッピングによる、オールオーヴァーの形式が極まった時期ですね。方法がそのまま最大限に生きている。
それが実にはっきりわかる画像ばかりです。

偶然のコントロール。
何かジョン・ケージを思わせる言葉ですが。
ポロックにとって、単なる偶然はなかった、ということです。
必ずそれらを組織化していたということでしょう。
エルンストもそうでしたが。
際どいところで、かなりの力技のようにも感じられます。
単なる偶然の形体の飛散と錯綜に任せていたらこの充実感は生まれなかったはず。


初期の余白や群れの散在するものから、
中心・外部なくオール・オーヴァーに被覆することは、極めて現代的な方向性ですが、
その先に進むとなると、地と図の関係性や次元の異なる形体面がやはり出現してくるようですね。
何かの有機体が混沌とした原始の暗黒の海から湧き出てくるように。
墨汁のような黒を主体に。もどかし気に苦しげに筆書きが現れます。
(何故か東洋的なものも感じさせるのですが)
ポーリング・ドリッピングの技法が極められた神経組織、シナプスの放電を思わせる煌びやかな空間から
忽然とステイニングー染み込みの平面的技法が加わり、始めて生まれる文字のような形体が発生してきました。
その矢先、その生成はすぐに絶たれてしまいます。

この方向性以外は、マレービッチのような、シュプレマティスム・アーキテクトンの方向性しかないか。もちろんこちらのほうが先(1920年代)ですが。


最盛期イタリアの評論家に「あわれなパブロ・ピカソ」と言わしめたジャクソン・ポロックですが、
ピカソを最後までライバル視していた彼はどう考えていたのでしょう。
少なくとも死ぬ間際の作品群にはまだまだ納得はいっていなかったはずです。
恐らく試作の段階だと思います。
この先はどうなっていたでしょう?



2014年3月23日日曜日

フランシス・ベーコン ~ オレンジと灰の衝撃


絵画鑑賞でよく言われる、それぞれの人がそれぞれの見方をすればよいのです。
作品は作家の手を離れ、ひとり歩きするもの。
見る人が自分の思うように見ればよい。

確かにこれ以外に見る方法があるとは思えません。
しかし、ベーコンを観てしまうと、自分の見れる範囲で見れば良い、
などという生ぬるい見方は拒絶され

自分が変わることを要求されているのに気づきます。


あまりにも強烈なオレンジと灰の対比による肉の塊に見える人物像。
その圧倒的な物質感!
しかしそれが一種の観る側への意図的なショックを与える仕掛けでもあることが解ります。

そして今や無防備な意識状態で向き合うその画像は、あらゆる側面からその人間を掴みだして同時に定着した肖像であることが俄かに判明するのです。
それは全く違う人の顔しかしさらに実感できる顔の出現を顕に見てしまいます。
これは自分の外に出ないと見えてこない絵の側に重なって知るような体験と呼びたいものです。
ベーコンの、モデルを前にそれが想起された速度も伝わってきます。


少なくともこたつに入りながらフ~ンと眺めて過ごせるたぐいの絵でないことだけは確かです。
そのような事態ではありません。
距離ー自己を解体する事件です。
ベーコンを観るということ。


フランシス・ベーコンの絵は人物画が多いです。(初期はシュルレアリズムのオブジェが見られます)
しかしわれわれの見る人物画はその多くがなんと見慣れた「顔」でしょう。
アンドレブルトンのかつて述べたように、「頭部の形など誰でも知っている!」
もう辟易しています。
似顔絵を見ても意味はないのです。
何も観たー知ったことにはならない。

「神経組織に直接作用する」絵を描くことを常に考えていたベーコンです。
その「方法」はかなりの成功をみたと言えましょう。

私が思うに、彼は最もシュルレアリスムを推し進めた画家のひとりと言ってよいと思います。
真に現実に迫れるだけ迫った画家として。


しかしひとの目はすぐに慣れてしまいます。
作品発表当時はほとんど受け入れられなかった画像も
評論家などの賛美の言葉で記号的に覆い隠され、
急速に受け入れられ持て囃され高額の値が付き始めます。

それがベーコン自身にどのように影響していくか。
ここでピカソのように(ピカソの場合は作品ごとですが)全く違うアプローチを対象に対して取るなど再度マイノリティの視座を構え、方法論を提示していくか。
どうするかです。

