AdSense

2013年12月28日土曜日

The Dolphin Brothers / Catch The Fall

The Dolphin Brothersとは、Japanのメンバーであるドラムのスティーブ・ジャンセンとキーボードのリチャード・バルビエリのグループです。どうやら、彼らはボーカルのポップナンバーを発表する際にThe Dolphin Brothersと名乗るみたいです。それ以外のときは、”ジャンセン・バルビエリ”または、”ジャンセン・バルビエリ・カーン”だったりします。


アルバムによって、あら、外しちゃったと思うものと、最初から素晴らしいと分かっていて買うもの、そして未知数のもので多少の勇気を持って買ったら大あたりですごく得したというものがありますが、これは3番目に当たる大当たりアルバムです。

こういうのをご紹介できると嬉しいものです。


JAPANは断るまでもないビッグネームですし、デビッド・シルビアンはデビッド・ボウイよりも下手すると有名かも知れません。ミック・カーンもかなり名は知れています。しかしスティーブ・ジャンセンとリチャード・バルビエリのデュオだよ、と言われてピンとくる人はさほど多くはないと思われます。あくまでもJAPANのメンバーとして知っているだけの人が多いのでは。
そしてJAPANやデビッド・シルビアンなら即買いという人も、このデュオの音を聞いたことのない方は、微妙と思ってすぐに手は出せないかと推測します。

しかしまったく微妙ではありません。キーボードとドラムそして大変控えめなボーカルで、これほどポップで素敵なアルバムが出来てしまうのだ、というお見本のようなアルバムです。もちろんゲストミュージシャンとしてギターとベースは呼んでいます。
あくまでも基本はキーボードとドラムそして大変控えめなボーカルですが。
デビッド・シルビアンも間違ってもシャウトしたり叫んだりするようなボーカルではありませんが、この弟のほうは、さらに徹底してアグレッシブなものすべてと無縁に思えるボーカルです。
何言ってるか聴き取れない位のボーカルです。
スタイルとしてではなく、本質的に。
元祖草食系ボーカルと呼ばせてください。

このビートは骨格はしっかりしていますが極めて静謐であり宗教的な雰囲気を湛えています。
宗教と言っても大変激しいエナジーを真向から食らうタイプのものがありますが、その対極にあるものです。何といっても元がJAPANですから。

サウンドとしてはどの曲も大変聴きやすく、すーっと曲のほうから耳に入り込んでくると言ってよいような。また、旋律が良い。大変きれいです。そしてポップでテンポが速くても全くハードでない。もちろんヘビーにはなりようがない。そんな曲たちです。どれも。
でも軽やかとか軽いというのとは似て非なる音です。
核がはっきりあってしっかりしたヴィジョンに支えられ一音一音が確かに響いて流れてゆきます。
内省的に繊細にひたすら。


ブライアン・イーノを想わせるサウンドです。
一度聴いたらいつまでも耳に、脳裏に残り続けます。
ひとたび心を捉えたら忘れることは不可能な音楽です。

シンプルであるため何時でも何処でも思い出してしまう。


恐るべき呪縛的草食系!(小泉流に言えば)

YMOの高橋さんもお気に入りのデュオだとか。
ものすごく納得(爆

どこかで見つけたら、買いだと思います。
1987年Virginから発売。

それから、ビデオ・DVDがあったら、「NASAのPV」があるかどうか確認してみてください。
トワイライト・ゾーンのなかのあまりにも美しいPVです。曲はひたすら厳かで抒情的で静謐極まりなく流れ、淡々と巨大なロケットが昼でも夜でもない時間帯に運ばれてゆくドキュメンタリー映像です。まさに音楽と映像世界が一体化した、NASAの神々しい光景なのです。
これは、ドルフィンではなく、通常のジャンセン・バルビエリで作っています。








2013年12月26日木曜日

ピーターハミル ”Fool's Mate” 雑誌もすべて持ってます。


わたしの大好きなアーティスト、ピーターハミルについて書こうと思います。


渋いと思われる方も少なくないでしょうが、時折無性に聴きたくなるひとなのです。
頭の中でよく鳴り出します。
ロバートフリップやピーターガブリエルと並ぶロックアーティストと呼べるでしょう。


来日もしたようですね。
とてもファンとも思えない言い方ですが、私はもう15年はロックをまともに聴いていませんし、
お気に入りのアーティストの動向を追ったりもしていません。
コンサートなど行ける可能性が0である以上、CDに気づけば購入するかどうか、というところです。
最近は、もっぱらiTunesからのダウンロードで済ませてもいます。
CDは兎角がさばるので。LPよりはましですが。


そういえば、かつてiTunesから購入した曲がかなりの数消えているのですが、どなたかそのような経験された方いますか?
何故なのか、原因に思い当たることがないのですが、困りました。
一度、買っているので再度ダウンロードすればよいかとは思っていますが、曲自体、正確に覚えていないのです。



済みません。余計なお喋りでした。
では、今回からピーターハミルのアルバムについて書きます。
”Fool's Mate”71年ファーストソロ。(実はどれでもよいのです。ピーターの場合は。)
これに合わせて、日本でFool's Mateという音楽雑誌も生まれ、私は素人同人誌そのもののような創刊号からずっと読み続けていました。
当時編集長の北村さんという方から直接取り寄せていました。感性的に共鳴でき、音楽誌の中で一番好きでした。
基本ピーターハミル・VDGGファンクラブ的な出発と言ってよいでしょう。
確か北村さんは日野敬三さんと対談もされていたと思います。
そういう方の雑誌です。あらゆる面で、しっくり読めるはずです。次回が楽しみでした。


話を戻します。”Fool's Mate”です。
自身率いるバンド”VDGG”のアルバムと比べると、各曲が短くポップで軽やかで少しばかり温かみを感じますが、ピーター以外の誰からも出てこない魅力的なチューンばかりです。
VDGGの曲として出しても特に問題はないでしょう。何故ならピーターが手掛けるものはみな同じに聴こえるからです。そのボーカルと旋律からも。
ましてやこのアルバム、VDGGのメンバー全員が参加しているのですから、なおさらです。(あまりソロの意味もないような感じですが)


どの曲も明らかにピーターハミル節とでも呼べる独特の旋律ーサウンドそしてボーカルでハードに、ポップに、スローに流れてゆきます。
しかしその短さとポップさストレートさはVDGGの圧倒的に重厚・荘厳でドラマチックに展開するサウンドとスケールは異なります。
曲の尺の問題ですが。内容は死をテーマとしたものなど、いつもの内省的な世界です。
パンクの先駆けだと評する評論家がいましたがホントに達見です。
疾走するVDGGとでも呼べそうな。


何と、なかにはロバートフリップがマンドリン弾いている曲もあります。
ピーターは確かにプログレッシブロックアーティストでありますが、そのスタイルはルーリードが詩人であるように、ピーターも詩集を出版している純然たる詩人であるため、歌詩ーボーカルの重みが他のプログレとは異なります。所謂プログレがサウンドーインストロメンタル中心で歌詞を中に埋め込むのに対し完全に詩が中心に縦横無尽に謳われるサウンドです。ここがピーター&VDGGの特異なところです。


よくアルバムごとに曲が変わってゆき、成長が認められるという類のミュージシャンがいますが、ピーターには無縁の評です。
彼は最初からまったく変わりません。マサチューセッツ工科大学でグループが生まれてからずっと。
常に詩に旋律がそしてサウンドが纏わりついて複雑に展開・進行してゆき迷宮に我々を誘ってゆきます。
彼の作品群のどの断面を見てもそこに聴けるのはピーターの澄んだサウンドです。不純物0の。
100年間ずっとアルバムを出し続けていようと不変だと断言する他ないピーターのサウンド。
それを指して私たちは”ピーターハミル”と呼んでいるのです。


なお、もしピーターハミルを初めて体験されるのなら、このアルバム推奨します。 彼の世界のエッセンスが詰まっていますので。

2013年12月15日日曜日

またも刺繍作品!

清川あさみ氏による、半立体作品とも呼べそうな、こってり立体化した刺繍作品を知りました。
展覧会には間に合わなかったので、パンフレット資料からなのですが。

「美女採集」と名づけられた一連の作品では、女性を撮った大きな写真に積み重ねるように糸が張り巡らされ交錯し相当な厚みで刺繍が縫いこまれています。
スパンコールもたくさんついて大変装飾的な作品です。
テーマは写真の女性とそれに合う動植物との融合ということで、
例えば堀北真希さんは、グッピーとの融合を果たしていました。
写真のモデルはすべて有名な女優さんでした。
他には佐々木希さんとか、吉瀬美智子さんなどCMにもよく出ている人たちです。

広く女性たちから支持を受けているようで、華やかな作品です。
さらに今回は「男糸」という新たなテーマで、俳優の写真をもとに刺繍作品を手掛け、迫力と逞しさを表現しています。
テーマも広がり今後の展開も面白いものになりそうです。

今度は是非、近くでよく見てみたいものです。裏側からも見たいです。かなり面白い模様が見れるはず。

2013年12月14日土曜日

神奈川県立弥栄高校芸術学科美術専攻展

相模原市民ギャラリーにて、12/13~12/15まで開催。なお、最終日は14:30終了。

弥栄高校の美術専攻科の女子高生たちの制作した様々な作品の総合造形展です。

・油絵   ・日本画   ・彫刻   ・版画  ・クラフトデザイン  ・マルチメディア  
・ビジュアルデザイン   ・総合造形
以上、8つの専攻に分かれています。造形関係をすべて網羅してますね。


遠藤彰子氏からも指導を受けたり、イタリア姉妹校交流を通し審美眼を養っているそうです。羨ましい限りです。恵まれた教育環境です。

○1年生作品。
西湖での合宿で描いた「風景画」です。
まだカンバスは使っていませんが、デッサンの勉強を主体にしている様子でした。
基本的に線描をしっかりやって塗り絵的に色を上から塗りこむかたちです。
まずは「線」からということで、この次の専攻課程からそれぞれなのでしょう。
形を構造的に捉えることは大切です。

○2年生作品。
イタリア旅行で吸収したものを成果として発揮しています。(イタリア留学っていいんですねえ)
のびのびと自分のテーマを表現しています。
意欲的な作品ばかりでこちらが嬉しくなります。
絵もカンバスで60号以上のものが並んでいて堂々としてます。
なかでも、日本画にはワクワクさせるものがありました。
日本画の伝統技法にのっとって、ゴッシク調でオカルティックなテーマを耽美的・退廃的に描いたものなどよいですね。これからの日本画の可能性を感じます。特に「寄生」には日本画の形式も逸脱しようとする筆の動きがありスリリングです。
また情念的なことではなく「昇華」などの物理現象に着眼する点も興味をひかれます。イメージが溢れ出てますね。
「星空」はまた秀逸です。アトリエの構成要素を星―星座にダブルイメージさせるなど素敵なアイデアです。
背景に伝統文化に加えアニメ文化の要素が絡み合っていることが分かります。

日本画以外の作品もテーマの追求がよくなされたものが目に付きました。

○3年生作品。
卒業制作ですから、よく練られています。
ここでは、油絵にまず目を惹かれました。
「卒業」コラージュで同一画面に立体的に異なる時間を共存させるなど、勉強してるなと思わず感心しました。夕日の逆光に包まれた不敵な笑みを浮かべる横顔の自画像などなかなかなものです。
抑えたトーンで統一した色調で描かれた肖像画「いとまごい」も方向性は決めていますね。これをしっかり純化していくとひとつの作風ですね。勿論、この方向性の先輩画家は結構いますので、打ち出していくものを鮮明にしていくとよいと思われます。好感のもてる絵です。
「海坊主の夜」というのも面白いです。普通、一つの絵に複数の手法は導入しませんが、ここでは、面も点も線もすべて同質の面積の異なる面と見るべきのようです。それらの要素がグラフィカルに絡んで全体をまとめ上げています。遠近法の強調も効いています。
実験的で挑発的な作品が目に付きました。

日本画も勿論よかったです。この高校は日本画に力をかなり入れている印象をもちます。
他に版画もそれぞれ手法が生かされていました。

平面以外にも彫塑も動勢・量感ともにしっかりあり、、「クロサイ」「家族鍋」「みにつケーキ」等々よくできた楽しい作品がありました。
文庫本の装丁もよかったです。いわゆるエディトリアルデザインですね。

マルチメディアでは、映像作品への取り組みが見られました。
これから、どんどん進めてもらえればよいと思います。
photoshop,aftereffect,premiereなどが使われていましたが、まだ活用余地はいっぱいあると感じられます。MAYAを使って3Dとかにも発展していくのもよいかも知れません。勿論、ワークステーションが前提として必要ですが、学校なら十分大丈夫です。最低3台もあれば出来るでしょうし。
またメディア課と他の専攻との合同でインスタレーション作品を作るのも楽しいでしょうね。その際は、合同でのプログラミング学習も組むとよいと思います。自宅課題だとちょっとキツイかも知れませんので。


ザクッとした見た感想ですが、最後に1年生の作品でしょうか?
「なりきり絵画」!これはヘタすると一番面白いコーナーです。
観賞学習としての効果は十分あると思われますが、もうその「絵」になることで無我夢中という感じですね。とっても楽しかったでしょう。これをやって癖になる人も出てくるのでは。実際こればっかやってる画家がいますね。
でもここの一年生は、遥か上を行っています。なんせ人でないものになったり、群像をやったり、つぼの模様や抽象画にもなってしまっています。抱腹絶倒!ちょっと真似できません。
まさに、ここまでやるか、というノリです。びっくりしました。
また、一般にあまり知られていない画家の作品を取り上げているのもよいですね。確実に観賞学習となっています。

とても贅沢な勉強をしているな、という印象を持ちましたが、マルチメディアなどもっとお金をかけてもらい、もっと面白いものを作ってもらえると、来年の展覧会がさらに楽しみになります。


作品の照明には十二分に気を使ってください。
せっかくの生徒作品です。





2013年12月12日木曜日

「ヌリナビ世界の絵画シリーズ」というアイテム

画家の名言はちょっと待ってください。


ただ、ゾンネンシュターンって何者?
という知人からの話もあり、ゾンネンシュターンの絵は私自身もじっくり見てみたいと思いました。
いろいろ見ているうちに、名言どころではなくなりました。
今度またその機会は持ちますので、そのときは宜しくお願いします。

「女からの逃走」をその知人に紹介しましたが、すぐに彼ものめり込んだようです。
しかし、中途半端はゾンネンシュターン氏に怒られます。

ちょっとしたファンです、は無いです。
徹底的に見てもらわないと。

なにせ唯一無比の強烈な存在ですから。



そんな話をしてから、これはないですけど、
変わったものを見つけましたので、ご紹介です。

もう実際に作った経験のある方もいらっしゃるかも知れませんが、
「ヌリナビ世界の絵画シリーズ」というものです。
面白いといえば面白いでしょうけど。
見た目、パズルという感じもしますね。
パズルなら名画ものはたくさんあります。
しかしこれは、カンバスへ絵の具を実際に使って塗り絵をするのです。

多分、そんなことゾンネンシュターン先生が是と言うはずないですが、
中途半端な余暇を楽しむ人々には、むしろワンランク上の趣味になると良いと思います。
何故なら、パズルをやるより遥かに絵の勉強になります。とくに色面分割の勉強に。

カンバスには、薄い線で細かく面が区切られており、その小さな面には数字がふってあり、
その数字に対応した色を塗っていくのです。
勿論、「絵画」とは根本的に本質的に違うものですが、こういう色の組み合わせで絵が成り立つのか、ということを実際に筆で色を塗りながら確認するのと、ぼやっと前を通り過ぎながら見るのでは雲泥の違いです。タッチ等の重要な要素はすべて抜け落ちますが、そう{アングル}などならもともとツルツルの絵ですから、合っているかなと思いきや、色の面も塗り分けは効きませんでしたね。

セザンヌの絵がお見本にありました。印象派の絵が適しているようで、それっぽい絵がガイドラインに沿って塗れば、見栄えのあるものが出来上がるのです。かなりの達成感はもてるはずです。夢中になる人も出るはずです。もともと細かい作業は人を夢中にさせるものですから。

