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2014年3月9日日曜日

印象派の苦悩と快楽 ~ ルノアールとモネ


息抜きに印象派の画集を観ます。
風邪がいっこうに抜けず、全く心身ともに覇気のない今など、
ウイリアム・ベーコンなど観るのはキツイです。
田中泯がベーコンを踊っていましたね。
いつかそれについても書いてみたいです。(田中泯には実際に会った事があります)


印象派の筆は光と色を瞬時に把捉し、「外の空気」に包んでくれます。
内面に沈潜する気分を軽やかに吹き晒してくれます。
そこはかとない太陽の温かみが射してきて
光の渦から形の現れを初めて見る赤ん坊の不安と喜びを知る気分です。

しかしルノアールは、光線の観察が量感と皮膚(血色)の質感を捉えきれないことに葛藤します。
形体を確保するためにアングルに傾いたりもしますが、やがて色彩によってかたまりを肉付けをしていく方法を編み出します。表面を徹底して捉えつつ、生そのもの-内からの活力を描こうとしました。(成功したかどうかは賛否両論ですが)
よくルノアールを讃えて使われるコピー「生の謳歌」の所以です。


モネはオランジェリー美術館の楕円形の2室に計8枚の巨大「睡蓮」を飾らせます。
白内障を患いながらもジヴェルニーの自宅で数百枚に渡り描き続けた「睡蓮」その一瞬のうちに変幻してしまう水面の光と色彩の無限の移ろいの集成でしょうか。
かつて風景画は室内において、その景色という概念を描けばリアリティを持った風景画として立派に成り立っていましたが、印象派の画家は自ら外に出て、全く新たな風景を発見しました。
その時代性-精神性によるものでしょうが、明らかに他の同時代の人々より早かったのは事実です。
モネは最後に誰もが室内においてそれを追体験する場-内面を作ろうとしたのでしょうか。
これが出来上がる一年前に彼は没します。

次々に見出される風景。
明らかに同時代の認識を転倒する視座を人々は得ました。
その最先端を行く画家モネが睡蓮-水面の戯れを題材としたことは象徴的です。
いわゆる写生的-非韻文的(散文詩的)なモノの捉え方が自明化します。

この10年ほど後にはラヴェルが「水の戯れ」を発表します。

この時期でさえ、伝統的な絵を描くフランス画壇を支配するポンピエの画家たちがいました。
しかし、このなかには私の好きなウイリアム・ブークローなどもいます。
あの、「ヴィーナスの誕生」です。
やはり古典的といえばその一言ですが、あの構築美の極みは快感ですらあります。
何と、セザンヌはこのブークローのサロンへの入選を願っていたそうです。
びっくりです!それは土台無理です。次元が異なります。相容れません。
印象派は依然このようなポンピエ(体制派)たちとも戦わなくてはなりませんでした。

さて、日本の風物に傾倒していたモネはジヴェルニーの自宅の睡蓮の池に太鼓橋を架け、竹や桜も植えていたそうです。
眺めているだけで、浄化されそうです。
ともかく早く風邪を治します。






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