どうなんでしょう、フランシスベーコンのオレンジと灰の一連の絵の後の後期の洗練した絵はともすると、自分の確立したスタイルの踏襲のようにも受け取れるものがあります、、、。


それはともかく、20世紀を象徴する人間像といわれる人物像の一群は大変なインパクトをもって迫り来るもので、これほど過激な人物像は他に見当たりません。
あのオレンジと灰の人物画は、衝撃とともに、いまもこころに深く浸透してゆくのです。




2014年3月18日火曜日

画家(彫刻家)の名言-3

Giorgio de Chirico


16.キリコ

「ニーチェが発見したのは、気分(シュティンムンク)に基づいた不思議な深淵な詩情、神秘的で無限な孤独であった」




17.ジャコメッティ

「私が見たものを記憶によって作ろうとすると、恐ろしいことに、彫刻はしだいしだいに小さくなっていった。それらは小さくなければ現実に似ないのだった」


「それでも、頭部や人物像は微小なものだけがいくらか真実だと私には思われた」


「今度は、驚くべきことに、それらはことごとく細長くなければ現実に似ないのだった」



18.エルンスト
「1919年のある雨の日、ライン河のほとりにある都市にいたとき、人類学や微生物学、心理学、鉱物学、古生物学などの実用図解用のオブジェが載っている挿絵入りカタログのページが、突然
驚愕的に私の視線にとりついた」



19.マレービッチ
「私はフォルム・ゼロにおいて変貌を遂げ、アカデミックな芸術の掃き溜めから私自身を引き上げた」

「絵画を絵画たらしめているものは、色彩とファくトゥーラ(テクスチュア?)であり、これこそが絵画の本質である。しかし、この本質はつねにテーマによって損なわれてきた」


20.バルテュス

「生まれた初めて飼った猫の名前は『ミツ』。以来私のまわりにはいつも猫がいた。
猫と同様、私は人の言いなりになるのは嫌だし、猫と同様、私は独学者であって、陳腐な決まり文句やでれもがたむろするような場所は好まない」

2014年3月15日土曜日

ゾンネンシュターン ~ 芸術の起源=魔術?


女からの逃走

ゾンネンシュターンは、狂気の妄想とエロティシズムを色鉛筆で紙に描きつけている。
大胆にしかも細心の注意を払って、魔術を執り行うような手順に従い。
彼の目には火のような確信に満ちた狂信の光が凍てついて点り、紙面を照らしている。

わたしはたしか、その絵を銀座の画廊で見たことがある。かなり昔のことだ。
満月が二つ合体したような巨大な御尻と獰猛な光る歯が印象に残っている。

ゾンネンシュターンとはなにか?
「太陽と星」
名前からしてダリよりも激しく直裁な自己顕示欲を感じさせる。

現代美術史のコンテクストにまったく属さない徒花?とは言え、根源的な何かに根を持つ妖しい花であることは直感できる。
一度見ると目を離せなくなり、幾度も日常の脳裏に白昼夢のように浮かび上がってくる画像。
太陽の明るい世界にも薄暗い星の元にも。
光にも負けることのない強度を持った悪魔のよう。

単純化された円やハート形の尻に乳房、細長く先のとんがった鞭状の舌・尻尾・性器、大きな羽に裂けた口にはぎざぎざな鰐を思わせる歯。
これらすべてはゾンネンシュターンの呪術にはなくてはならないもの。
太古、呪術と芸術の分かれていない暗黒の土地の儀式が忽然とひとりの画家によって行われた。
いかなる流れからも超然とし。
恐らく本人にも自覚なく。

ゾンネンシュターンとは、何ものか?
などいまさら問うても意味はない。
これらの画像群はどこから生じてきたものか。
画集で見ると何やら曼荼羅を思わせる確かな形態の志向性が窺える。
無意識的で意図的な働きを想わせる。
渦や円環が構造的にダイナミズムをもって運動している。