ゾンネンシュターン先生も大変細かい作業はされています。
ここだけは一緒かも。

「ヌリナビ世界の絵画シリーズ」
パズルよりは絵においては、勉強になる遊びだと思います。
パズルにしようか、これにしようかと迷われたのなら、こちらをお勧めします。



2013年12月8日日曜日

画家の名言その1

画家の名言の特集です

わたしの好きな画家限定です。
面白い画題も含みます。


1.ゾンネンシュターン

が死んだら起こしてくれ」

余は世界にもっとも美しい、もっともおぞましきイメージを生業とする者なり」

人類は、中途半端という病を病んでいる


2.赤瀬川原平

「つまり『説明的』とはそういうことだ。それらしいというだけで『それ』の構造の核心が欠如している」。

「アングルのアトリエはビニール工場だ」



3.ダリ

「人々に、『ダリは一般人のようには死ななかった』といわせるために、わたしは冬眠を選ぶ。」

「冬眠に際して、肉体の主要部分は肛門だと思う。なぜならば、冬眠する動物がまずすることは、新陳代謝を保つために、糞と泥でできたねり粉のようなもので尻の穴をふさぐことだ。それはまた親密さの保証でもあるのだ。」




4.モネ

「私が盲目に生まれ落ち、ある日突然、目が見えるようになったのならどんなに素晴らしかったかと思う。そうすれば、目の前に存在する事物がなんなのかということを知らずに描けるからだ。だから君たちが戸外に描きに出るときには、目にする木とか畑というものの形にとらわれてはいけない。そういうことは忘れて、ただ、ここに四角いプールがある、あそこには矩形のピンクが、黄色い線が、というぐあいに感じ、そのままをカンバスに描きなさい。新鮮な印象をそのまま塗り込めばよいのです。」

「全ては千変万化する、石でさえも」



5.セザンヌ

「モネは目にしかすぎない。ああ、だがなんという目だろう!」

「自然のなかに、円筒形と球形と円錐形を見なさい」



6.ゴーギャン

「われわれはどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか」

「私は、死以外に我々をすべてから解放してくれる出口を見つけることができない」



2013年12月6日金曜日

「こども絵」

「こども絵」が六本木の森アーツ・センター・ギャラリーでおこなわれます。
来年の4月開催です。
今回はローカルニュースではありません(笑
「こども絵」等と云うと、子どもの描いた絵か、と思われる方もいるかもしれませんが、
巨匠たちの、こども(自分のこどもも含め)を描いた作品の展覧会です。

ピカソ、ルノアール、ルソー等の贅沢な画家たちの子どもや家族との繋がり、最近の流行言葉でいえば、「絆」でしょうか、それが窺えるものになるはずです。
もちろん個性的で独創的な「こども」がたくさん見れるはずです。


いつもと違う観点から、絵を楽しむことができるのでは。
ワクワクします。

  

蛇足ですが、最近子供が描いた絵を、「保管から展示へ」という形で、ポスターにしてくれるサービスがあります。
さらに、子供の絵から何と、「ぬいぐるみ」を作ってしまう人たちもいます。この方たちは、アーティストから完全にビジネス化して制作している人まで、いるようです。

2013年12月4日水曜日

ピカソ 

今日は何故かピカソについて一言述べてみたくなりました。
ピカソの全体像と言うのはもしかしたら驚くべきシンプルなものかもしれません。
とてつもない巨人ですが、かつてないほど、何と言うのか、本源的なヒトと言おうか?


ピカソを観て、つくづく思うのは、世にあるすべてのものは彼を突き動かす媒介であってまた、触媒にすぎないのだということ。
クレーにもそれは顕著ですが。
ピカソには、はっきりそれが窺えすっきりするのです。
多分方法を持たない裸眼によって。
ピカソにはルールがない。
ただ凄まじい好奇心と意欲によって。
クレーは理論によって、エルンストは方法・手法によってある意味、作品の生成過程を自ら構造化してみせ、その研ぎ澄まされたツールをガイドに、作品をさらに純化していきました。
もちろんクレーやエルンストのような優れた画家が自らの理論や手法に従属し、自分のスタイルを模倣・反復するような画家でなかったことは云うまでもありません。

例えば少なくともピカソの「アビニョンの娘たち」は、主義として描かれたものではないです。それを彼が確立したというのではなく、究極的に推し進め続けた、というだけです。立体派等とはすべて評論家のつけたレッテルであり、ピカソはものの真実に迫ろうとして迫っただけのことです。

われわれが自然に物に接するとき、それまでの絵画や写真のように凍結した時空ー対象に接している方が不自然です。われわれはひとつの対象に対し、様々な面を瞬間毎に有機的に統合して「見て」います。観るというとき常に遅延しています。眼球自体高速微動しており、画像は記憶による編集を経ています。それが生理的前提としてある上で、常に自分も対象も運動しながら(クレーやボッチョーニの語るように運動こそが存在することの本質です)その外延する動きの総体で対象を捉えています。対象を見るとき、様々な視座を常に自然においている。それを単に精確に描ききろうとしたまでです。別にそれまでと変わった絵を描いてみましょうというスタイルー主義の創設意欲など端からない。

ピカソは様々な形で造形を試み、自分の打ちたてた主義を次々に打ち壊して新たなスタイルに挑んだと言われますが、もともとそんな関わり方などしていません。
彼はいろいろなモノを組み合わせオブジェ、彫塑を作っており、あらゆることをし尽したように見えて、ミケランジェロのような大理石彫刻はやっていないです。
そういえば、そうでしょ!
多分、大理石という素材はピカソにとって、彼がなにかを作り出そうとするための媒介・触媒の顔をしていなかったのでしょう。

ことピカソに関してはことごとく理屈は後付けに過ぎないことが何やらしっくり腑に落ちます。すべてのひとつひとつの創作が、単に新たな直接的な関わり以外の何ものでもなかったに過ぎない。
この不断の好奇心。本源的な汲み尽くせぬ意欲。これが少年期にすでに到達していたあの究極の成熟しきった技量と相まって、媒介の触発で何でも新たに創造していくこととなった。
興味の向かないもの、触手の動かぬものには見向きもしないのは、極めて自然だと思われます。何故、大理石彫刻をしなかったのか、など知ったことではないはずです。何らかの理屈は付くかも知れませんが。
所謂、彼自身芸術とか主義とかそんな派閥的な思惑ー枠から何かを作ってきた訳ではなく、もっと本質的な本源的な力で対象に直に関わってきたのです。
芸術家、言葉の真の意味での芸術家であったヒトです。


今回はこの一点だけにします。

2013年12月2日月曜日

ルノアールをカフェ・ルノアールで



ルノアールで一番好きな絵は、「イレーヌ・カーン・ダンベール」です。
ただ、ひたすら美しい少女像です。同様に美しいものに、ロココ期の画家フラゴナールの「読者する女」があります。
比べてみるとどちらも良いのですが、一歩さらに絵として進化した姿というと、ルノアールのものです。。なんというか一つ更に絵が自由になっている。
どこがというと、端的に示せるところは、背景です。
フラゴナールは、対象と背景を完全に違うものとして描き分けています。
しかし、ルノアールは、キャンパスの中はすべて「絵」になっています。
描き方は変わらない。画布の中味はすべて絵の対象。
フラゴナールにとっては、「読書する女」だけが対象。
背景は背後に退いていればよい。主題とは異質で等質に広がる空間が開けていれば、よい。
そこに、ルノアールと比べると絵として硬いというか、生命感、体温に少し乏しさが感じられます。
しかし、レンブラントのような暗闇にはなっていない。色彩の充分感じられる暗がりであることにホッとします。
ルノアールの作品は絵画全体が生命の喜びの脈打つ清々しい輝きがあります。

しかし、どちらの絵も、筆跡はとても素晴らしい。自由闊達な名人芸といっても良いものでしょう。
色彩もフラゴナールは印象派にあと半歩まで独自に迫っています。
もし、ルノアールと同時期に彼が絵を描くライバルの画家でしたら、大変優れた印象派の画家になっていることは容易に想像できます。
ともかく、どちらの絵を見ても、仏頂面になるような人はさすがにいないでしょう。
この心地よさは、単に見るというより、恐らくわれわれに触れるような姿勢を促してくる絵であるとこに窺えます。それは全てタッチの妙です。見た印象ではなく、触れる印象です。この意味ではフラゴナールはロココを超越しています。色彩の面でも明暗からはもうほとんど脱していますし。

衣服、素肌の触感の豪胆でありながら繊細な捉え方。何という触り心地の良い絵だろう。兎角印象派は光が取り沙汰されて、外光の元での表層の印象の移り変わりにばかり囚われていきます。後期になると光点を用い、厳密な理論化を図り対象に依拠しながら、対象を見失い、抽象としての独自性もない絵に先細りしていきます。
ルノアールは他の印象派の画家ほど外では描いていません。そのことは、絶え間ない光の移り変わりに神経質にこだわり続けるのではなく、質の印象を筆跡の精妙な技術によって、活き活きと捉えるもうひとつの印象派を作り出していたと言えましょう。
室内で描くことも大切です。

ルノアールについてはまだまだ他に言いたいことがありますが、今回はフラゴナールという優れた画家を引き合いに出して、魅力を少しだけ述べてみました。


美味しいスイーツとコーヒーでした。ちょうど良い時間です。では。




2013年11月30日土曜日

酒、ユトリロとロートレック 秋も深まり~もう冬か?

だいぶ寒くなりました。寒々とした絵と言えばユトリロを思い浮かべます。今日は彼から連想できる事柄を書き連ねてみます。絵画についてとか、画家についてというより、ルー・リードの詠む詩にあるような「寒さ」について、ちょっぴりお酒を飲みながら。では。



アル中の画家には、有名どころでユトリロとロートレックがいる。
2人とも天賦の才があったからよかった(名が残った)ものの、そうでなかったら、どうしようもないただの酔っぱらいで終わっていたはずだ。

ユトリロには、クレーやダリ等のように、自分なりの絵画理論などなく、ただ素朴に無自覚にひたすら絵を描いていたことが良く見てとれる。
しかしその目でロートレックを観てみると、ボール紙だろうが継接ぎの板だろうが、自由闊達な筆さばきで見事な絵画作品をモノにしてしまうため、確かにクレバーな絵描きではあるが、ほとんど無自覚に絵を描いている点では、ユトリロとさほど変わらないのでは、と想えてくる。
片や自閉的な子供のように無心に黙々と彼ならではの孤高の「パリ郊外」を描き、片や高性能な自動機械のように何にでも瞬時に伸びやかな線で対象を描きとめてしまう、酒を飲む子供と酒が燃料のロボット。彼らは基本的に絵を描く快感だけで恐らく描いている。技術はいくらでも付いて来るし描くこと自体に障害はない。

ユトリロは淋しい孤独に染まった絵を描くが、当人は私は孤独だとか淋しいとかましてや思想的なことを抱えて制作に臨んでいたとは思えない。そんな自覚などなく描いていたからこそ、あの水準の作品をずっと描けていたと思われる。自分を対象化していたらとても描く事が辛くなる。
ロートレックだって、好きなものを好き放題に描いており、きっちり描ききろう等と言う気すらない。これは、セザンヌが画布の中央部あたりを空白で残しているのとは訳が違う。彼の場合、厳格な意思で残すべきところを正確に残している。ロートレックは多分、あるところまでリズミカルに描いてから、すぐに違う絵が描きたくなるのだ。しかしどの絵もあまりに見事なデッサンで成り立っているため、軽いフットワークで描いていても未完成には映らないだけなのだ。少なくとも何をか考えて描いているようには見えない。

ユトリロは私生児であり、母親はかの恋多き優れた女流画家シュザンヌ・バラドンである。
母親が奔放に生きてゆく中、ユトリロは17歳でアル中になる。しかしシュザンヌはユトリロに絵を描くことだけは教えてくれた。
彼はそれだけを頼りに、「絵画」だの「芸術」だの今トレンドの絵画の[流派」丁度その頃は、未来派・キュビズム・シュルレアリスムの勃興等には何の興味も示さず、絵を描いた。もともと自分が画家だとかいう意識すらもたなかったであろうユトリロは、ただ自分の絵をひたすら描き続けていた。ユトリロにとって絵は自己表現ではなく、ましてそれを手段に何かを訴えるようなものではなく、そんな距離等全く無い自律的な運動、ほぼ呼吸に近いものであっであろう。だから描かなければ間違いなく死んでしまう。実際アル中を抑えるのは絵を描くことだけだった。
描いた絵は、ほとんど人のいない、いても後ろ姿が遠くに見えるだけの、冷えた空気のなか、すべての窓が扉が固く閉ざされたパリの街の姿だ。木々は枯れている。どれも同じ外気と冷たい風が吹き抜ける夥しい数のパリの光景がそのままユトリロの心象―生きる現実と重く重なる。

ロートレックは、由緒ある名門貴族の生まれで、裕福に何の不自由もなく暮らしていたが、階段から落ちる事故で、下半身に障害を抱えてしまった。14歳の時である。
それから、彼は絵を本格的に始める。
当初からロートレックは才能を示すが、彼の絵には重さはない。非常に遊びの精神が感じられ、しなやかな線は活き活きと走っている。実際ユーモアがあり、拘りもない。彼の描く人物たちの表情の誇張を観れば彼がいかに楽しく絵を描いていたか分かる。どんな素材でもあまり気にしないでそれを有効活用して描いてしまう。油絵でもリトグラフでもポスターでも頼まれれば、何でも描いてみせる。ロートレックによってポスターは独立した芸術の一つとして見られるようになったのも確かである。これは彼の大きな功績だが、べつにそんなことどうでもよいことだった。
ロートレックにとって、自分の住処はもはや貴族の世界ではなく、キャバレーであり娼婦の部屋であった。そこで絵を描く以外に道はなかった。彼はムーランルージュの踊り子や娼婦たちとの極めて自然な付き合いの中で、彼女らに溶け込み絵を描いている。そこに生まれる絵はどれも驚くべきスナップであり、誰一人として自分が画家に描かれていることなど気付いていないかの如くである。本当に彼女らはロートレックに気を許しており、いつもの孤独で平穏な空気が素直に描かれていることが分かる。これは稀有な才能と障害の齎すものであろうか。
ロートレックは、熱気あふれる扉の内側に空気のように溶け込み、パリの風俗と人々のあり様に共感を寄せて、アル中の悪化で倒れるまで、ひたすら彼らを描き続けた。


2013年11月28日木曜日

マチスのいくつかの印象

色が何よりも美しい。
灰色の美しさ。ここまで美しい灰色を色として使う画家は少ない。「ピアノのレッスン」
マリー・ローランサンも灰色は効果的に使ってはいたが。
そして黒の美しさ。「エジプト風カーテンのある室内」「柘榴の実のある静物」
しかも、固有色から離れて、描写からは手を切らずに、色を関係性のうちに思うがままに構成して全体を見事に構築する。まったく破れ目なく。これはもう天才という以外に言葉がない。
シニャックの影響で新印象派的な色が窺えるといわれる、「豪奢・平安・悦楽」もそう言われてみると気づく程度だ。
むしろ構図・構成などの点でセザンヌを意識していることが分かる。

実はマチスは色彩だけではない。平面性と立体感(透視図)を絶妙な構図感覚で違和感なく統合している。「装飾的人体」何気なく少しの躊躇も僅かな破たんもなくやってのける、これは実は驚きの技術だ。
また更に、一つの画像=画布のなかに複数の異質の空間を静かな装飾性のうちに構成しているのも、それに気づいて驚愕する。「茄子のある静物」
静謐な空間に見えて、思いのほかダイナミックで重厚であることが分かる。

フォーブと云われていたころは、原色の激しい色彩だけでなく、モチーフにボリュームがある。輪郭線の厚みも力強い。厳格なフォルム。特に「青い裸婦」はまるで彫刻を思わせるものだ。
装飾的で平面的というのがマチスの特性のように言われているが、時期によっては、ものすごい迫力である。ブラマンクのタッチ(動勢)の迫力とは異質だが、迫力では負けない。

