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2014年3月25日火曜日

山下りん ~イコン画家とは~

明治時代の女流画家で、日本最初のイコン画家。
「生来画を好む」
大変自立心旺盛な女性で、身近に絵を学ぶための良い先生がいないという理由から、単身東京に上京し、まず浮世絵師のもとで学ぶ。しかしそれは自分の求める世界ではなく、洋画を学ぶため工部美術学校に入学し、フォンタネージの下で西洋絵画を徹底的に学ぶ。
成績もよく才能を買われ、その後ペテルブルグに5年間の画学留学を日本政府から認められ、ロシアで学ぶ。しかしこれはイコン画の修養であり、イコン画家となるべく留学することだった。
ロシア正教にも改宗しており、聖名はイリナ。
とは言え、ロシアでイコン画を学ぶということがどのようなことなのかは、本人はまだ十分理解していなかった。

ペテルブルグに着き、修道院でイコン画、つまり個人の発想や想像など一切入れてはならない、はっきりと型の決まった絵の「模写」を来る日も来る日もおこなう修行が続いた。本人はここで始めて事の次第を認識することとなったようだ。
しかし数ヵ月後、エルミタージュ美術館の鑑賞を許され、ここぞとばかりに描きたい画家(特にイタリア画家)を模写し学ぶ場を得る。この期間は山下りんにとって素晴らしく充実した時間であったようだ。だが、すぐにイコン画以外の模写を禁じられる。
修道院でイコン画を描くということは、そのまま修道女として信仰生活を深めてゆくことにほかならない。日本でフォンタネージに西洋絵画を学び、美術館(彼女は絵の博物館と言っていた)で貪欲に自分の好きな画家たちの絵を勉強した山下にとっては芸術的欲求がとうてい満たされるものではなかった。
「ラファエルロのような絵を描きたい」と日記に書き苦悶する日々が続く。
ロシアでも最初の頃は大事にされたが、気が強く喧嘩をしてしまい、周囲の彼女への当たりも次第に悪くなってきたようだ。
結局、5年留学を2年で切り上げ帰国してしまう。

帰国後は暫く絵は描けない状態が続いたが、ようやく日本正教会女子神学校内にアトリエを構え、そこでひたすらイコン画の制作に静かに明け暮れる。彼女はここで改めて(真に)ハリストス正教会に帰依したかにみえる。イリナとなったのである。決意したのでしょう。

模写であるイコン画にはもちろん著名はない。神の姿を伝えるだけなのだから。
山下イリナは他人ともほとんど没交渉で、ここでひたすら300点以上のイコン画を白内障で描けなくなるまで描いてゆき、それは各地の正教会へと届けられることとなる。(ロシアにも大事に保管されている)。



その絵はしかし、アンドレイ・ルブリョフの超然とした聖画と比べると、どこかしら日本的な親愛感の抱けるものになっています。もちろん構図や登場人物が完全な模写であることは守られています。まったく自己を主張することのない禁欲的な無名性による聖画であることに間違いありませんが、筆致が明らかに彼女を不可避的に表してしまっています。爽やかな生気に満ちており、ときに天使や聖母は美しく、凛とした愛おしい姿です。
そこがたまらぬ魅力となっています。
個性とはこういうものかと思いました。
自分というものを律した上でなにか(自分ー自我)を主張することも断念した上でもなお、はっきりと残るべきものこそが個性なのだと。

イコン画に対して祈るときは決して目を閉じて祈ってはならない掟があります。
正教では自分の中に勝手な神を想像してはならぬからです。
でも、このイコン画であれば何びとでも何度でも何時でも祈る事が出来そうです。
もちろん何処でも。

いまも多くの祈りを吸収し、ますます美しいイコン画となっているのでしょう。
焼失したものもありますが、まだ日本に300点以上の彼女のイコン画が教会の祭壇で煌きを放っています。
いつかその小さいイコン画をしっかり目を開けて見てみたいです。


一点だけイコン画の後ろに自分の名前を記名したものがあり(日付もある)、それは生涯離さず毎日祈っていたといいます。
「ウラジミールの聖母」と呼ばれる聖母マリアと幼子のイエスが優しく愛に満ちた表情で頬をすり寄せている画です。


*山下りんのイコン画は以下の教会で見ることができるようです。

所蔵教会一覧


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