われわれの文化圏ではない何処かの土地の「天地創造」を示す物語の断片にも見えてくる。
しかしそこに描かれる動物、男、女はひどく凶暴で禍々しく破壊と敵意と嫌悪の情をあからさまにその表情に示している。が、ただそれだけではない。
その饒舌さと装飾性、ユーモアを漂わせたそれは何か暗示的でもあり象徴的でもある。下手をすると精神分析家にはもってこいの素材かもしれない。
しかし警告すら感じさせる余裕に満ちてもいる。


新たな破壊と生成の神話。

彼の絵は
何故か以前ぼやっと見たときより、身近にそして現代に差し迫って来ている。

Moon Prisoners

2014年3月14日金曜日

レオノール・フィ二 ~ 女しかいない空間



Leonor Fini

フィニは多くの人種の血を引き継いでいます。(多国籍で複雑な家系図です)
ごく若いうちから絵を描き始めますが、神秘的で瞑想的な資質をもって小説も書き、古代の祭儀を、その風貌からも執り行う巫女のような役割をその協力者ー芸術家たちとの間で果たしていたようです。
ボードレールやポー,マンディアルク等の挿絵も描いています。
さらにオペラ座等の舞台装置と衣装デザインも任せられていました。
彼女の特異な資質がそれらの芸術家を周囲に集めます。

レオノール・フィニの絵には、初期にはただ眠っている、ほとんど人形のような男がいましたが、なんというか暗さや呪術的な雰囲気が影を潜め、パステルカラーの非常に美しい色彩と、シンプルに洗練された構図が画面を支配してゆくにつれ、、眠る男の位置にいつしか女が確かな存在感で恍惚と収まっていたことに気づきます。
これだけを見れば、女ー男の構成から女ー女に形式・内容とも変わってしまったように取れるかとも思います。
しかしこれについて、絵が変わってしまった等の驚きなど観る側には微塵もなく、実体感の薄い今にもメス化しそうな男がいるより、こっちのほうが本来的に思え落ち着くのです。元からあったテーマにより近づき説得力が増し、絵そのものがビビットになりました。
この絵を見て、原始母権的社会のビジョンについて論じる人もいますが、確かに女性ならではの根源的な想像力ー幻視力に裏打ちされたビジョンであると想えます。

ポール・デルボーも女しかいない空間を描いています。骸骨という他界のものたちとオットー・リーデンブロックという他所者(文脈から遊離した異次元の存在)とときおり迷い込んだ自分(作者)以外には住民は、完全に女だけです。
これは、厳格な母による少年期の性的抑圧から発動した絵と言われるのが通説になっています。(事実デルボーは母の死後、今日広く知れわたる絵画群を爆発的に描き始めました)
でもデルボーの裸婦たちはみな目を大きく見開いたまま眠っています。だから骸骨と関われるのです。覚醒した女はいません。

フィニの絵はやはり旺盛な生命力と想像力(女性性)による太古的な視覚の獲得によっているところが強く感じられるものです。瞑想していてもその場で目を覚ますしなやかな存在です。

汽車にあっては、フィニは大変単純化し洗練された構図で、車内でシートに座り向き合う女性同士を描いています。やはり恍惚として瞑想の中にいる女とそれをじっと見つめる女がいます。やがて閉じた眼を開き二人が静かに見つめ合うこともすでに見えています。
デルボーは裸婦の傍や間に電車が停まっています。どちらを描きたいのか、どちらもでしょう。彼は不要なものなど一つとして描きません。ただ、裸婦たちの目は何も見ていません。これからも、永遠に見開いた目は何も見ることはありません。

思わず、裸婦と汽車の関係でデルボーを呼んでしまいましたが、フィニはフロイトで語られ完結する画家ー小説家ー舞台・衣装製作者ではなく、多くのルーツを持つ根源的な生命の(女性性)の開放者であると見れます。

「夢先案内猫」なども絵画と合わせて読みたい画家です。
猫が大好きな作家です。








2014年3月13日木曜日

画家の名言ー2

画家の名言その1に続くその2です。

次回があるか、ないかは分かりません。
(読者がいればその3も考えます(笑)

レオノーラ・キャリントン



7.ダ・ヴィンチ

「十分に終わりのことを考えよ。まず最初に終わりを考慮せよ。」
「想像力は諸感覚の手綱である。」
「感性は地上のものである。理性は観照するとき感性の外に立つ。」
「われわれをめぐるもろもろの物象のなかでも、無の存在は趣意を占める。」