フォーブ以降のマチスは、構図の計算と平面性と同一な抑えた色調による作品を追及していく。「しゃぐまゆりのある静物」

マチスにとって旅はとても重要な影響、着想を得る最高の行動であったようだ。旅の度に新たな息吹が絵画に見られていく。例え室内に閉じこもり窓から外を打ち眺め、思考実験や夢想に浸っていても、旅行先に得るものは大変多かったようだ。「ニースの大室内画」
この絵における窓の介在は、マチスの絵には欠かせない構造的な要をなすものとして大きな存在意義を持つ。異なる次元の空間をきわめて自然に融合する「窓」なのだ。これもマチスの発明の一つである。

「ダンス」は多分マチスの究極の作品であろう。最晩年の切り絵シリーズにも継承されていく「平面」の実現といえる。ここで「平面」というが、マチスのように描写を最後まで捨てずにこの平面を達成した西洋画家はほかにいるだろうか?純粋抽象にさっと飛んでしまった画家は最初から別であるが。マチスはその「純粋抽象という無味乾燥」は回避し続けた。


ところでわたしの特に好きな絵を二つばかり。
一つは「ピアノのレッスン」一分の隙もない構成。それでいて楽しいノイズに満ちている。平面性と空間性の融合、それを作る斜線構図の妙。フォーブの面影すら無い、渋い色がまた美しい。キュビズムの最高の成果に違いない。

もう一つは、初期の作品であるが、「読書するマルグリート」
形体がしっかりとらえられたフォーブとは明らかに異なる色鮮やかな美しい作品である。
とても単純化され構図も特に複雑な計算はされていないが。
ルノアールの「エレーヌ・カーン・ダンベール」を見るときのような爽やかで穏やかな気持ちになれる。
一番欲しい絵である。


何より今回よく見て思うことは、連作や実験的な反復的作品はあるが、一点一点が実験的な発明品とも言えるような作品となっていること。ピカソと同様、マチスもマニエリスムとは無縁な存在であり、かつての成果に拘らない、天才であったと言えよう。




2013年11月23日土曜日

素描家としてのクレーから 線のありかた

すべての芸術は音楽の状態にあこがれる、というあまりに有名なテーゼがあります。
クレー自身も有能な音楽家でしたが、彼の素描作品に注目するにつけ、より彼の芸術がもつ音楽性が身に滲みてきました。

まず、線の動き、です。
線の旅です。

クレーは、ぱっと見て全てが把握できるスタティックな空間を作らず、擬似的遠近法によって画面に時間性を組み込んでいることがわかります。
まるでミクロコスモスを旅するように、その線は、中断しては、進み、進んでは停止し、分節が起き、振り返り、反対にも向かう、どちらに進むか熟慮し、線は束にもなる。さらに、流れやたわみも起き、橋を越えなければならない時もある。弧形が幾つもできた後、どうやら親友に出会う。線は収斂し太い震える線となる、しかしそれは長続きはしない。次第に異なった立場をとり、独立した歩みを見せるようになる。そして深い森へと幾つかの線が入って行く。
まだまだ、旅は終わらない、、、。

線はわれわれも辿ってみるしかない。

クレーの線描画が楽譜のようだというのは、構造的に見るとこれだと思います。

また生命の成長をみるように、左上から辿っていく素描画。
これこそ、まさに楽譜という絵も少なくないです。

「すべての生成の根底にあるのは、動きである。」
動きは時間とともに平面を形成し、平面から空間も生成されてゆき。
時間に充ちた空間の構成がおきます。

そして線、そのもの。
一本の線でも豊か。
一音の説得力ある音楽の緊張感はすごいものがあります!

高僧の筆のような線。
微妙な神経の震えそのもののような細やかな線。
何かの飛跡のような線。

これはクレーの得意とするところの弦楽器の弦の震え
それが醸す音色。
その様々な線ー音色のオーケストレーション。

クレーの時間の空間化作業は多様な個性を持った線の動きで豊かな香しい音楽を画布上に現出させることです。

そこに後期のクレーは色彩を被せます。
豊かで微妙な線の構成に、色は深みを与えてゆきます。
いよいよこの世ならぬクレーの素描作品ができあがってゆきます。

クレーは素描が圧倒的に多く、それらは油絵作品の下絵やエスキースなどでは全くなく、完全に独立した作品となっています。これはいかにクレーが線を重要視し、絵にとっての本質であることを認識していたかです。



絵画空間とは、線の質と線の動きによってできあがってゆくことを、クレーの作品を見て再確認してみました。




2013年11月22日金曜日

ティツィアーノ


子供の頃、画集等を学校の図書館で観て、「すげー」といいまず夢中になるのが、アングルだったりする人が多いように思う。
タッチがあれほど残らない写真みたいな絵を描く人も珍しい。
なんともあのそっくり感がたまらない、といった感想にまとめられるあの作風である。
あのペカペカな上手さが仮面ライダーやウルトラマンの強さに重なる思いがして、凄いけど親近感もあるというような。骨董品店の奥の主人の座る隣あたりにでかでかと額に入って置かれているのが結構似合うはず。
レオナルドは確かに凄いのは分かるけど、重すぎる感じがして、哲学者然とした冷徹な自画像など見るにつけ、まじめすぎてみな避けていたようだ。
わたしはその頃、今ひとつアングルには馴染めず、ダリが好きだった。
そして、ヴェネチアのジォルジオーネやティツィアーノもいいなあ、と思ってよく観ていた。
時々クレー、ミロ、エルンストなどにも脇見をしながら。

ティツィアーノは大好きな画家というのとは、少しばかり違うのだけど、身近になくてはならない存在と言って過言ではない。
「性愛と俗愛」などもいかにもその時代のアレゴリー絵画の典型というのもよいが、わたしとしては、「フローラ」や「ウルビーノのビーナス」や「悔悛のマグダラのマリア」や「ダナエ」や「イザベラの肖像」など、まだまだ思い起こすと結構出てきそうだが、こういったものやいろいろな絵にちりばめられたいわばミューズたちに魅せられていた。
上に挙げた中では、「イザベラの肖像」がお気に入りで、本を片手に遠くを眺め、凛とした佇まいの知的な女性がなんとも魅力的であった。まさに同時代における主流スタイルの、地位あるご夫人の肖像画ではある。

ジォルジオーネやティツィアーノの絵は確かに、アレゴリーを纏っていても奇を衒うこと等なく、ミューズたちがことのほか超然としているわけでも、妙に生々しくもなく、特別な美(ブロンズィーノのような)を狙ったものでもなく、美しいのだがしかるべき安定した構図の中に無理なく収まったものである。特に時代を超脱して革新的な創造を果たしたという芸術ではないが、こちらもそんな絵を特に観たいのではない。はっとする美しさ香しさに癒されたいのだ。不安に陥れられたり、迷路に迷い込んだり、悪夢となって夢に見るような刺激物をことさら求める気はない。そうでなくとも、現実はそんなモノだらけだ。すでに悪夢の中にあって、さらに悪夢を求めるほど酔狂ではない。毒には毒をという療法があることは知っているが、扱いを間違えると取り返しがつかなくなる。わたしはそこについては、音楽でやっていた。現状をさらにとことこん深く確認することで毒を皿ごと噛み砕くことを日々つづけてきた。

ティツィアーノのミューズはやはり、身近に必要だった。

しかし当時、親に買ってもらった山田書院の美術全集ティツィアーノの章を読んで、物事や人という存在の厚みについて考えさせられることとなる。
ティツィアーノは出生記録が焼失しており、はっきり何歳生きたのか定かではないが、百まで生きた可能性は高いらしい。貴族並み(実はそれ以上)の生活をしていて極めて贅沢三昧の生を謳歌していた。制作した絵の夥しさは正確には数えきれないようである。技量が高い上に体力も尋常ではない。
質的に近い同等の血の流れているとみられるジォルジオーネとは、その卓抜な表現技能以外は、あらゆる意味で対極である。人格・富・生存時間・絵の作成枚数などにおいて。ひとくくりにベネチア派などと言っておいて。

ティツィアーノはなんと絵を描く傍ら高利金貸しでも稼ぎまくっていた。絵だけでも十二分に稼いでいたのに。その上表向きには支払いが遅れると本当に困るのですなどと貴族相手に手紙を書いてみたり、でも金銭的に困ること等全くない生活地盤を固めていた。今のネオヒルズ族みたいにぎらぎらしたおじいちゃんであった。しかもへたをするとかのミケランジェロよりも丈夫な身体であった。向かうところ敵なしである。その意味では最強の画家である。
あの純粋な「悔悛のマグダラのマリア」のこの世ならぬ美しさ幼気さをあそこまで描き抜き、人々に深い宗教的高揚感を与え名声を勝ち得た画家であるが、同じ主題のものを人気があると分かれば少しずつパタンをズラして市場(いえこの時期はお得意様)に投入していく等、マーケッティングの勘も冴えたモノである。彼こそキャッシュポイントとツールとマインドとセオリーと人脈とスキルを兼ね備えた、ベネチア・ネオヒルズ派(のおそらくボス)であった!
別に画家が清貧である必要等全くない。清貧が画家の属性である訳はない。ピカソを見るまでもなく、多くの画家は例え絵でそれほど稼げなくても資産家であった。自分の家が死後そのまま(多少の改築はするがモローのように)美術館になってしまうようなひとも少なくない。ゴッホだって裕福な家の出である。

しかし面白い人である。ピカソは芸術一本で大富豪になるという完全な正統派であるが、ピカソが単純な人に見えてきてしまう。

ベネチア・ネオヒルズ派のティツィアーノの絵は、やはりどの画家や派の宗教的な絵よりも押し付けがましさがなく、風通しが良い。特に飾りすぎないデフォルメもない清純で美しいモデルたち。技能がしっかりしているためどの絵もアンシンして観れる。
はっとする美しさ香しさに癒されたいときになくてはならない常備薬である。
芸術の人を癒すという属性においては最高の作品ー商品を提供した人である。







2013年11月21日木曜日

ベラスケス


フェリーペ四世のお抱え画家のような得意な位置の宮廷画家で、基本肖像画家として働きつつ、宮廷において宮内配室長さらにはサンティエゴ騎士団の騎士にまで命ぜられたベラスケス。
才能においては、自身天才と呼んで憚らないダリが、フェルメールとともに最高点をつけて大絶賛する画家である。ダリが自分以外を天才呼ばわりするのは歴史上このベラスケスとフェルメールの2人くらいだ。しかしベラスケス当人は大変控えめで思慮深く慎重な性格であったようだ。反面いくらフェリーペが呼び戻そうとしてもイタリアの旅行先からなかなか戻らないといった如何にも芸術家らしい面も窺える。フェリーペにことのほか寵愛されたのも、才能だけでなくこのような性格、人柄に依るところも大きいようだ。フェリーペ自身、彼に制作上の細かい注文や依頼や命令等ほとんど出すことはなく、絵に関しては彼にすっかり任せていたという。彼は周囲の貴族とはあまり接触はもたなかったようで、肖像画も国王フェリーペとその極親しい小人や道化、夭折した子女たちに限られている。通常の宮廷画家にありがちな宮中における華やかさなどは認められない。

ベラスケスの絵であるが、上にも述べたことからも何を描きたいという意思、主題意識はほとんど感じられない。訴えたい内容の表現は構図上からも、色彩の対比等からも、光の当て方からも全く見受けられない。彼の絵には内容が欠落していることが分かる。ただ「絵を描くこと」そのものが主題である。
単に国王の近辺しか描かなかったという題材の乏しさからだけでなく、絵の中に中心がないことは、見ればすぐにはっきり分かることで、ベラスケスにとって題材等はどうでもよく、科学者が実験を黙々とするように、描くという実験を淡々としていたと映る。
しかし作品数は決して多くはない。フェルメールほどの寡作ではないにしても。
彼はどんな絵を描いたと言うのか?
かのダリをして天才と呼ばわしめたものとは。

まず、あまりにも有名な「ラス・メニーナス」であるが、この絵についての研究書や詳しく言及している思想書(哲学書)は多数ある。それをここでまたさらに紹介したり、検討する用意はないうえ、もはや真っ向から分析する意味もない気がする。パッと見には単に画家が王と王妃を描いているところの描写である。絵には今まさにこの絵を描いている彼が描かれており、絵画の位置的な中心・最奥部には、描かれている彼の絵の対象である王と王妃の姿が鏡に映し出されている。勿論2人は画家の前方に立っており、位置的にはこの絵画空間の外ー手前、まさにわたしがこの絵ー現実を見ているような立場にいる。ベラスケスらしい絵である。様々な思想的な解釈は割愛し、どうやって描いたのかを問えば、わたしだったらとりあえず大きな鏡を前に置き、ここにいるマルガリータ王女ほかの登場人物をみな所定の位置に描く。その後奥の鏡に王と王妃を描き加える。ベラスケス大好き人間のフェリーペさんだからよいものの、他の王だったら何でわしがこんなに矮小に描かれておるのじゃ、もっと大きく描き直せとか文句をつけそうな気がすごくするが。「織女たち」も同様な空間を描く。彼自身が鏡のように。
思想的な解釈本では、ベラスケスが純粋に絵そのものを描いた過程において、そこに時代の認識装置ーパラダイムを見いだし、そのテキストから精緻なことばとにんげんの関係、言わば認識のありさまを導きだしているものが多いと思われる。面白いと言えばとても面白く、その絵の構造にはベラスケスの無意識というよりスペインという国の特殊性もかなり色濃い影を落としていることが説かれている。


彼の絵を哲学的な対象とせず観るとしても、やはり不思議な絵である。途轍もない技量で厳格かつ冷徹に描かれていながら、どこか未完成を臭わせる大作であったり、未完だと分かる絵はともかく、未完で終わらせたような絵が目につく。ギュスターブ・モローのようだ。勿論、色彩については平明なベラスケスに対して、モローは対極的な位置にいるが(そういえばダリはモローも大変評価していた)。あの偉大なるムリーリョの師匠であったことも、かのモローがマチス、マッケ、ルオーの優秀な教師であったことと重なる。
それはともかく、速い筆で描かれている。慎重で中庸で高貴な人であったそうだが、いざこれを描くと決まればとても素早い制作であったはずだ。そのタッチからも如実に窺える。これほど動勢が的確に描かれているとは、全体像の形体の厳格さと精緻さからよく観ないと気づかない場合もあると思われるが、間違いなくアングルではなくドラクロワだ。モロー的でもある。
素描作品が少ないと言われているが、素描をそもそもする習慣があったのか?思慮深く慎重な性格であっても、キャンバスにはいきなりズバッと描いていたと見える。多分それで素描があまりないのだ。紛失ではないと思う。

今回、初期から順番に絵を見てみると、当初の褐色が主調をなす、自然主義的な明暗を強調した厳しい絵から次第に「色」が表れてくると「筆跡」も見えてくるようになる。純色も観られるに及んで、そろそろ印象派も予感されるような気配もある。それと同時に筆跡も気持ちよく伸びやかになってゆく。さらに色と筆跡は自由度を増し輝きも窺わせる。そして追求していることは絵画という形式そのものである。これまで意識して見なかったが、ベラスケスの手法が着々と変化してきていることを知った。これは自然なことだが、イタリア旅行はやはり大きい。旅行中相当数の書籍も買い込んだようだ。ベラスケスは読書家で絵画に限らぬ造詣の深さでもよく知られていた。
さて、ベラスケスの絵画であるが、当時「想像力のない、上手な実践者」と中傷されたことがあるそうであるが、ゴヤやエル・グレコのような「あるテーマ」を激情のもとに表現した絵画を念頭に置いての批判であることは、容易に想像がつく。確かにそのような絵画群の対極にベラスケスの作品が存在することは明白である。私的な感情などを一切排除して「絵画」そのものを成立させることこそ、ほかならぬベラスケスの静かなる実践であった。

ベラスケスは生活のため注文画を描く必要がなかったのは恵まれていた。ここはフェルメールとは明らかに境遇が違う。フェリーペ4世はやれ無能だのなんだのと揶揄されてきたが、天才ベラスケスに制作の上で最良の環境を提供し続けたことひとつとっても、そこらへんの王よりも遥かに優れた人物であると言っておきたい。



2013年11月18日月曜日

刺繍アートここまでやるか!

