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2014年3月14日金曜日

レオノール・フィ二 ~ 女しかいない空間



Leonor Fini

フィニは多くの人種の血を引き継いでいます。(多国籍で複雑な家系図です)
ごく若いうちから絵を描き始めますが、神秘的で瞑想的な資質をもって小説も書き、古代の祭儀を、その風貌からも執り行う巫女のような役割をその協力者ー芸術家たちとの間で果たしていたようです。
ボードレールやポー,マンディアルク等の挿絵も描いています。
さらにオペラ座等の舞台装置と衣装デザインも任せられていました。
彼女の特異な資質がそれらの芸術家を周囲に集めます。

レオノール・フィニの絵には、初期にはただ眠っている、ほとんど人形のような男がいましたが、なんというか暗さや呪術的な雰囲気が影を潜め、パステルカラーの非常に美しい色彩と、シンプルに洗練された構図が画面を支配してゆくにつれ、、眠る男の位置にいつしか女が確かな存在感で恍惚と収まっていたことに気づきます。
これだけを見れば、女ー男の構成から女ー女に形式・内容とも変わってしまったように取れるかとも思います。
しかしこれについて、絵が変わってしまった等の驚きなど観る側には微塵もなく、実体感の薄い今にもメス化しそうな男がいるより、こっちのほうが本来的に思え落ち着くのです。元からあったテーマにより近づき説得力が増し、絵そのものがビビットになりました。
この絵を見て、原始母権的社会のビジョンについて論じる人もいますが、確かに女性ならではの根源的な想像力ー幻視力に裏打ちされたビジョンであると想えます。

ポール・デルボーも女しかいない空間を描いています。骸骨という他界のものたちとオットー・リーデンブロックという他所者(文脈から遊離した異次元の存在)とときおり迷い込んだ自分(作者)以外には住民は、完全に女だけです。
これは、厳格な母による少年期の性的抑圧から発動した絵と言われるのが通説になっています。(事実デルボーは母の死後、今日広く知れわたる絵画群を爆発的に描き始めました)
でもデルボーの裸婦たちはみな目を大きく見開いたまま眠っています。だから骸骨と関われるのです。覚醒した女はいません。

フィニの絵はやはり旺盛な生命力と想像力(女性性)による太古的な視覚の獲得によっているところが強く感じられるものです。瞑想していてもその場で目を覚ますしなやかな存在です。

汽車にあっては、フィニは大変単純化し洗練された構図で、車内でシートに座り向き合う女性同士を描いています。やはり恍惚として瞑想の中にいる女とそれをじっと見つめる女がいます。やがて閉じた眼を開き二人が静かに見つめ合うこともすでに見えています。
デルボーは裸婦の傍や間に電車が停まっています。どちらを描きたいのか、どちらもでしょう。彼は不要なものなど一つとして描きません。ただ、裸婦たちの目は何も見ていません。これからも、永遠に見開いた目は何も見ることはありません。

思わず、裸婦と汽車の関係でデルボーを呼んでしまいましたが、フィニはフロイトで語られ完結する画家ー小説家ー舞台・衣装製作者ではなく、多くのルーツを持つ根源的な生命の(女性性)の開放者であると見れます。

「夢先案内猫」なども絵画と合わせて読みたい画家です。
猫が大好きな作家です。








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