8..バルテュス

「伝記的事実は必要なし。バルテュスは画家で、彼については何も知られていない。ゆえに絵を見よう。」



9.デルヴォー

「わたしはこどものころの時期の汽車を描いている。そうすることによってわたしのこどもの時期そのものについてのなにかを描いているのだ。」



10.エッシャー

「彼の頭部、更に正確にはその両眼の中央の一点が、この全域の絶対の中心となる。彼がどの方向に向き直そうと、彼はその中心点にとどまっている。エゴはその世界の不動の核芯である。」



11.ドニ

「絵画とは、戦場の騎馬とか裸婦とか何らかの物語であるまえに、本質的に一定の秩序で統一された色彩によっておおわれた平面であることを銘記せよ。」



12.カンディンスキー

「さまざまな音調と音のテンポはつねに変化し、われわれの周囲をうねって螺旋状に上昇し、ついで突然崩れ落ちる。」

「音楽につづく第二の芸術は絵画である。絵画は、まさに今日から、構成なしには考えられない。」



13.マルク

「事物の有機的リズムに対する私の感覚を高め、血液の脈動と流動のなかで、また自然や樹木や動物や空気のなかで、汎神論的に自分を感じようと試みている。」

「私は、動物画以上に芸術の生命化に都合のよい手段を知らない。」



14.クレー

「芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、見えるようにすることである。」

「光のなかにおける同時性とは、調和であり、人間の視覚像をもたらす色彩のリズムである。」

「無理にでも分割しようとすると、その引き離された部分は死滅してしまう。分割できなくて融合していることが、本来のインディビデュアリティなのだ。」


15.キャリントン

「意識が明白になるのも、ひとつの幻覚じゃない?!」

「人間の魂は、まだ誰も足を踏み入れたことのない処女林のようなもの。」



2014年3月9日日曜日

印象派の苦悩と快楽 ~ ルノアールとモネ


息抜きに印象派の画集を観ます。
風邪がいっこうに抜けず、全く心身ともに覇気のない今など、
ウイリアム・ベーコンなど観るのはキツイです。
田中泯がベーコンを踊っていましたね。
いつかそれについても書いてみたいです。(田中泯には実際に会った事があります)


印象派の筆は光と色を瞬時に把捉し、「外の空気」に包んでくれます。
内面に沈潜する気分を軽やかに吹き晒してくれます。
そこはかとない太陽の温かみが射してきて
光の渦から形の現れを初めて見る赤ん坊の不安と喜びを知る気分です。

しかしルノアールは、光線の観察が量感と皮膚(血色)の質感を捉えきれないことに葛藤します。
形体を確保するためにアングルに傾いたりもしますが、やがて色彩によってかたまりを肉付けをしていく方法を編み出します。表面を徹底して捉えつつ、生そのもの-内からの活力を描こうとしました。(成功したかどうかは賛否両論ですが)
よくルノアールを讃えて使われるコピー「生の謳歌」の所以です。


モネはオランジェリー美術館の楕円形の2室に計8枚の巨大「睡蓮」を飾らせます。
白内障を患いながらもジヴェルニーの自宅で数百枚に渡り描き続けた「睡蓮」その一瞬のうちに変幻してしまう水面の光と色彩の無限の移ろいの集成でしょうか。
かつて風景画は室内において、その景色という概念を描けばリアリティを持った風景画として立派に成り立っていましたが、印象派の画家は自ら外に出て、全く新たな風景を発見しました。
その時代性-精神性によるものでしょうが、明らかに他の同時代の人々より早かったのは事実です。
モネは最後に誰もが室内においてそれを追体験する場-内面を作ろうとしたのでしょうか。
これが出来上がる一年前に彼は没します。

次々に見出される風景。
明らかに同時代の認識を転倒する視座を人々は得ました。
その最先端を行く画家モネが睡蓮-水面の戯れを題材としたことは象徴的です。
いわゆる写生的-非韻文的(散文詩的)なモノの捉え方が自明化します。