「日本刺繍」の細緻で絢爛たる趣をお伝えしたかと思いますが、日本人のなかには刺繍による造形DNAが深い部分で普遍的に満ち満ちているのでしょうか?と思ったのは、病院の待合室でのことです。

スティーブ・ジョブスがAppleを追放された後に作ったNeXT社に、NeXTcubeというパソコンがあります。ワークステーションになるか。
そのcubeのなんとマザーボード、基板をよりによって刺繍によってそっくりに作ってしまった作家がおります。ホントにそっくり!

わたしは目が悪いのでとある雑誌でマザーボードの写真を見たとき、単にパソコンの基板の写真だと思っただけでした。ようやく見出しに「NeXTcubeの基板を再現!」とあり、それが尋常でない物の写真であることに気づきました。ほう、NeXTcubeの基板がなんで今頃、と思いつつページをよくよく見ると「電気が一切通わない布と糸の不思議な世界」という顛末で、私の中ではまた「刺繍か!」ということになりました。
ここのところ、刺繍には度々驚かされてきています。またやられたか!ということです。
これが刺繍!、、、?という具合に。


わたしが冒頭で、普遍的に、、、などと言ったのは何故かというと、この作家はずっと「日本刺繍」を制作してきた専門の作家とかではないのです。
20年間企業で働いてきて2008年から刺繍を始めたきっかけというのが、「このままクリエイティビティを放出させずに死ぬのは嫌だ」と思い立ち、いきなり糸と針を買いに行き、刺繍をやることにしたと言うのです。大学は版画科を卒業してはいるものの、それとは無関係の生活を続けてきて、いきなりのことです。油絵とかアクリル画とか彫刻などなら分かり易いですが、刺繍なのです!それまで全くやったことがなかったそうで、伝統ある技法など全く知らないのに、作ってしまったと。
これでは、今後突然、肉屋のお父さんが刺繍に走ってしまった、なんていうエミール・ボンボワみたいなことがあっても、受け入れ易い素地がすでにこちらの中に育まれています。

ただ、基板などを刺繍作品にしてしまうというのは、よほど腕に覚えがないことには。あのめくるめく複雑さですから。しかし美学的には分かります。確かに美しいです。対象にすることに何の不思議も感じません。
当人の弁では「駅の自動改札機がメンテナンスで開いていたりすると、つい見入ってしまう。基板のなかでも、チップをつなぎ止めている”足”がかっこよかったりして、美しい」のだそうだ。本人曰く「密度フェチ」わたしも充分共感するところです。

最も深く刺激を得たのはこの言葉です。

「布に縫い付ける行為は、残留思念を込めているような感じで、時間と手間をかけたものほどオーラを発している。小さなスペースで大きな存在感を出せるのが刺繍のおもしろさ」

ここに刺繍とは何かが言い尽くされている気がします。
作者は、全ての作品は玉止めと半返し縫いだけで作っているといいます。他に技巧を知らないそうで。
それでこの手の作品だけで個展も開いている。

会社では営業職だそうです。



2013年11月17日日曜日

女子美美術館収蔵作品展にて

この作品展は11/15に終了となりました。

最終日の夕方観た「女子美美術館所蔵展」

5歳双子の子供連れで行きましたもので、集中して観ることは不可能でしたが、それなりの発見がありましたので、簡単にお伝えします。


1.女子美美術館に関して
  1)門からエントランス、扉などセンスが良く思わず入ってしまう所です。
  2)学生展の場合、無料であることが多いです。今回のような収蔵展でも300円程度です。
  3)会場は絵の見やすい形の広い空間で、照明もよく落ち着いた環境です。
  4)車で行かれるのなら、相模原公園(麻溝公園)の駐車場に停められます。
  5)学生さんの受付の対応も良いです。


2.作品構成に関して
大正から平成までの収蔵作品を「春夏秋冬」に分けて展示していました。
女子美卒業者ばかりではなく、広く集められた作品群です。
油彩と日本画です。サイズも縦250をこすものがかなりありました。
何故か版画のカレンダーが空いた壁面すべてを覆っていましたが、意味・意図は分かりませんでした。


3.鑑賞できた範囲での感想
①三岸節子氏が女子美の卒業生であることを知りました。ここでは、1970年作の「夜」(油絵)です。
夜と言っても、紺や黒ではなくバーントシェナかもう少し赤い色で重く塗り固められた「夜」です。窓枠は光っている物もあり、黒く縁どられた三日月が夜空に貼り付いています。
特別な夜であることは窺い知ることができますが、重苦しい不安な夜です。
層をなす塗り重ねがそのまま重厚さを生んでいます。
三岸氏の絵です。

②三谷十糸氏の「秋の流れ」(紙本着色)1963年作は、うちの双子のイチ押し作品です。
中央よりやや画面右に女性が前を向いて立っております。
瞳は茶に塗り込められており、モジリアーニと一緒で、とても抽象的な存在感を高めます。
髪が模様になっており、背景と同質の描き方です。秋の気配の流れでしょうか、水色を主調とした単純化された平面的な色とフォルムがそれを静謐に表しています。
一見静かで優しい絵に見えて、太く強い輪郭線とも相まってステンドグラスの宗教的な趣やムンクの持つ神秘性を湛えた内省的な作品です。

③柿内青葉氏の作品「十六の春」1925年作と「月見草咲く春」1926年作(両方共、絹本着色)は、それは美しい典型的な日本画です。題名からしてクラクラきます。
「大正浪漫」「大正デモクラシー」と言いますが、大正期の風に触れる感があり、大変新鮮で驚愕しました。
その新鮮な感覚は、時代を超脱した形体にあります。極めて典型的な和服を着たご婦人の座る姿に見えて、その女性の顔はとても現代的な描写で、着物の柄はかなり大胆なアール・デコ調で全く古き良き時代ではないのです。
かえって竹久夢二や中原淳一の描くドレスを着た、パリのキキを思わせる「モダン・ガール」の方が、はっきり時代性を帯びています。
「ハイカラ」な格好をしているわけでは全くないのに、この現代性はなんなのだと、思いますと、ダビンチの「モナリザ」が古いの新しいのなどと言われずに永遠に神秘性を湛えているのと同様にこの絵も時間性を超越しているのかも知れません。
すごい絵を見ました。特に女性の顔です。今の女性の顔そのものです。凛とした端正で知的な美しさです。

④「日本刺繍」について。
この分野が昔からありその技法の流れが現在まで脈々と流れていることを、田沢澄江氏の作品で知ることができました。相模原の女性画家展から7人ほどまとめ
以前ここで書きました記事にも山田美佳氏の作品を紹介しましたが、かなり熟した分野であることが分かりました。豪華絢爛な作品が生み出されています。




2013年11月15日金曜日

グループ「瑛」展&水彩スケッチ「一和会」展 相模原市民ホールにて

*済みません。今回、初アップした際、文の見直しをせず(箇条書きのまま)文意の成り立たないものを載せておりました。ここに改めました。訂正してお詫び申し上げます。

はい、今回もローカル展にようこそ。
「瑛」グループ、「一和会」ともに団員いえ構成員(何か怖い方々を連想してしまいますね)メンバーの方も多いようで作品数もたくさんありました。「瑛」は第6回展、「一和会」は第3回展になるそうです。
では今回は展覧会に接してわたしが感じたことをおおまかにお伝えします。


今回はかなり素人さんの多いグループ展を二つ見ました。自分の描きたいように伸び伸び楽しく描いたというより、どちらかというと上手に描こうとしているものが多く見受けられました。勿論、とてもこなれた見応えある作品や、上手で無駄のない筆運びが窺える物もありました。しかし、ぐっと惹かれる絵は以下2点の要素をもった絵だと思います。

1.独自の手法で描いたもの
2.n-1の発想によるもの


まず自分なりの技法と描写方を見出している人はとても魅力的な作品を生み出しています。完全に他の作品と差別化できており、真っ先に絵が飛び込んできます。
それは事物の単純化からパタンを見出して構成している作品です。対象からその煩雑な動きに引き摺られず、自分なりの美-法則を発見し、自分なりにパタン化して表現しているものです。それは複雑であっても整然として明快であり、楽しく心地良く、何より「作品」になっています。
作者は具現化するまで絶えず好奇心を持ってこうしてみたらどうか、ああしたらどうか、など常にあれこれ実験をして得た結果ですね。
それも子供のように楽しんで。
これが大切なんだなとつくづく思いました。
一生懸命、見に来た人にその経緯を説明している作者さんがいて微笑ましいものでした。
こんもりとした草叢を6つの塊に分け描き方(色の塗り方)を分けて描いたものです。とても心地よく見栄えの良い絵本の挿絵みたいでした。
珈琲で色の下地を作って成功した事例も面白かったです。カラスウリのデッサンにその下地はとても渋く、効果的で合っていました。

また、水彩や水墨画などに限らず全ての創作の基本だと考えるのですが、n-1の発想で創作することです。
はっきり言って、講師作品以外、水彩画コーナーの絵は、描きすぎが大変多くを占めていました。描き過ぎと言うと誤解を招く言い方ですが、要するに一本の線で形が決まらないため不確かな探りを入れる線を何本も入れてしまう。
特に輪郭を成すペン。線が過剰に説明的で必要の無い線が多過ぎるものほどいかにも素人くさくなってしまいます。
クロッキーをどれだけしているかがとても大切であることが分かりますね。よい作品はクロッキー-デッサンが出来ていて安心して観られる。
さらに良いものは、多少の揺らぎのある線を8分目で停め、輪郭を閉じない。足りないところで終わらせる。
これがとても風通しが良くて気持ち良い。
こういう作品は見入ってしまいます。自分がその線をなぞるように見てしまいます。
対象の動きに引き摺られ線がゴリゴリ入ってしまったら、それを元にもう一枚新しく描き直すと良いものになると思われます。勿論これは透明水彩の彩色にも言えます。重ねすぎてしまったら、即新たに描き直す。混色の妙もありますが、一歩手前で退くことが大事です。
足りないくらいが丁度よいですね。

今回、絵を描くときの心構えを再認識させてもらう良い機会となりました。また、このようなグループ展には足を運んでみたいです。

2013年11月14日木曜日

Procol Harum プロコルハルム 10/10

9. Procol's Ninth          1975
何よりも大きな変化はプロデューサージェリー・リバー&マイク・ストラーというわたしはまったく馴染みがなかったが、AOR界では大変著名な実力プロデューサーということだ。

プログレッシブ界(と便宜的に言っておくと)の動向は、1曲45分位の楽曲を研ぎ澄ました演奏テクニックで畳み掛けるように聴かせる、心臓の弱いリスナーにはついていけないようなアルバム制作が続いている一方で、ピーター・ハミルのように、そのサウンド作りの張本人だったようなアーティストが短くハード&ストレートな革新的な曲(パンクの原型)を出してきた。ドイツの自覚的なアーティストたちはすでに3年くらい前からポストロックに走り、CAN、NEU!、FAUST等、KRAFTWERK以外にも飛び抜けた世界観と発想とテクニークを持つアーティストアーティストたちがいよいよ台頭してきていた。どれも聴いていてその革新性がどうのこうの言う前に、圧倒的に気持ちがよい。
間違いなく彼等が強力なニューウェイブとなることが、自然に納得できるサウンドであった。
さて、新プロコルハルムプロデューサーコンビからの答えである。
多分、彼等はAOR専門家であるため、その型に嵌め込む以外の発想はなかったと見える。そのプロデューサーチームを選んだ時点で答えは決まっていた。
ゲーリーがいるのでプロコルハルムの曲が聴けることは保証される。例えビートルズのカヴァーを歌おうと、彼のボーカルがある。しかし何でよりによってエイトディズアウイークか?エスペラントのエリノアリグビーのような奇跡的な大傑作カヴァーもあるなかで、この曲ではさすがのゲーリーも料理のしようがない。というよりそのまま歌うように指示されたのか?
しかし、彼が自分のしたくないことをしぶしぶ引き受けることは考え難い。恐らくこれを高らかに素直なスタイルで歌うことが気持ちよかったのだ。時代は気持ちよいことは、よいことであると積極的に評価する気風が高まってきた。
要は、彼等がどれほど気持ちよくアルバムを作ったのか、である。このようなアルバムを出すことが彼等にとって必要だったのだ。事実これまでより遥かに彼等を高く評価する評論家もおり、いつまでも彼等の青い影を追いかけるファンはプロコルハルムにとって足枷でしかない。とは言え、この方向性で彼等がずっと突き進むということは、ない、と容易に予想出来るモノである。曲は明らかにプロコルハルムのものであり良くできた物も目立つが。
どんなときもバリー・J・ウイルソンはテクニックを合わせてくる。ここがまた天才と言われるところだろう。

リゾート気分でリフレッシュしたような、いづれにせよ彼等がプログレの重厚長大押しつけのような畳みかけにアンチテーゼを打ち出したこの感性は、やはりただ者ではない。10年1日のごとく過去の成功曲を真似ているようなグループとは訳が違う。

このアルバムは他の彼等のアルバムと比較しても遜色のない楽曲で構成されているお薦め作品である。


10. Something Magic        1976
邦題が「輪廻」である。
よく付けたと思う。
とても内容というかこの時点での彼等の一区切りに合った邦題となっている。
なんでも、アランカートライトが行方不明になったとかで、ピート・ソリーという人がメンバーに加わり、オルガンとシンセサイザーを演奏する。シンセサイザーはこれまでも一部に使用されたことがあるが、シンセサイザー奏者をメンバーに入れたことは初めての試みである。これがかなりのテクニシャンであることが分かる。
ゲーリーもオーケストレーションとシンセをアレンジ上うまく使い分け、従来の格調高いクラシカルな楽曲がとりわけ良い出来になっている。個々の曲もそうであるが、アルパム自体もコンセプトがしっかりあり全体がひとつの流れを持って進行する。
ちなみにクリスはベーシストとなっている。

ひとことで言えば、プロコルハルムの集大成であり、記念碑的な完成作である。
これまでのクラシカルでハードで時にポップな楽曲が極めて高いレベルで作られ、アルバムとしてのまとまりも、申し分ないものだ。

彼等はまずここで解散するが、最期は多くのファンも認めるであろう、重厚ないかにもプロコルハルムといったブリティッシュロックで締めくくってくれた。
最期のアルバムはこういった形以外には、確かに考えられない。



これ以降のプロコルハルムを追う準備は今ないが、まだまだメンバーを変えて多くのアルバムを長期休暇後、発表していく。
バリー・J・ウイルソンが若くして事故死した後、また再びゲーリーの元にマシュー・フィシャーとロビン・トロワーが集まり、黄金期さながらのアルバムも発表している。
まさにプロコルハルムは不変であるが、もう二度とバリー・J・ウイルソンのドラミングが聴けない損失はあまりに大きい。何よりプロコルハルムにとって。言うまでもなくファンにとって。






2013年11月13日水曜日

Procol Harum プロコルハルム 8/10

7. Grand Hotel        1973
完璧な作品。

今後、どのようなアーティストが現れ、どのような作品が生み出されようが、本作がロックミュージシャンから生まれた「全音楽」の最高傑作であることに、いささかも影響は及ぼすことはない。これほどの作品は金輪際出ない。これは自明のことである。

"Grand Hotel "はプロコルハルムにとっても奇跡的な出来であり、彼等を最も適したメディアとして、彼等を通してはじめて具現された芸術である。
このようなものに触れると、Ideaというモノの実在を否応なく感受する。

芸術の本来の存在意味に、意識の拡張深化ー覚醒作用があるとすれば、彼等の音楽はまさにそれである。

いつにもましてキース・リードはシニカルで乾ききっている。
すべてを突き放す。
どんなに暗い世界よりも深い闇に。
ここには、中途半端な描写は一切ない。
一点の隙もない。
その徹底した意味で、フランツ・カフカの描く世界に酷似している。
ロマンティックな幻想など微塵もない。

そこに繰り広げられるただ虚しいだけの人間のありさま。
きらびやかに変幻する光と表情を失って舞う人々の一瞬の姿。
その表装を描くメロディーの美しさ。
そして意味の無い昂まり。
サウンドは渦を巻いて高揚してゆく、、、

そして、舞台の照明は完全に落ちる。
誰もがロバーツボックスにすがりつく。

自分の病を今更、治してもらおうなどと思いはしない。
救われる?
一体何から?

