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2014年3月23日日曜日

フランシス・ベーコン ~ オレンジと灰の衝撃


絵画鑑賞でよく言われる、それぞれの人がそれぞれの見方をすればよいのです。
作品は作家の手を離れ、ひとり歩きするもの。
見る人が自分の思うように見ればよい。

確かにこれ以外に見る方法があるとは思えません。
しかし、ベーコンを観てしまうと、自分の見れる範囲で見れば良い、
などという生ぬるい見方は拒絶され

自分が変わることを要求されているのに気づきます。


あまりにも強烈なオレンジと灰の対比による肉の塊に見える人物像。
その圧倒的な物質感!
しかしそれが一種の観る側への意図的なショックを与える仕掛けでもあることが解ります。

そして今や無防備な意識状態で向き合うその画像は、あらゆる側面からその人間を掴みだして同時に定着した肖像であることが俄かに判明するのです。
それは全く違う人の顔しかしさらに実感できる顔の出現を顕に見てしまいます。
これは自分の外に出ないと見えてこない絵の側に重なって知るような体験と呼びたいものです。
ベーコンの、モデルを前にそれが想起された速度も伝わってきます。


少なくともこたつに入りながらフ~ンと眺めて過ごせるたぐいの絵でないことだけは確かです。
そのような事態ではありません。
距離ー自己を解体する事件です。
ベーコンを観るということ。


フランシス・ベーコンの絵は人物画が多いです。(初期はシュルレアリズムのオブジェが見られます)
しかしわれわれの見る人物画はその多くがなんと見慣れた「顔」でしょう。
アンドレブルトンのかつて述べたように、「頭部の形など誰でも知っている!」
もう辟易しています。
似顔絵を見ても意味はないのです。
何も観たー知ったことにはならない。

「神経組織に直接作用する」絵を描くことを常に考えていたベーコンです。
その「方法」はかなりの成功をみたと言えましょう。

私が思うに、彼は最もシュルレアリスムを推し進めた画家のひとりと言ってよいと思います。
真に現実に迫れるだけ迫った画家として。


しかしひとの目はすぐに慣れてしまいます。
作品発表当時はほとんど受け入れられなかった画像も
評論家などの賛美の言葉で記号的に覆い隠され、
急速に受け入れられ持て囃され高額の値が付き始めます。

それがベーコン自身にどのように影響していくか。
ここでピカソのように(ピカソの場合は作品ごとですが)全く違うアプローチを対象に対して取るなど再度マイノリティの視座を構え、方法論を提示していくか。
どうするかです。

どうなんでしょう、フランシスベーコンのオレンジと灰の一連の絵の後の後期の洗練した絵はともすると、自分の確立したスタイルの踏襲のようにも受け取れるものがあります、、、。


それはともかく、20世紀を象徴する人間像といわれる人物像の一群は大変なインパクトをもって迫り来るもので、これほど過激な人物像は他に見当たりません。
あのオレンジと灰の人物画は、衝撃とともに、いまもこころに深く浸透してゆくのです。




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