この10年ほど後にはラヴェルが「水の戯れ」を発表します。

この時期でさえ、伝統的な絵を描くフランス画壇を支配するポンピエの画家たちがいました。
しかし、このなかには私の好きなウイリアム・ブークローなどもいます。
あの、「ヴィーナスの誕生」です。
やはり古典的といえばその一言ですが、あの構築美の極みは快感ですらあります。
何と、セザンヌはこのブークローのサロンへの入選を願っていたそうです。
びっくりです!それは土台無理です。次元が異なります。相容れません。
印象派は依然このようなポンピエ(体制派)たちとも戦わなくてはなりませんでした。

さて、日本の風物に傾倒していたモネはジヴェルニーの自宅の睡蓮の池に太鼓橋を架け、竹や桜も植えていたそうです。
眺めているだけで、浄化されそうです。
ともかく早く風邪を治します。






2014年3月8日土曜日

アンドレイ・ルブリョフの画集を見ること~サクリファイスより






サクリファイスの映画を観て、妙に気になったところが、アレクサンドルが友人の医者からもらったアンドレイ・ルブリョフのイコン画集に魅入って、何度も賛美・感嘆の声をあげるところです。私自身画集が好きなので印象に残った部分もありますが、それだけでなくそのジョットに象徴されるようなその絵に、何ともいえぬ引っかかりをもちました。

「、、、これはまるで祈りのようだ!」アレクサンドル

アンドレイ・ルブリョフ(13601430
彼を題材とした重厚映画を一本撮っているくらいですからタルコフスキーのアンドレイ・ルブリョフに対する思い入れには並々ならぬものを感じます。アレクサンドル-タルコフスキーのその絵に対する思いとはどのようなものなのか?

アンドレイ・ルブリョフは修道士であり、また15世紀ロシア、モスクワ派における最も重要なイコン画家(聖像画家)として、正教会では聖人とされています。
イコン画は、通常「聖人、天使、聖書における重要な出来事や喩え話、教会の歴史を画いた画像」ということでくくられます。
絵の特徴としては、平面的画像というように説明されています。「平面的」ということ。


まずこの時期、絵とはみな少なからず、題材は直接神・キリスト教(正教)を扱っていなくても、「イコン画」といえます。(プロテスタントはイコンは使用しないですが
貴族や王の肖像画、静物画、風俗画、風景画、歴史画(多くは神話・宗教に題材を置くため聖画ーイコン画に入る)が見られますが、現代のそれら題材による絵画とは全く異なるものです。
最も大きな根本的な違いは、遠近法が透明化した均質空間における立体的な画像として現代の絵画が成立している点です。わたしたちの見慣れた絵です。

1415Cといえば、初期ルネサンスに入るかと思います。
遠近法の確立する前夜という時期でしょうか?

イタリアのマサッチオが15C、早々遠近法を絵画に導入していましたが。
同時代の画家でまだ風景と呼べる空間を作っていない例が多いことからも
遠近法の成立する、均質空間ー風景は未だ一般化ー透明化してはいないと思われます。
最も自覚的にかつ科学的探求からその空間がたち現れるのは、レオナルドのモナリザの背景となるようです

「イコン画」はこの時点で成立しその形式として現代まで受け継がれているようです
そのほかの題材である肖像画、静物画、風俗画、風景画、歴史画は「風景」ー「遠近法」の内面化ー透明化により、その形式は変遷を遂げて来ています

アンドレイ・ルブリョフに見えるイコン画とは、
ジョットの絵にも如実に窺えるような、存在の数だけ空間をもつような意味における平面的な画像
見慣れた画像ではなく、すでに知っていた画像。
現実に従属しない自立した画像として永遠性を放つ。
であるためにイコンであり続ける。
そのようなイデアとしての画像としてあり続けるものか。
絵画であっても、視覚で捉えるものではない絵画。(写実ではないメッセージ)
ことばとしての絵画といえようか。
実感として認識するのはもはや難しいものですが、
ことばが充分視覚的であった頃の絵画といえるものでしょう。
(再び平面性を見出した現代美術が新たなイコン性を見出しえたかどうか?)



このイコン画ですが、時折Web上で見ると、ブログなどで「イコン画始めました」等、イコン画が「お習字」のごとくに「始め」られていることを知ります。

「仮面ライダーアギト アートアーカイブス イコン画」にもちょっと驚きました。通販サイトプレミアムバンダイからの発売です。

単なる形骸化といってしまえばそれまでですが、平面性はマンガも含め無意識的にも求められてきているようにも思われます。