ただいまのこの痛み!
この耐えがたい痛みを何とかしてくれ!
この痛みだけでも、何とかしてくれ!
もう二度と来ないから
痛みだけ、
束の間でも消してくれ!

管弦楽とスイングルシンガーズを全面フューチャーしての大団円。
感動の終曲である。

われわれはいったいなににかんどうしているのか


前作での唯一の失点。プロコルハルムの歴史で唯一の汚点であるデイブボールのギタートラックを全て削除し、ミックグラハムのものに入れ替えたことで、このアルバムは絶対を獲得した。



8.Exotic Birds and Fruit        1974
クリストーマスの最後のプロデュースによるもの。
トータルとしてのコンセプトより、個々の作品に力を置いていることの判るアルバムである。
トゥジュールアモールがバタフライボーイーズに、という様な個々の楽曲はさらに力強く厚みを増し躍動している。
ミックグラハムはロビントロワーの抜けたあとを見事に埋め、プロコルハルムのサウンドに完全に溶け込み、作品をさらに魅力的にして余りある素晴らしいギターワークをみせている。

ハードでタイトであるが、以前のアルバムよりカラフルで曲ごとの表情がとてもゆたかだ。何よりゲーリーブルッカーが非常にエネルギッシュでパワーに溢れている。ボーカルも気持ちよい。ピアノもこれまで以上に走っている。
バリー・J・ウイルソンのドラミングはいつもながら非凡な個性をみせ、ミックのギターもドライブ感と重量感をもって駆け抜けていく。オルガンも厚みをもち彼らの曲のクラシカルな格調の高さを充分に醸している。
このアルバムでは、一切オーケストラは導入していないが、サウンドの厚みや表情は決して劣らない。

曲想的には、プロコルハルムは完全にゲーリーブルッカー=キースリードのグループとなり(戻り)、それを支える優秀なスタッフとしての演奏家が揃ったという感がある。
メロディもスッと入り込んでいつまでも残るものばかりであり、改めてゲーリーブルッカー=キースリードのコンポーザーとしての能力の高さが認識できる作品となった。

一般的な評価も高いアルバムであり、彼らの代表作のひとつに数えられる。
はっきり言って、あのアルバムの後に、またこれだけの仕事をコンスタントにできるポテンシャルの高さは並大抵のグループでないことを証明している。

この年、南イタリアからは、アルティ・エ・メスティエリなどの超絶技巧のクラシックにジャズアンサンブルを融合したアルバム1組曲というコンセプツァル作品を発表するアーティストも相変わらず出てきており(このTILTというファーストは凄まじいテンションのトータルアルバムであった)、キングクリムゾン、ジェスロタルも同様な練りに練った重厚なアルバムを出している。この後のプロコルハルムの方向性も懸念されるものであった。







2013年11月12日火曜日

Procol Harum プロコルハルム 6/10

5. Broken Barricades    1971
ここで何より印象的なのは、ロビン・トロワーがジミヘンばりのギターを弾きまくりはじめたことである。このギタースタイルはソロ(の大傑作アルバム)で見事に開花する。これまでになくロビンが前面に出てくるアルバムである。ものすごくカッコ良いプロコル・ハルムが聴ける。
イアン・アンダーソン率いるジェスロ・タルの在籍するクリサイスに移っての第一弾アルバムでもある。ジェスロ・タルとプロコル・ハルム。彼らはイギリスが誇る実力派アーティストの双璧である。どちらも常にプロフレッシブな姿勢を崩さない。(寧ろプログレッシブグループと言われているものこそ自分のスタイルを模倣し形骸化する傾向がある。)

この新しい環境での新アルバムは、「ヘビー&ソリッド&タイト」と言ってよく、バンドのエネルギー溢れるものである。演奏テクニックにはさらに磨きがかかりスケールアップした感がする。バリー・J・ウイルソンのドラミングは相変わらず超絶技巧で素晴らしく、そこにロビン・トロワーのフェンダー・ストラト・キャスターが縦横無尽に絡む。ゲーリーの作る旋律ーサウンドはヘビーかつクラシカルで、実に他のメンバーの演奏に融合している。ゲリーのボーカルもこのサウンドには水を得た魚のように非常にマッチして活き活きしている。

痛快なプロコル・ハルムが存分に聴けるアルバム。



6. Live in Consert with Edmonton Symphony Orchestra        1972
ロビン・トロワー脱退。
マシュー・フィッシャーに続き、これまでのプロコル・ハルム、彼らの彼らならではのサウンドの要を担ってきたメンバーがまた抜け、ここでゲーリー・ブルッカー=キース・リードの真価が問われるところであることは、誰の目にも明らかであった。

その答えが、これである。
このアルバムから、ギターにデビット・ボール、ベースにはアラン・カートライトが加わる。
ベーシストはライブも考えるとメンバーの加入は必須であった。
ギタリストについては適当な人材確保は時間的にも難しかったようである。

本作は、カナダのエドモントン・シンフォニー・オーケストラとカメラ・シンガーズが全面的に演奏・合唱に加わったものである。ディープ・パープルを始めロックバンドとオーケストラの共演は何度かなされており、成功した例もあるが、この時点でこの作品ほど高いレベルでの共演はなかったはずだ。プロコルハルムのクラシカルな要素が強調され、ゲーリー・ブルッカーのコンポーザーとしての才能・能力の高さが再認識されたアルバムとも言えよう。
特に、"In Held Twas in I"は2ndアルバムの名曲というより彼らの代表曲の一つであるが、ここではさらにグレードアップした演奏を聴かせている。あくまでもバンドがコントロールして、オーケストラと合唱団をドラマチックな高揚にしっかり活かしきっている。ライブでのズレや荒さはなく、とても緻密でダイナミックな演奏が実現されている。(実は1度演奏をやり直したらしい)
このアルバムは間違いなく、これまでのプロコル・ハルムの集大成であり、申し分のないクライマックスで締めくくられる。
セールス的にも正当な評価を得て、成功した。
プロコル・ハルムは不滅である。
ただ、メンバー的な立て直しは課題として残った。




2013年11月11日月曜日

Procol Harum プロコルハルム 4/10

3. A Salty Dog      1969
このアルバムは、マシュー・フィッシャーのプロデュースとなる。今作を最後に彼はグループを脱退する。ゲーリー・ブルッカーとの軋轢などが噂されるが真相ははっきりしない。その後、哀愁溢れるメロディーを奏でるハモンド・オルガンのたっぷりフューチャーされたソロアルバムとプロデューサーとしてロビン・トロワーの傑作ソロアルバムなど多く手がけていくことになる。
このアルバムでマシュー・フィッシャーは後のソロ活動に引き継がれる確固たる個性を持ったマシュー節の哀愁に鈍く染上げられた珠玉の名作を発表している。
ロビン・トロワーもギターテクニックだけでなくソングライティングの才能をはっきりと窺わせている。ボーカルはあまりに個性的であるが、多分好みのわかれるところである。
メンバー各自がおおらかに自分の才能を発揮する場となっており、各曲が明るく心地よいアルバムとなっている。面白いのは各メンバーが自分の担当楽器以外の楽器も演奏しており、リラックスし楽しんでレコーディングしている雰囲気が伝わってくるところだ。マシュー・フィッシャーのプロデューサー業の出発点であり、アーティストの意思を尊重し、開放的に才能を引き出す彼のスタイルが理解出来るものである。
このアルバムはジャケットとともに初期プロコルハルムを深くリスナーに印象づける傑作に数えられ、相変わらず「青い影」は付き纏うが、グループとしての認知度を確実に高めるものであった。ゲーリー・ブルッカーとキース・リードの中核コンビは言うまでもない高いレベルの仕事をしている。
このアルバムも個性的な楽曲が並ぶ割に"A Salty Dog"の雰囲気によくまとめられている明らかに成功作である。彼等の海賊のイメージはジャケットの絵の強烈な印象で、暫く続く。


4. Home      1970
コンスタントにアルバムを発表していく彼等であるが、ここにはもうマシューはいない。ベーシストも脱退しており、クリス・コッピングがオルガンとベースの両方を担当する。明らかに神々しいマシューの調べとは異なるオルガンではあるが、クリスのオルガンは今後のプロコルハルムになくてはならないサウンドの要となっていく。名曲をしっかり支える決して自己主張しすぎないタイトな調べを奏でていく。もちろん出るところでは腕を発揮する。
プロデューサーはクリス・トーマスを迎えている。プロコルハルムはたとえ誰がアルバム制作しようとブルッカー&リードがいれば不変のサウンドが保証されるものである。その点に何ら不安は介在しない。彼等は次元の違う天才コンポーザーコンビであるから。
基本コンセプトとしてこのアルバムはキースの詩が全体を見事にまとめていることは特筆に値する。「青い影」の頃のシュールレアリスティカルなものではなくはっきりと後の「グランド・ホテル」に磨かれ継承されていく世界観「生・死・老い・病、、、」が明確に描かれていく。

彼等の前身バンドであるパラマウンツのメンバーに戻ったことが分かる。それで"Home"というアルバムなのだと容易に想像がつく。しかしこれは明らかにプロコルハルム以外の何者でもない。
ある意味、スケールが拡がり骨太の力強いアルバムになっており、ヒット性の高い曲が多い。シンプルでストレートな印象が強いが、プロコルハルムの確固たる芸術性が中心にあり、単純なブルースだったり、カントリーだったりすることはない。どんな形式を借りようが、プロコルハルムは絶対であることを再認識させられたアルバムであり、彼等の辞書に駄作という言葉など無いと分かる、これもまた傑作アルバムであった。









2013年11月8日金曜日

Procol Harum プロコルハルム 2/10

プロコルハルムとは
プロコルハルムは物凄いコアなファンはいますが、薄いファンはあまりいないように思います。
ですから、ご紹介などしても、知っているヒトは必要ないし、知らないヒトは興味ない、と言うことにもなりそうな気がします。
ただ、私自身が大ファンで、「グランドホテル」はROCK史のみならず音楽史にも燦然と輝く大傑作であると確信しており、自分自身のためにも一度まとめておこうと思います。


1. A Whiter Shade of Pale       1967
まず、最初からロック、R&B、クラシックの要素が自然に融合した音楽であることがよく分かります。取って付けたような不自然なところはまるでありません。どれもゲーリー・ブルッカーの血が書かせた曲なのでしょう。
これは、彼等の基本スタイルとして、メンバーやプロデューサーが変わっても不変のものとして貫かれていきます。
どの曲もイギリス的で翳りがあり、ピアノ・オルガン・ギターの基本構成で格調の高い曲想を湛えたものです。
ゲーリー・ブルッカーとキース・リードのソングライターチームはプロコルハルムの中核として全く駄作のない優れた曲をこのまま10年間以上安定して作り続けていきます。
また、もちろん忘れてはならないことに、個性の光る非凡なソングライターであり、ハモンド・オルガンとブルース・ギターの類稀なプレイヤーであるマシュー・フィシャーとロビン・トロワーという存在、さらにバリー・J・ウィルソンという天才ドラマーが在籍していることです。
プロコルハルムとは、当初から完成された恐るべきスーパーグループ(適当な表現とは言えませんが)だったと言えます。
ただ、ここでは表題(当初は入っていなかった)曲とハンブルグくらいしか注目はされなかったようです。征服者も時折かかっていましたが。
「青い影」についてはことわるまでもありませんが、バッハとロックの相性は抜群です。トレースのリック・バンダー・リンデンを挙げるまでもなく。しかし、このような途轍もないヒット曲を放つことはアーティストにとって必ずしもよい影響を及ぼすばかりではありません。(マーケッティングの上では)


2. Shine on Brightly    1968

これはある意味、「青い影のプロコルハルム」を払拭すべく出された彼等の渾身の意欲作と言えましょう。アーティストたちは、一度大ヒットを出してしまうと来る日も来る日も引っ張りだこで同じ曲を演奏させられます。中にはそれが耐え難く心身ともに不調をきたしてしまう人もいます。その曲のイメージが邪魔となって生涯苦しむ場合もあります。
このアルバムは前作のような短期間で作った、単に小品を寄せ集めて収録したものではなく、完全なコンセプトアルバムであり、長い組曲も含め全体として充分に練られ制作されたものであることが一聴すれば納得出来ます。彼等がアルバムで聴かせるアーティストであることを誇示していることがよく分かります。
この時期には、ムーディ・ブルースが革新的なコンセプトアルバムを出していましたが、ムーディ・ブルースの方はかなりポップな雰囲気に包まれている(ウォルト・ディズニー的な)のに対し、プロコルハルムは大変荘厳なクラシカルな佇まいをもってインストロメンタルを中心に曲を構築しています。ゲーリー・ブルッカーとキース・リードのソングライターチームの実力がいかほどのものか、リスナーに印象づけるに充分なものでしょう。
ここでは、メンバー全員がしっかり自分の出番での演奏を遺憾なく披露しています。ロビン・トロワーも充分に個性を出し、バリーのテクニックはこのグループの名曲を支える上で、なくてはならないものであることがはっきり分かります。さらにマシュー・フィシャーは、ハモンド・オルガンでとても際立つ演奏を聴かせているだけでなく、ソングライティングでも組曲の重要なパートを作っており、頭角をかなり見せています。彼のボーカルもただ者ではありません。ソウルフルなゲーリー・ブルッカーのボーカル'(彼等がR&Bの要素を兎や角言われるのはこのボーカルに寄るところが大きいです)に対し哀愁を湛えた張りのある文学青年的ボーカルはブルッカーとはかなり異質な響きで耳に残ります。
しかし、強烈な個性たちもここでは一つの組曲の構築のためにぎりぎりのところでまとまり、混声合唱などの導入等、後の世紀の大傑作「グランド・ホテル」にも繋がるような感動的な構築美を実現しています。演奏に一切加わらない詩人キースの詩も独特なシュールレアリスティカルな世界を作り、アルバムに深まりと拡がりを与えています。彼等は詩も非常に大切にしています。
この詩を専門に書く詩人をグループに持つスタイルはベティ・サッチャーを置くルネサンスやこの後、Rockミュージックを根本的に変えるべく出現する、やはりピート・シンフィールドを詩人として擁するキング・クリムゾンの先駆けと言えます。
ROCKの名作は詩の出来が前提であることは、つい先頃急逝したルー・リードの曲を例に出すまでもありません。
間違いなく、"Shine on Brightly"は微妙なバランスの上に立った、60年代を代表するコンセプトアルバムの傑作(Best)と言えます。しかしそれがそのままセールスに繋がったわけではありません。但し実力の評価は成されました。


2013年11月2日土曜日

紀子の食卓から

そもそも家族とは何か?を描いた映画なのでしょうか。

端から家族とか家庭のとっぱずれた個人というか単独者の各行動を描いたもののように見えました。

それというのも、様々な関係から生じる齟齬や葛藤などの重なりなどで徐々に家庭環境が崩れてゆき、家族が解体するというような過程の物語がなく、最初から皆さほど家庭に目を向けていない人たちが勝手に飛び出していったというのがむしろ特徴ー印象的な映画でしたもので。

そもそも家族とは今ありえるのでしょうか。
つまりそのような機構=幻想の有効性。
さらにその必要性とは。

仮にその必要性を一番強く感じて頑張っていたのは父親だったように思われます。
が、この物語では、最もひどい加害者のごとく描かれています。
主人公の長女に批判されます。
どうなのでしょう?
母や2人の娘たちの方が家庭を軽んじていたようにも受け取れます。
むしろ父親はごくありふれた父親より、家庭を大切に思って生活を送っている人です。

突然、長女が家出し、すぐあと次女も出てゆき、心労から?母親が自殺し、と女三人はまったく自己中な行動をしまくり父親を苦しめます。
少なくとも、家庭・家族があると、それを自明のものと盲信していたのは父親一人だったでしょう。
後の女性たちは元々とりあえずひとつの家の中に集合していただけで、思いや意思は常に違うところにあったのではないですか。

つまりこの映画は家族の不可能性を描いてみせたものだと思われます。最初から家族は成立し得ない。もし作るとしたら契約の上、短期間だけ思いっきり紋切り型の仲の良い愛情と信頼と尊敬に支えられた家族というものを演じてみるのが面白い、ということになりますか。少なくとも仕事として成立する、ものであると。
するとやはり異質の人間であるあの父親はその幻想のために排除され、娘たちを追いすがる立場にならざる負えなかったのでしょう。

さいご商売なしでまとまったかに見える家庭から、妹が名付けられない何者かとしてひとり出てゆきます。そこには清々しさを感じました。



2013年11月1日金曜日

「国際墨絵展」を観て

国公募第25回 またまた相模原市民ギャラリーから

11/1~11/4 までです

全国レベルで公募し集まった作品だけあって。数も多かったですが、質も高いものでした。

基本的に真っ白い和紙に、黒い墨で硬質な細筆から面を意識したぼかしまで濃淡を使い分けて精緻にまた豪放に描かれたものが多数見られました。なおカラーで描かれたのは2点で、部分的に金箔(金色)を使ったものは3点ほど見られました。
やはり墨絵ということもあり、風景画が圧倒的に多かったです。

今回印象的であったことは、朦朧体のような全体がソフトフォーカスされた伝統的なものはごく少なく、題材や構図も含め大変ビビットでソリッドな表現(技法)のものが多かったことです。
また、墨絵であることから技法上念頭におくべきことは、白の表現です。白は抜いて描かなければならないことです。白を絵の具で表現できる油彩やアクリルと異なり、地から図を起こすように描くところに決定的な差が生じますし、水彩画と同様に描き直しは効きません。
しかしこの展覧会は「墨絵」ということを特に意識せずに、画像を純粋に楽しめるものでした。


ではいくつか気のついたものを記憶をたどって。

一番私が長く足を止めた絵は、高須茂章氏の「渓流」です。
構図にインパクトがあります。
この展覧会に集められた墨絵は、構図に空間的な広さを表現したものが少なくなく、近傍から遠方の空間を空気遠近法で木々の霞具合や霧の深まりを絶妙に使って描いた静謐なものが目立ちましたが、この絵は何より緊張感と力強さが特徴です。それがどのような表現かというと、なだらかな遠近ではなく、圧縮された近傍と遠景で思い切って構成されており、正面・間近にゴツゴツした岩石の間から川の水が小さな滝のように流れ落ちており、その上部遠景に少し霞んだ岩山が佇み、近傍の岩石が支え湛えている大変な圧力の水の表面を想像させるだけの川の構図になっているというものです。岩石の向こうの一段高い水面は描かれていません。ここにこの畳み込まれた遠近法の重量感があります。
物質感がよく出ている上に構図が秀逸です。


「雨のち晴れ」相馬律子氏の風景は、テクスチュアのインパクトです。
石肌と空の空気感の質感の違いが詩的に表されています。
マックス・エルンストのフロッタージュを思わせる石の質感は単にそれを似せようという次元ではなくシュル・レアリスティカルな物質感すら漂わせています。これは白を抜きながら細かい柄を描き分けるというだけでなく、濃淡と筆を複数使い分け塗り重ねも行われている様子が窺えます。重厚な物質感と儚い空の表情が対比によりさらに強調されます。
質感・気配を追求し続けると、エルンストの作品のようなシュール・レアリズム作品に接近してゆく良い例に思われます。
「陽光」大山よつ子氏の作品もマチエールにこだわりフロッタージュを利用したかのような物質性を充分に感じさせるものです。
質感では「明けゆく」有坂美津子氏の作品は雪や雪煙の質感が雪の重さの量感と空気感の動勢と相まって空間そのものの繊細で力強い運動(対流)をも感じさせるものとなっています。墨絵はことのほか量感・動勢・質感を出すことが可能なものであることが分かります。特に今回質感に優れた作品が多かったです。


「山路を行けば」山本英子氏の画像は面と線の描き分けが一番自然な形で際立って有効に描き分けられていたように思われます。ここが少しでも崩れると線そのものや面が浮き上がってわざとらしく見え、絵としては破綻してしまいます。
上に紹介した絵は、どれも画面までの距離によって違う相貌を見せますが、距離をどう取っても部分が調和せず破綻するようなことはありません。

今回展示されている絵には、線の入れ方、面のぼかし方に全体としてみると、ズレが窺えるものが数点ありました。建造物にも歪みが散見されるものがありました。

人物画には「ねぶた」「ミステリアス」藤森玲子氏や「昼下がりの港(トルコ)」虎田英里氏の作品が目立っていました。藤森氏のデッサンは非常に安定しており、ねぶたを踊っている人物(少女)の動き着物の柄顔や手の表情どれをとっても愛らしく見事にまとめられています。全く破れ目のない緊張感と優しさのある線で描き尽くされています。「ミステリアス」の婦人像は手馴れた線で椅子に座る凛とした女性を僅かなムダもなく描ききっています。まさに軽妙洒脱です。
虎田氏のものはトルコ人の働く姿の群像です。安定した構図で、単純化された形態でまとめられており安心して見られるものとなっています。墨を木炭のように使って描いたスケッチ(クロッキー)のように思えました。さらっと描かれているところに作者のデッサン力が窺えます。

人物画には明らかな意図せぬデッサンの狂いや写真からそのまま描き写したのが分かる説明的で量感のないものなどがありました。

仰向けで無防備におなかを丸々出した「吾輩はネコ「ギフト」である」小山器美子氏は猫の他にも「かぼちゃの自己主張」で静物を、「晩秋の山里」で風景を描いています。
どれも力作であることを感じさせない描き慣れた腕を窺わせています。
ただこれらの絵を見ると木炭を墨筆に持ち替えて見事なデッサンをしました、という感じです。
かぼちゃの絵もモノクロ写真に撮ったかぼちゃに見え、晩秋の山里も煙と枝の絶妙な対比に力を発揮しています。
このレベルですと安心して見れますが、どことなく優秀な女子美大生の作品に見えてしまいます。
この技量を持って、もう一歩対象に踏み込むとさらに面白い絵になるのではという期待感も持ってしまうポテンシャルが感じられます。


墨絵と聞いて連想する静謐でソフトな質感の詩的な絵というより、厳格にフォルムを追求し構図にこだわり、動勢・質感を厳密に追った作品が多く、認識を新たにすると同時にこの墨絵の可能性をさらに感じさせられました。



2013年10月27日日曜日

アルタード・ステイツ~肉体的制約から解かれる



変性意識。

この映画のイマジネーションの元となっているものは、すぐに気がつきます。
ジョン・C・リリーのアイソレーション・タンクによるあらゆる感覚を遮断した実験からインスパイヤされたものであることははっきりしています。
まさに同じ装置を使っていますし。
タンク内を硫酸マグネシウムを加え比重を大きくした水で満たし、光と音を一切遮断した上、水温・気温も体温と同じ温度にしたところにヒトが裸で入り、所謂無重力状態にして、ボディーイメージのないところで起こる現象を検証しようという実験です。
ここに、リリーはLSDも使って検証を重ねています。
映画ではカスタネダのようにメキシコに行きキノコ(テングタケ)を使っていますね。

この時期、LSDと言えばやはり同じようにヒッピーに多大な影響を与えていたティモシー・リアリーがいます。彼はこのアイソレーション・タンクの有効性は認めておらず、もっぱらLSDによる実験を続けていました。(後にはAPPLEがパソコンを世に出してからは、コンピュータの可能性にかけていきます)いずれにせよこの50年代後半~60年代は、サイケデリックムーブメントの中で、変性意識の虜に多くの人がなっていました。

変性意識という状態とは?
多くの実験者が経験した幽体離脱。高度な宗教体験(至高体験)さらには異なる知的生命体との交信etc.多くの報告がなされています。


この映画でも意識や思考の原点、生命の源を命懸けで求め探求する主人公の生理学者の姿が紆余曲折を経て描かれていきます。その過程で友人の医学博士や大学教授の妻との葛藤を繰り返しつつ、彼らが薬の危険性などもあり懸命に止めるも聞かず彼は強引に実験を重ねていきます。そして細胞の記憶を遡るうちに彼の姿はついに類人猿に退化してしまいます。

実験室を出て、外で大暴れします。動物園に侵入し鹿を殺して生肉を喰らい、生血をすすります。


意識の遡行が単なる幻覚を生むにとどまらず、物質化をみたことで、自分の理論の正当性を確信し、それを証明しようとします。
それと同時にその時の生の快感と充足感が忘れられず、人類の思考の原点を探るというより、より強烈な生の実感を得たいという原始的(無意識的)な生命力に魅了されていく方向を辿ります。
もう半ば科学者としてではなくすでに内に潜んだ類人猿の血がそうさせるように。
実験自体の危うさに加え、夫の制御不能な方向性への危惧で周囲はさらに不安を高めます。
妻たちはのっぴきならない事態を察知し、今度は実験室で彼を注意深く見守ります。
すると遡行をはじめて二時間ほど経過したところで、タンクや部屋を吹き飛ばすほどのエネルギーが夫から光とともに激しく放出され、妻の捨て身の助けで危うく命を救われることになります。

そこではじめて、主人公はその探求の恐ろしさと虚無を身に沁みて認識します。
当初妻が彼に訴えた「わたしは迷いながら生の実感を求めている。でもあなたは真実のために魂を売ろうとしている。」がここで強く説得力をもって蘇ります。
しかし時遅く、もう元に戻れない身体になっていました、、、。

最後は妻の愛に救われる落ちは、同様のものを観た記憶があるのですが、それが何であったか思い出せません。
しかしある意味これが理想的な決着なのだと思われます。

SFXの視覚効果もこの時期(1980年)になるとパタンが出来つつあり、腰を抜かすような衝撃はありません。しかし演出力は充分もったものになっています。話の展開もスピーディで緊張感に溢れる迫真のSF人間ドラマです。

ドラッグによる識閾下の探求は一時期かなりなされましたが、芸術における成果は見られたとしても、学問的貢献ーパラダイムシフトするような発見はなかったようです。しかしテーマは誰もを魅了するものだと思いますし、ある意味生きるなかでの探求は少なからずこのような冒険を含みます。特殊なSF世界ではなく、普遍性を十分に持った物語であることは間違いありません。





2013年10月26日土曜日

2つのソラリス~タルコフスキーとソダーバーグ

タルコフスキーの映画音楽を担当してきたアルテミエフによると、タルコフスキーは人に心を開かないタイプの人間で、16年間も付き合っても親密にはなれなかったということである。勿論、その間、自宅に誘って食事を共にすることはあっても、月並みな会話を交わす程度であったという。

フィルムでタルコフスキーの顔、表情、姿や仕草を観て、その事がよくわかる気がした。
孤高の人である前に、孤独から逃れられない人のように感じられた。

詩情溢れる郷愁まさにノスタルジアにタルコフスキー映画はつねに色濃く染まっている。

「鏡」「ノスタルジア」はその最たるものだが、この「惑星ソラリス」もそうである。

やはり
4大元素とりわけ「水」がいたるところで満ち、滴り落ち、うずまき、潜んでいる。
ヒトや想念はその中から次々に立ち現れる。
まさに郷愁を帯びて。
時間・空間を何気なく横断する亡霊のごとく。

こう言ったら乱暴すぎるが、タルコフスキーのソラリスはほとんど舞台は「鏡」と変わらない。
少しばかり部屋の内装が異なっているくらいで。
それくらいタルコフスキーの4大元素は本質であって普遍的であり自然である。
ソラリス(プロメテウス)も地球もない。
どこにいようと意識のあるものは、想念を持ち、意思を働かせ思考することをやめられない。
そして夢を見ることを。

多分、電磁波と重力のあるところならば、タルコフスキーの描くものは皆同じ光景になるはずだ。
そのため、タルコフスキーの作品はどれも超越的で普遍的で傑作に成らざるおえない。

取り敢えずスタンスワフ・レムの原作「ソラリスの陽のもとに」をもとに作ったとは言え、同じ原作から撮られた映画と比べる必然性はない。ある意味、タルコフスキーにとっては、原作などあって無いに等しい。もともと線状的なストーリー展開を映像形式においてことごとく壊し本来起きている重層性、多元性、同時性を表してきた作家である。彼にとってリアルであるのは「映画」そのものであって、現実ですらない。否、彼にとっての現実が映画であるのか。プロメテウスの船内に自殺したはずの妻が現れようと、幼い日の自分が突然居間に現れようと、タルコフスキーにとっては日常である。

彼の意識は全てを包含している。

ここまで言ってしまったが、ソダーバーグの「ソラリス」もよくできている。
ブレード・ランナーにもよく似ている。

ディテールの作り込み。
物質性。
光線・照明の繊細さによる画像の単純化と質感の強調。
音楽の映像との高いレベルでの融合。
両方の主人公とも、うどんとラーメン(ヌードル)所謂、日本麺を食ってる。
主人公を愛する女性が片やクローン、片やレプリカント。両者ともある意味、ハッピーエンド。
どちらも傑作SFの原作がある。ブレード・ランナーは「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」
「2001年宇宙の旅」を含め、これらの3作はSF映画の3金字塔と呼ばれる。
(「ソラリス」は勿論、タルコフスキー版であるが)

これを続けてもあまり意味はない。

ソダーバーグ版はタルコフスキーの先入観があり、どうしても不利な立場にあるが、実際に観てその出来栄えは破綻の少ないよいものであった。

映像と音楽がよく溶け込んでいること。
セットの質感が統一されており、照明が画面を単純化し厳かな演出が成功していた。
ディテールの作り込みがプロメテウスの現実感を保証するに十分なものであった。
あくまでもタルコフスキーのリメイクではなく、レム原作のSFをもとにした新作と捉えて、ハリウッドにしてはアメリカ臭さも少なく、とてもよい映画であると思う。1回見れば十分であるが。
(ちなみにタルコフスキーはすべて3回から12回同じものを観ている)

これは、両者の映画に対する前提と焦点の当て方の問題で、タルコフスキーは謂わば宇宙の基本原理の下で存在を描くが、ハリウッドはある意味、自我レベルのラブストーリーに落ち着く。スケールは異なり、描き方は限定されるが、それでは軽佻浮薄な物かといえば、十分に存在における深みを問う作品になっており、ジョージ・クルーニーも良い仕事をしている。しかし彼の裸体像を入れる意味はどれほどあったものか?
しかし全体のもつ雰囲気の整合性はとれており、最後に妻が現れ「わたしたちは許されたのよ」と言う場面は、まさにリドリー・スコットがブレード・ランナー、ディレクターズ・カット最終版で抹消した部分に重なるところであり、いまひとつその部分が何とかなっていれば格調ある映画の一つとなっていたはずである。

だが、久々にハリウッドのよい映画を見たという感想は持ち得た。


2013年10月20日日曜日

Klee~クレーの野心後半

クレーは宇宙を支配する法則ー原理の発見にひたすら専念した。
カンディンスキーと共に仕事を始めてから本格的にクレーらしさが窺えるようになる。
非常に実りのある出逢いであったことは確かだ。

カンディンスキーを中心にブラウエ・ライター~青騎士は、クレーの他にマルク、マッケ、シャガール、ヤウレンスキーによって結成された。
これほどの才能が一堂に集まることは稀有なことだ。

言うまでもないことだが「画家自身の内的欲求を満たすフォルムのみを使用する」とカンディンスキーの述べるように、もはや自然主義的なフォルムの再現など端から問題外のところから出発している。

しかしクレーはカンディンスキーの方向性・理論に深く傾倒しつつも、目で観ることの出来るものから完全に離れることはしなかった。
純粋な形体-音楽的な抽象へ一気に飛翔することはなく、モノの痕跡を残し暗示的で象徴的な神秘性溢れる芳醇な世界を創造し続ける。

あえてブラウエ・ライターの共通性を挙げれば、音楽性・抽象性の高さ、装飾的傾向の強さ、民族的要素が窺えるところだろうか。キュビズムの影響も感じられるものだ。

クレーはグループで知り合ったマッケとチェニジア旅行を、やはり多くの画家たちのようにしたが、この旅行はクレーに「色は私を捉えた、、、」と言わしめるほどの色彩に対する衝撃の深い体験となって、その後の作品に確かな方向性を与える。
線描の画家が色彩も捉え、色彩と一体となったクレーの芸術の完成度がさらに高まる。またこの地に見られる幾多の建造物はクレーの以後のモチーフに欠かせないものとして、クレーの内奥に幾何学的に醸造されていく。アラビア模様などとともに。

第一次大戦でカンディンスキー、ヤウレンスキーはドイツを去り、マッケとマルクは若くして戦死する。
クレーは自身の特質もあいまって、この経験でさらに確信を深めている。
形象の残骸は抽象化の素材となる。「贋の分子の巣くう廃墟、不純な結晶物の生まれる素地。これが今の時代なのだ。」
クレーにとって彼岸に完全な世界を構築することが絵画=抽象芸術制作の根拠となる。

グロピウスからの要請でバウハウスの教授となり、講義の傍ら自身の造形理論をまとめた。
「造形思考」は制作者側から提示された最も優れた理論書のひとつであることに間違いない。

「芸術は目に見えるものをあらためて提示するのではない。目に見えないものを見えるようにするものだ。」クレーの抱き続けていた野心は最後の二年間に向けて実ってゆく。

多くの天使たちと交わり、彼岸においても進化ー運動を止めない描線が続く。















2013年10月19日土曜日

Klee~クレーの野心

クレーはとても芳醇な画家である。

クレーは他の多くの画家がするようにイタリア旅行に行く。
ルネサンス期の大画家の作品も、勿論見るが、寧ろそれより遥かに熱心に、
ビザンチン・初期キリスト教美術、ロマネスク模様の寺院、バロック美術、古代のカリグラフィーを研究した。
そこにある宇宙的宗教観とでも言うべき世界観を自らのものとして確立した。
クレーの後の造形にとってかなり大きなインパクトがあったであろうことは見てとれるが、クレーの感性にまずフィットしたものであったことは想像できる。

さらに、ナポリの水族館での経験。これはクレー芸術の形成にとって決して小さいものではない。
クレーはそこで「休みなく小さな可愛い旗を廻している、沈没した汽船の幽霊、、、」や「骨董品のような格好」をしているクラゲ、「偏狭な人間そっくりに、耳の上まで砂にうもれているおかしな魚」や、ヒトデ、イガイ、「ゼラチンのような生物」たちから、形態のもつ自由な変貌の楽しさと深い神秘を吸収する。

また、クレー一家は音楽家一家であり、彼自身バイオリン演奏に大変な才能を示しており、青年期、自分が音楽家になるか詩人の道を選ぶか画家となるか、迷っていたという。
彼の絵画世界は単に形態の再現性における器用さから絵描きになった、というような他の画家にありがちなコースではなく、クレー自身、圧倒的な造形の技量ももっていながら、それを遥かに上回る詩的才能と音楽性を兼ね備えていた事が彼の絵画世界を決定付けたと言えよう。
彼の絵はよくモーツァルトに比較される。
詩人リルケが親友である。

彼は、自分でも「野心」という言葉をよく使う。しかし同年代のピカソのように早くから頭角を見せ、世間の評価を得ようということに関心はなく、「、、、わたしは俗界を捨て去り、本源そのものへと向かう。虚界を遠く脱したところにこそ『想像』の根源が潜んでいる、、、無限の可能性への信仰のみが心の中に、創造に励むべく活き活きと脈打っている」
彼は自身の直感にいささかも疑いをもたず、存在学的なアプローチで自身の芸術をじっくりと確立していった。「無限の虚空にまで達する」絵画を描きあげる野心である。
これには時熟を待つ必要もあった。
彼の作品は彼自身が死期を悟った、最後の2年間に集中して制作される。

数々の天使は彼独特の世界の象徴である。
此処と彼岸(異界)とを結ぶ、クレーそのときどきの表情のような。
芳醇な世界である。

今回画集を見直してみて、素描も含めるとその表現の幅、多様性にも驚くべきものがあった。
特に線描の美しさは他に比べるものがない。
改めて今後も長く味わい続けたい画家である。



2013年10月13日日曜日

フォトシティさがみはら Part-2

アマチュア部門の作品について

金賞 「夏の日」

この作品はフレーミングの妙に尽きるかと。
最終選考に残るような人たちはみな、玄人はだしの知識とテクニックをもっていますし、機材もプロと遜色のないものをガッツリ揃えています。
最終的に自分(精神)を入れた上で、どのように場を切り取ってみせるか、がポイントになるかと思います。

作品は対象を真上から見た構図がそままモンドリアンの絵画にもなりそうなほど洗練されています。川岸近く浮き輪に身を任せて画面左の岸側に向きつつ静かに浮かぶ3人の子供、水際にしゃがみこみその子供達と対面する黄緑とクリーム色の麦わら帽子の二人、川岸に川と平行に置かれた4本の青竹(その内最も川に近い竹だけ画面5分の3位のところで上方に途切れている)、画面下方端に青竹に120度の角度で何気なく置かれた白い傘、画面上部青竹に沿って並んだ海パン姿のスイカを食べる男の子3人が主(他は丸い小石くらい)な構成要素となります。
各要素が整然と構成されながらも変化(動き・揺らぎ)と調和があり、色彩配色も美しく、ウキウキするようなリズムが生まれています。観測者-作者のここだと息を飲み込む瞬間の息遣いが感じられます。

しかしこんな角度で撮れる場所ってなかなかないです。真上からです、、、。



銀賞 「砂塵」

日常の中のドラマというものは何処にでも誰にでもあります。
まさにそれをわれわれに思い起させてくれる写真です。

公園でしょうか?不意の突風に砂塵が巻き起こり、ベビーカーに乗せた子供を咄嗟に庇う夫婦の写真です。砂塵が舞えば、恐らく誰でもこの夫婦と同じ姿-行為を見せることでしょう。
小さな一瞬のドラマではありますが、
謂わば人類の普遍的な、もっと言えば記念碑的な姿でもあります。
ただ一瞬の面白さを狙っただけの写真とは明らかに一線を画するものです。

平素から作者の基本的に持っている理念-精神がこの画像を瞬時に捉えたのだと思います。
他のカメラマンでしたら、もしかしたら目を閉じ顔を両手で塞ぎ、レンズを向けることなど思いもよらないかも知れません。
身体的に感覚的に対応するには、相応の意識水準が固められていなければ不可能でしょう。

ドーミエが描くような美しい画像です。壁に飾るより大切にアルバムにおさめておきたい写真です。そしていつか子供が何気なく見てくれるといいな、と思います。

ことごとく、人は自分の見たいもの(知っているもの)をのみ見る。



銀賞 「橋の上の七夕祭り」

手前、かなりの高所を長く中空にひかれた七夕飾り。
その遥か後方の橋の上に静かに祝う人々の姿。
われわれの時空とは異なる場に入ってしまったように見えます。

こういう七夕祭りがあるのですね。
明らかに日常の場とは断絶した(ハレ)の場が出現しています。
ある意味、祭りの本質を捉えた厳かな作品と言えましょう。
光の加減もそれを際立たせるものです。
少しオカルティックな情景です。

確かに最近~祭と名打ったものに接しても、
それがいかに大規模なものでも、質的に日常の延長であり、異化された光景の見えないものが多いように思われます。運動会をやってるような。(運動会も祭りの一種とは言えなくはないですが)
異界の者に出会いそうな、アルタード・ステイツを呼び込む何かが欲しいです。

この写真の場合、橋というのが象徴的ですね。



銅賞 「至福の時」

どうやら仮説住宅で生活を続ける人たちの写真のようです。
他の作品に比べて、目立って平面的で明るくはっきりした画面です。
明度・彩度ともに異様に高い。

奥行というものが一切感じられない。
深みというもの、過剰な意味を締め出した、
というよりすべてを洗い流した感のある写真です。

ある意味、本当の写真というものかも知れません。
みんなが座敷に座って、レンズ(カメラマン)の方を向いて微笑んでいます。
否、笑っているのか。

それ以上語るなと言う力強い「写真」です。



銅賞 「夕雲の丘」

そう言えば純然たる風景写真というものは数が少なかったように思います。
まさに夕日の時刻の作る空と大地のアナーザー・ワールドです。
それが丘ときていますから、尚更でしょう。

トワイライト・ゾーンは最もアルタード・ステイツが発動する場-時空です。
こういった光景を撮る事自体の意味・価値は大きなものだと思います。

ただ何もここまでドラマチックで大きなスケールでなくとも、
もっと何気ない日常的な事象において、この精神を発動させても良いはずです。
むしろその方がわれわれを強く揺さぶるのではないかと思われるのですが。

われわれの寄って立つ日常生活の活性化において、
丘という超越的な場より、部屋の中などに焦点を置くのも良いかも知れません。
外でも、庭の花壇とか。毎日乗っている自転車とか、、、。
ケ→ケ枯れ→ハレの循環を考えても、当たり前の物の異化という形で。

作者は壮大な美しい絵が欲しいのかも知れませんが。



市民奨励賞 「満月の花見」

この光景をフラッシュ焚いて撮りでもしたら、恐らく入選も逃すでしょう。

被災地で頑張っている写真機メーカーのS****がありますが、
それを使い強い光源の下、極めて対象を精緻に撮ることが一方で流行っています。
これまで見えていなかったモノも可視化させてしまうような威力で。
それはそれで大変なインパクトを持ち、その方向でのさらなるテクノロジーの発展は大事です。
しかし写真の方向性としては何でも微細に克明に捉えなければならないことなどなく、
仄かに朧げで、幽かに窺い知ることのできる光景ーリアルさもあることを伝える必要があります。

太陽光は熱量などの無駄なエネルギーが多すぎます。
月の冷光で対象を撮る。
ここではじめて浮き上がってくる光景があるはずです。
お寺の鐘楼とお花見の2人の人物。

リアルな光量。過不足ない情景です。




この他、入選作が多数展示されていました。かなりのテクのものが多かったです。

最近ブログなどでマクロのすごい精緻な画像をよく見かけますが、その手の作品は入選作には2点ほどでした。SIGMA DP* Merrillの持つ超高解像度とFoveon ダイレクトイメージセンサーではじめて可能となる画像があり、圧倒的な再現性を誇りますが、そういったスタティックなものはあまり見当たらず、逆に一連の動きの中のまさにシャッターチャンスを見事モノにした、幸運な瞬間映像がかなりを占めているようでした。日光の下のマクロ撮影に最適化されたSIGMAの最も苦手とする領域ですが。

やはり動きは、物語を不可避的に孕み訴えるものも強いことは確かです。
訴える点にあまりに力を注ぎ、過剰なパソコンによるレタッチが目立つものも多かったようです。
入選には 残りませんでしたが、想像はつきます。
使用カメラはもう殆どが、デジタルになっているそうですが、
アッジェなどの写真に一回戻って、考えるのもよいかも知れません。

2013年10月12日土曜日

フォトシティ相模原 市民ギャラリー(セレオ4F)を見て

またまた相模原市民ギャラリーからのレポートとなります。
今回は、プロとアマの写真展です。

総合写真祭フォトシティさがみはら
という催しで

基本理念が掲げられています。

ここに転記します。


相模原市は21世紀の幕開けに当たり、


総合写真展「フォトシティさがみはら」を創設しました。


写真は優れた記憶の装置として、


また、現代美術における表現手法として広く親しまれ、


私たちの生活に欠かせない存在となっています。


相模原市は未来への可能性を備えた写真をキーワードとし、


時代と社会を考え、語り合うことで、


新世紀における精神文化の育成に貢献します。



(政令指定都市ですし、何かやりませんと。地方分権・市民福祉の増進など、、、。)


プロの部です

志賀 理江子(以下敬称略)

「螺旋海岸」と題された作品群で、30枚の写真によって構成されていました。
すべてカラーです。
1980年生まれとカタログにあって、びっくりしました。
写真作品を見るとどうしても60を過ぎたベテラン作家に思われてならないものがありましたので。

「快適に整えられ自動化された日々の生活と社会に身体的な違和感を感じるところから表現を始めた」そうです。
そして身体と密接な土地との関係を求め宮城県を見出し、その後何度も訪れて太平洋側の北釜を発見します。現在そこに暮らしながら地域のカメラマンとして制作活動を続けています。

非常に物質的な、場所というものを志向した写真だと感じます。
人も写っていますが、あくまでも茫洋とした風景の一部として、
または何かの影のごとく、屍体のように在ります。
誰が執り行っているのか分からぬ何かの儀式や痕跡(穴)も見られます。
宇宙人も寄る辺ない石ころのように、ころがっています。
その土地を形作る鉱物の写真は、まるで肖像写真のように厳かに精緻な表情で撮られています。
鉱物の写真はすべて時間?数値で記されていました。
写真を撮った時間帯は夜(深夜)か、夜明けのトワイライトゾーンのように見えます。
草や木が生き生きとした異次元の動物のように待ち構えていたり、
ヒトも一体となった不思議な存在となって場所を形作っています。
観測者ー撮る側も数式に組み込まれて成り立った世界です。



野村 佐紀子

「NUDE /A ROOM /FLOWERS」と題された作品群で、23枚の写真がありました。
モノクロが大半を占めており、カラーも彩度を押さえたモノトーンに近いのものです。
1967年生まれということですが、ある意味伝統的な手法を正当に継承した作家に思えます。

題にある通りの題材で構成された写真のひとつひとつ。
一目見て感じられることは繊細さです。
そして永遠を求める静謐な孤独感。
それぞれが郷愁に裏打ちされた詩的世界の短編小説です。
ひりつく写真群。

ひたすら誠実に自分の心象風景を長年追い続けてきた写真家に違いありません。



クルサット・ベイハン

「故郷から遠く」と題された20枚の写真。
カラッカラに乾いた労働者たちと部屋や街並みの写真です。
すべてが想い出、遠い日の亡霊のように写っています。
今はありもしない場所の記録。

トルコは東西の経済格差から東から西へと労働者の歴史的移動が80年代から90年代にかけて起きていたそうです。
イスタンブールにやってくる労働者の数は、2009年から2010年の期間で2倍以上になりました。
電気と水道の使用を制限され、キッチンもバスルームもないひとつの部屋に10人で住み、残してきた家族に仕送りをして生活をしているといいます。
そのことは写真が雄弁に物語っています。
これ以上ないほどに、荒涼として殺伐として。
ここに人間的な感性が残されているのか、そんな疑念が頭をもたげるほど。
そんななか、「イスタンブールで働く父から贈られたウエディングドレスを着る2人の少女」が砂漠の中の小さなオアシスのように労働者の中にはさまれていました。
しかしウエディングドレスを着るのはいくらなんでももっと先のはず。これは意味のない贅沢ではないのか?そのサイズを見てすぐに思います。その不合理を。でも、
彼らが本当に残した娘たちに送りたいものは物や金よりも、日々不毛な労働に消耗し尽くしてもなお、ギリギリのところに残る「思い」そのものなのではないでしょうか?それがなければ、もはや生きる意味も失ってしまうような。

娘たちの微笑みを見てそれを思います。大変禁欲的な無口な写真ほど地下水脈のような詩情を秘めています。



田代 一倫

「はまゆりの頃に」2011年4月15日から被災地の人々を撮り続けた写真から20枚。
一枚に必ず一人写っている写真です。
しかも皆前をしっかり向いています。
写真家は、一言を被写体と交わしてから撮っているようです。
すべての写真には日付と街の名前が付いており、それが作品名となっています。
まさにその場所の写真です。
瓦礫の山の中、地べたは隠れていても。
この作業は今も継続されており、すでに夥しい記録の数となっています。
普通、人物をひとり正面から撮った写真は、何か異様な付加価値を醸します。
ダイアン・アーバスなど特にその例に入ります。
しかし、ここにいる人たちは何も求めない写真家の視線に素直に応えているだけです。
もはや個人的な欲求を上回る使命に従って生き始めた清々しさをみてとれます。
画像の裏側には隠すべきものなど何もない、すっかり洗い清められた自明な世界があるだけです。
これからそれぞれに大変な作業が続く人たちですが、どれも晴れやかな気持ちにさせられる写真群です。


10/11~10/28の期間、開催

2013年10月10日木曜日

水の不思議

水素原子がつくる104.5°という角度が水を特徴付けるのか?

DNAの螺旋・カタツムリの殻も構造・松かさの模様・ヒナギクの花芯部の配列がそれだという。
深い意味のある角度に違いない。
たいがいの分子では、原子は45°60°90°という規則正しい幾何学的な結合をしている。

水は他の物質がしっかり持っている、法則をことごとく破る。
ものすごくありふれたものなのに、極めて特殊なもの。
構成は2個の水素と1個の酸素からなるが元素自体が水素の場合、質量は1だが、同位体は2または3のものも存在する。酸素にしても原子量は16であるが、同位体には17,18のものがある。分子量が18から24に渡る計18種の組み合わせが可能となる。同じ構造式であっても性質はかなり異なり、まさに種々雑多な化合物と言える。


まず誰でも知っている、液体の状態の方が個体の時よりも密度が高く、固体・液体・気体の各状態を持ち合わせる化合物は水しかないこと。氷は水に浮く。分子間距離は水より氷の方が広い。
また酸としても塩基としても振舞う。そのためどんな物質とも反応する。
水は特殊な化合物である。

それから非常に強力な溶剤であること。
なんでも削り溶かしてしまう。
陸地は今も少しずつ水に地形を削られている。
水の力からは何物も逃れられない。

水は比熱が他の物質より大きく、暖まりにくく冷えにくいため、急激な温度変化を抑えている。
太陽は地球が誕生後、放射するエネルギーはすでに3倍に増えている。
しかし海水が、熱を蓄え、熱を遍く移動させて気温を変動を抑えていることが分かる。
赤道付近から始まる貿易風の力も借り、大規模な対流と熱交換そして蒸気から雪へのその華麗な状態の変化、さらには月と太陽の力(重力)も借りた干満によって深海の水を海面にまで戻すことにより、エネルギーを放出させ均一に安定した状態にしている。


水は生きている。農家が儀式で水の入ったバケツに粘土を入れ、その水に向かってセレナーデを人々が歌う。明くる日にその水を畑に蒔くと、それをやらない農家より30%多い収穫が得られたという。水の性質上ほとんどあらゆる物を取り込むことができるが、土と音楽もとりこみかなりの効果を生む。昔からの慣習は確かな意味を持つ。


水は地表の71%砂漠の砂にも15%含まれ地球を覆っている。
太陽系を見ても水が液体で地表に保持されているのは地球だけ。
地球の質量・重力から言って、水素原子を引き止められるものではなかった。
水を合成し保持できること自体奇跡であった。


最初の水は、雨だった。
熱い地表の遥か上で渦巻く蒸気が凝結し、
その後、何百年間降り注ぐこととなり、
はじめての水を受け入れる地表は激しく削られ
光が射し込むのはそのあと。

雨への憧憬。
その時の処女のみずをのみこんだ瑪瑙。
その水影に眺め入る瞳。
無意識の拠り所。
太鼓のリズムー想い出が重く揺らぎ。
わたしもむろん、同じ水を宿し。

水は海に集まり気象を作り出し
台風や竜巻の原因を作る。
洪水。雪崩。津波の猛威と
幾何学的で危うい精緻な雪の結晶。可視光線の美しさを思い起させる虹。
わたしたち地上の生物が生命を維持できるのは
本当に微妙な狭間。

奇跡の水の惑星。
だからこそ遠方から見て美しい。
ラピスラズリの青。
巨大なひとつのせいめいたい。

水に支えられつつ
無意識から意識の明るみに放たれ
地表からあらん限り離れようとしても
他の動植物とともに
相変わらず地表のひとつの層を生きているヒト。
わたしたちの集合無意識はその干満のリズムに
揺られて再び海に行き着く。










2013年9月30日月曜日

Linsey De Paul~リンジー・ディー・ポールご存知?

Linsey De Paulをご存知ですか?



彼女は1950年ロンドンに生まれた、シンガーソングライターです。
どの曲でも、ボーカルとピアノ、作曲・作詞、プロジュースを自分でしています。
最初はなんとデザインの仕事についており、アルバムジャケットデザインなども手がけていたそうです。その合間に作った曲を聴いてもらったら、そのままレコーディングへ、自分のアルバム作りへ、となったとか、、、。

遠い遠い昔に聴いた人なので、いくつかの曲しか、思い出せません。
すべて塩化ビニール製のLP版なのですぐに聴きなおせる環境にないので済みません。
でも、今でこそ聴く価値のある大変、質の高いケレン味のない素直な楽曲ばかりであることは保証します。
メロディーラインとボーカルが魅力で、ピアノの伴奏だけで聴かせてしまいます。
いまのシンガーで誰に似ているとか、言いにくいですね。
とてもシンプルに思えてかなりのオリジナリティーがある証拠でしょう。
同時期にオリビア・ニュートン・ジョンがいましたが、才能では圧倒的にリンジーだと思います。


インタビューから:

*ピアノを始めたのは4歳のとき、1日だけやって11歳からずっと続けた。バッハの影響が大きい。
作曲は20歳からしている。

*好きな他人の曲は、スティービー・ワンダーの「迷信」

*あなたのチャームポイントはの問いに、「どこでもないか、またはすべて」

*あなたのくせは、「なんでも自分でやること。考えるのに時間がかかること。捨てることができないこと。」

*一番思い出の深い曲は、「宇宙からの訪問者。宇宙人が地球にやってきたら神と間違えられたことを歌った曲。」

*音楽家になっていなかったら何になっていた、「漫画家」

*一番行ってみたい国は、「家に帰ってくるのが一番好き(旅行は好きだが)」

*あなたのモットーは、「(わたしが)だれである前に、なにであるかを大切にしている。」


アルバムですが、私の持っているものは:


リンジー・ディー・ポールの魅力 MAX20というKINGレコードのMAXシリーズという企画もので、最初期のシングルで出された曲などが17曲詰まったお得感のあるもの。多分日本だけの特別編集版であるはずです。
ここには大ヒット曲”SUGAR ME”を始め、”宇宙からの訪問者”や”恋のためいき”、”オールナイト”などキャッチーな曲で溢れています。
なんといってもどの曲もシンプルで印象に残るフレーズをもち、ハスキーで可憐なボーカルが特徴です。キャロル・キングが大人のできるOL的な女性なら、彼女は背伸びしたご令嬢風の女性に感じられました。”SUGAR ME”は来日して歌番組で何度も歌っていました。いまでも記憶に残っています。鍔のある少し大きめの如何にも少女っぽい帽子をいつも被ってピアノを弾いていました。


さらに、TASTE ME DON’T WASTE MEというイメージチェンジを狙った妖艶さを醸すタイトルとジャケットですが、中身も程よい長さの10曲で構成されており、これまたロマンチックで聴かせる曲ばかりです。格調高いStringsもかなり入っていて曲だけでなくアレンジにさらに幅が出ています。初期の可憐さから成熟した女性の世界を歌っています。当然といえば当然ですが、"My Man And Me"や"When I'm Alone With You"に顕著に見られます。また、"Living Again" "When I'm Alone Whith Me"も落ち着きのある格調高いポップスです。全体に、お洒落で心地よい上質なときを楽しめるアルバムになっています。ポリドールレコードから発売。例の帽子は卒業したようです。


もう一枚は、LOVE BOMBというタイトルに迫力を感じるものです。タイトル曲も力強い出来です。ジャケットを見ると最初の頃のイメージはもう無くなっています。今、気がつきましたが彼女はマリリンモンローと同じところにほくろがあったのですね。アルバムに戻りますと、10曲入りで、MAXの頃より曲自体のグレードは確実に上がっており、聴き応えのある曲で構成されています。彼女自身のプロジュースも充実を見せ、アルバムとしても成熟さと子供っぽさが同居する変化に富んだよくまと待ったものになっています。レゲエ調の曲やアップテンポのロックもありシングルでヒット出来る曲が多く、アレンジも凝ってきています。特に”Crystal Ball”や”Season To Season”などの夢心地になるようなファンタスティックな曲には才能を感じさせます。帽子は大人ののもにブラッシュアップして戻って来たようです。帽子が好きなんですね。ポリドールレコードから発売。良質なポップのお見本的な作品です。傑作です。





2013年9月21日土曜日

イバラード~パラレルワールドとしての

井上直久の画集をもとにちょっとしたレポートをお送りしたいと思います。

わたしは確か、家の近所のホールで初めて彼の展覧会に接し、うーんボナールみたいな色遣いだなあーっと想いつつ題材は宮崎駿的で、こう言うのも有だな!とかなりすんなり腑に落ちました。これまでにあまりそういう印象をすぐもったことはありません。というのも、新しく見る絵(音楽や小説)は多少なりとも受け容れに抵抗がある場合が多いものですから。
井上氏の絵については多分、多くのヒトが受け容れるタイプの絵だと思われます。まず、ボナールはポスト印象派のナビ派の画家ですが、基本的にその色づかいは印象派の流れのもので印象派好きの日本人には受け容れられやすいものです。さらに世界観が宮沢賢治にも通じるものが多い。

描かれている対象は、重力を制御できるわれわれのパラレルワールドともいうべき世界です。ちょっとしたタイミングでそっちに行けてしまいそうな世界です。だから何とも言えない郷愁と焦慮の念が込み上げてくるような世界なのです。あなたが昨日、夢の中でいた世界かも。



パラレルワールドとしての
イバラートとは井上直久によって発見・紹介された世界であり、我々に対して広く開かれた場所である。
イーハトーブの近傍にあるやはりわれわれの世界(と一括りするが)とパラレルに存在する世界のひとつ。
波長を少し上げることで、移り住むことのできるところである。

そこでは、重力が制御できる。細く高い塔からの緩やかな空中落下を楽しむことが出来る。
住人たちは、シンセスタという思念を他者と共鳴させる方法で鉱物を媒介にしソルマという思念像を現出させることが出来る。想ったモノがそのまま空間にたち現れるということだ。

われわれのすぐ隣にある普通の世界であり、旅行ではなく、波長を上げるだけで移れる世界。
勿論、井上氏、宮沢氏は頻繁に行き来している。
住人たちは、みな涼やかな面持ちで思慮ぶかく、やや孤独を好む傾向あり。


*イバラートとは
井上直久のこの世界での住居のある大阪府茨木市が、イハトーブの上空入口に繋がる。
西は吹田市がスイテリア(バイオとハイテクの国)
東は高槻市がタカツング(ラピュタとレアメタルの国)となっている。

イバラートにはラピュタという浮遊する小さな鉱物群(浮島)や小惑星が無数に宙(軌道)を廻っている。
建造物には高くそそり立つモノが多く、塔が目立つ。また植物が覆われていることが多い。
交通手段として、高速鉄道「ジーマ」がある。またレトロな市電も使われている。

ごく普通のヒトとモグラやカエル、トカゲ、培養人間、森の人などが共存しており、
コウイカや恐竜、爬虫類、めげゾウなどとも意思疎通が出来る。
なお、ラピュタは店でよく売買されている。光るもの(ラピスラズリ)を売る店が多い。



*これまでの紹介(資料)
スタジオジブリの宮崎駿監督の映画「耳をすませば」に部分的ではあるがかなりの露出を果たす。
これは、はっきり言って画期的な現象である。
異なる波動の存在を同時に同じ場に置くことはできないため画像という形でコラージュした成果だ。

われわれはここにありながら、耳をすまし、目をみはることで、イバラードを実感することが出来た。
「上昇気流」が何であるかを知った。
その波動世界を彩る色彩は、ナビ派の画家ボナールの描く空間を想わせた。

わたしはある時期までは、画集を購入して彼の進展を追っていました。
イバラード博物誌、空の庭・星の海、ジパングの岸辺、世界はあなたのコレクション
、イバラードの旅、3-Dイバラード(ここまですべて架空社)、虹化石の街へ(サンリオ)

それ以外に、

その街―イバラード博物誌〈4〉、水わく丘―イバラード博物誌〈5〉、思い届く日―イバラード博物誌〈6〉、イバラード物語―ラピュタのある風景、星をかった日、等があるようです。とてもよいイバラードカタログであるはずです。行ってみたい方は是非、旅行案内にも使えるかと。



2013年9月20日金曜日

鉄人28号 音楽集CD壱・弐の2枚ご紹介

鉄人28号 音楽集(1・2)


どちらも千住明氏の作品集です。
原作:横山光輝
監督:今川泰宏

わたしは幼少期、最初の白黒TVを毎週楽しみに見ていました。
日曜日の8時8チャンです。スポンサーはグリコです。
白黒なのにその頃を鮮明に覚えています。
金曜日頃から小さな胸がワクワクしはじめます。
土曜の午後になるとハラハラしはじめます。
日曜日は朝の8時からドキドキです。
一日中、鉄人のことを考えて過ごしました。
時間になって、鉄人が舗装道路に影を落として歩いて来る。
そして”ガオーッ”と雄叫びをあげたら、もう100%入り込んでいました。
こんなにTV番組に夢中になれたことがあったでしょうか?!
後にも先にもないでしょう。


壱には、千住氏の略歴と鉄人28号と進め正太郎の歌詞が載っています。

弐では、千住明氏自身ライナーで、鉄人の音楽を書くことは自分の半生を振り返ることだと述べ、
白黒テレビを食い入るように見つめ、鉄人の活躍に一喜一憂したことを活き活きと綴っています。
なお、リメイク版ではなく、昭和30年代版であることを何より喜んでいました。
家の壁に鉄人の絵を描いたり、主題歌をみんなで歌ったり、銀座に行くとビルの陰から鉄人が出てくるのではないかと期待したり、鉄人のリモコンがとても欲しかったことなど同じ鉄人ファンとして共感できます。
「僕は昭和を語り、鉄人の性格を創り、鉄人に音楽で血を流すのである。あれだけ欲しかった鉄人のリモコンを、今僕は音楽という形で手にしている。」
羨ましい限りです。

さらに、弐にはお宝画像として、鉄人3号、6号、12号、26号、27号の絵も載っています。こういう形してたのですね。
その上、ブラック・オックス、バッカス、ギルバード、ロビー、VL2号、サターン、ギド、カニロボット、ファイアⅡ世、ファイアⅢ世や正太郎他の登場人物もすべて載っています。それを見るだけでもとてもワクワクし想いに浸れます。

というところで、音楽を紹介というものの大変難しいことなので、収録曲をあげておきます。
鉄人の番組最中にかかるとても感動的な音ばかりです。特に、戦いの最中やクライナックス時期にかかる”増殖する危機””蘇る無敵の兵士”など聴くたびに血が騒ぎます。正太郎の孤独と悩みを表現したかのようなバイオリンとピアノだけで進行する重厚な楽曲”鉄人の正体”またすべてが終わった後の”慟哭と悲哀””希望の光明”のレクイエムのような美しさ。希望を感じさせる”朝は再び”と感無量になる”正太郎と鉄人”、、、記憶を呼び覚まし、また見てみるのも良いですね。
2004年4月7日からテレビ東京で放映されていました。全26話。すべて録画して見ました。感動しました。





それ行け鉄人2:44
葬りさるもの1:59
悲しい終着点3:29
復興と進化2:18
あなたに微笑みを1:17
ひなたぼっこ1:48
鉄人28号 (夕焼けヴァージョン)1:45
シンフォニエッタ28番1:31
進め正太郎 (サイクリング・ヴァージョン)1:12
あなたとミルクコーヒー 1:52
Iron Blues1:54
28th Street2:08
悲劇の行進2:36
回想の絆3:56
闇にうごめくもの2:17
慟哭と悲哀 4:02
希望の光明2:43
蘇る無敵の兵士2:20
鉄人28号 (TV Size)1:35
進め正太郎 (TV Size)1:10




鉄人28号 (Tv Oa+Se)1:34
ブラックオックス2:02
増殖する危機2:09
事件記者、 村雨2:04
鉄の兵器1:46
新元素バギューム2:02
父の遺言2:04
京都の恋1:52
あなたと踊れたら 1:38
今はねむりましょう1:54
鉄人の正体2:55
朝は再び1:40
正太郎、 一人… 2:44
ブラックオックス (Tempo Up Version)1:24
正太郎の決断1:48
正太郎と鉄人1:59


壱:KING RECORDS 3000
弐:同上